少しだけ広くなった部屋をぐるりと見渡す。殺風景なそこにどこか寂しさを感じる。 「銀」 名前を呼ばれて振り返る。彼女が微笑みながら立っていた。両手に持った缶ビールを揺らしてちょっと飲まない?と言った。それもいいな、と返して缶を受けとる。 ベランダの窓を少しだけ開けると涼しい風が部屋に入ってきた。プシュ、とビールを開けて喉を潤す。独特の苦味を舌先に感じて息を吐く。 「久しぶりだね、二人で呑むなんて」 「そうだな」 今日は月が出ているのか。ほんのり明るく光ってすべてを照らしている。それを見ながらもう一度ビールを口に含む。 「大学卒業したらどうすんの?」 「……言わねェ」 「えー、なんで?」 「言ったら絶対笑うもん、お前」 「笑わないって。試しに言ってみ」 「…教師になりたい、って考えてる」 言ってから猛烈に恥ずかしくなって、またビールを煽った。 「へー、銀が教師かあ」 「なんだよ文句あんのかコノヤロー」 「いや、いんじゃない?似合うよ」 意外にも笑ったり、バカにしたりされずにあいつは静かに笑っいた。いつもとは違う雰囲気に調子が狂う。 「お前はどーすんの?」 「あたしはー、普通の会社員かな」 「なんだそりゃ」 「ぶっちゃけまだ決まってないんだよね。ホントどうしよ」 「まァ、ゆっくりでいいんじゃねェの?」 「うん」 それからまたビールを一口。沈黙が生まれたが、不思議と気まずくはない。あっという間に350ミリリットルの缶ビールはなくなり、軽くなったそれを床に置く。二本目を開けようか、とぼんやり考えていると不意にあいつが立ち上がる。 「そろそろ行くのか?」 「うん」 空の缶を持って俺も立ち上がる。そこら辺にあったビニール袋を手に取り、缶を入れて口を縛る。くるりと振り返って、もう一度部屋を眺める。床についていた小さな傷痕をそっと撫でる。これは喧嘩した時にあいつが物を投げてできた傷。そしてこれが俺がお揃いのマグカップを割ったときにできたもの。あの時はむちゃくちゃ怒られて、仲直りするのが大変だったな。 思い出すといろんなことがあった。楽しいことやつらいこと。懐かしさに目を細めていると、後ろから声をかけられた。 「終わったよ」 「おう」 「…なにしてたの?」 「大したことじゃねェよ」 そっか、と軽く微笑んであいつがドアを開ける。隙間から月の光が射し込んで綺麗な像をつくる。 「それじゃあ、もう行くね」 「送らなくて平気か?」 「うん、大丈夫」 少しだけ見つめあう。いつの間にかそんなに髪の毛が伸びたんだな。目の色だって思っていたよりずっと茶色い。 「銀」 「あ?」 「今までありがとね」 「…おう」 「甘いもの、食べすぎないでね」 「ん」 「……それじゃあ、元気でね」 「お前もな」 「ばいばい、銀」 最後にやわらかく微笑んで、あいつは背を向けた。俺はただ黙ってその後ろ姿を見つめる。 押さえられたドアがゆっくりと閉じていって、そしてあいつの姿は完全に見えなくなった。少しの間そこに突っ立ってドアを見つめ、部屋に戻る。がらんとした部屋に慣れるにはまだ時間がかかりそうだ。 テーブルの上のライターを手に取り、煙草に火をつける。薄暗い部屋に小さな明かりが灯る。煙を吐いて、天井を見上げた。いつもと同じはずなのに、少し違う気がする。人が一人いなくなるだけで、部屋は姿を変えるらしい。 そういや、明日レポート提出だった。唐突に思い出してテーブルに散乱したルーズリーフを引き寄せる。ふと何かすごく小さなものが落ちていることに気づいた。じっと目を凝らすと、それはまつげだった。なんの変哲もない、ただのまつげ。それを指で摘まんで眺めてみる。自分のものより長いそれはおそらくあいつのだ。それは彼女がここにいた、という確かな証拠。まだ彼女の香りがするこの部屋で、俺は少しだけ泣いた。 090620 title 6491 |