朝、やぼったいカーテンを引っ張ると痛いくらいまぶしい太陽がのぞく。そして壁一面に貼られた写真たちにおはようと挨拶するのがわたしの一日のはじまりだ。
異常――わたしの愛情は形容するならば異常という言葉が一番しっくりくる。狂気じみていると自覚している。気づけば好意を抱いていて、気づけばこうなっていた。やめなければいけない、こんなことおかしいって。それでも想いは止まらないのだから仕方がない。だったらばれてしまわないようにうまく立ち回る術を学べばいい。
起床は6時。7時に家を出て、朝練に向かう。それが終わってから教室へ向かって授業を受ける。終わってからはまた部活。たまの帰りにコンビニに寄り、夏はアイス冬は肉まんなどの間食をする。帰ってからはお風呂に入り、夕食。寝る前に勉強をして就寝は12時過ぎ。テスト前は1時ごろ、試合前は11時ごろになる。
一日のスケジュールはきっと本人よりも正確に熟知している。
トシの左ななめ後ろ。そこがわたしの席だ。授業中、こくりこくりと舟を漕ぐ姿もつまらなそうに校庭を眺める姿も見られるこの場所はわりと気に入っている。
今日はどんなトシが見られるのだろうか。
数式が書きつらねられた黒板をノートに書き写すのにも飽きて、視線を動かす。珍しくトシの右手にはペンではなく、黒い携帯が握られていた。メールが苦手なようで人のスピードよりはるかに遅く、打ちにくそうに画面に触れている。相手はきっとそう――カノジョだろう。最近できたらしいその存在に、もちろんわたしが気づかないはずがない。だけどトシは彼女ができたと直接言ってわたしに紹介するような男ではない。それでもわたしが問えばそうだと頷くくらいには素直だ。
チャイムが鳴り、中途半端におわってしまった授業に嘆きながら教師は教室を出ていく。それを合図に一斉に生徒が立ち上がって、めいめい片付けやおしゃべりに興じる。トシもいつものように部活に行くため荷物をまとめている。
そんなトシの目の前に立ち、にっこり笑ってみせる。
「今日、彼女は?」
「……知ってたのか」
突然に話しかけられたわたしと、彼女という単語に驚いたらしくすこしだけ驚いたように目を見開く。
「まーね」
わたしに隠し事はできないよ。
「…今日は部活あるから一緒に帰らない」
そうね、それも知ってる。
「ざーんねん。どんな子か見たかったのに」
B組の出席番号19番。趣味は音楽鑑賞、買い物。家族構成は父・母・弟。部活には所属せず、委員会は保健委員。ざっとしたプロフィールはすでに知っている。
「いずれな。じゃ、行くわ」
口の端を上げて笑って、その大きな背中に去年の秋口に3150円で買ったカバンを担ぐ。じゃーね、と見送ればひらひらと手を振って応えてくれる。
さあ、わたしもやることをやらないと。陽が傾きはじめた教室で、学生鞄を肩にかける。ポケットにカッター、先の尖ったシャープペンシル、ホチキスを入れてB組の教室へ足をむけた。
「土方くんってかっこいいから、一緒に歩いてるとちょっと優越感あるよね」
「まさか顔で選んだの?」
「男なんて顔でしょ。」
「うわ、あんたサイテー」
品のカケラもない笑い声が響く。
来る者拒まず、というスタンスでいるトシも悪いとわたしは思う。だからこんなつまらない女に引っかかるんだよ。
こういう類の人間は少なくない。トシは邪見に扱うくせにけっして切り離したりしないから、それに甘えてトシについて回る。しまいには自分だけが特別だなんて勘違いする輩もいるから処理に困る。
ああもう本当に、不快だ。
「あの」
ため息を飲み込んで、普段よりやや高い声を出す。そしておずおずといったように教室のドアをくぐる。わたしの存在に気付いたふたりが話を止め、こちらを見た。
「××さん、保健委員のことで先生が呼んでるよ」
ああ、名前を呼ぶのも汚らわしい。そしてこの女の名前をトシの口からつむがれているかと思うと本当に殺したくなる。
煮えくり返りそうな腸を真面目そうな女子生徒という仮面で隠しながら、女を連れ出す。馴れ馴れしく、何の用だろうとわたしに話しかけてくるいまいましい口をどうやって塞いでやろうかと考える。そうして適当な言い訳で空き教室まで誘いこむ。
「それで、先生が私になにを手伝ってほしいって言ってたの?」
うつむいていたわたしを不思議に思ったのか、肩に手を置かれた。制服越しに感じる体温が気持ち悪くて、吐き気がする。思い切り突き飛ばして数歩醜くよろめいた女を鼻で笑う。
「なにすんのよ!」
「ねえ、」
キリキリと音をたててカッターの刃がゆっくり出てくる。ひっとあげられた小さな悲鳴は聞こえないふり。
「もう充分でしょ?」
あんたはもう充分トシを味わったでしょう?土方十四朗という人間をひとり占めしたでしょう?あんなかっこいい男が自分の隣にいてくれる。そんな状況をもう思う存分に楽しんだ。それだけでもういいでしょう。
ビュッと手首だけの力でカッターを投げる。ビイインと壁に突き刺さるそれは、女の頬すれすれ。ずるずるとその場にへたりこんだ女にゆっくり近づいて同じ目線になるよう膝をつく。
「消えてよ」
目の前から、この世から。目障りなのよあんた。
涙をためて意味をなさない言葉を漏らしながら、走って逃げていくさまを横目で見送る。薄暗く、蒸し暑い空き教室にただひとりわたしだけが残された。そうして壁を傷つけたままのカッターを取って小さく開いた穴を撫ぜた。
たとえば自分の好きなものを表す基準が情報の量だったり、関係するものを持っていたりすることだとすればわたしのトシに対する想いはきっと大きなものだろう。一室が埋め尽くされた写真を一枚一枚思い返してみる。あれは、体育祭のときトシがリレーのアンカーを務めたときの。それは修学旅行でアイスクリームを半分こしたときの。いつ、どうやって撮られたものかなんてすぐにわかってしまう。
好きかと問われれば大好きだと胸を張って宣言できる。トシのことをどれだけ好きか、どれだけ知っているかなら誰にも負けない自信がある。だけどトシ本人を目の前にしてしまえば、わたしはただのクラスメイトに成り下がってしまう。きっとこれから先、トシが何人もの女の子と付き合おうと結婚してしまおうと、わたしが想いを告げることは絶対にないだろう。
ずっと一緒にいれたらいい。「ずっと」なんてないことはもう当にわかっているけれどそう願わずにはいられない。それなら始めなければいい。始めがなければ終わりは来ない。わたしがトシに好きだと告げない代わりに、わいてくる馬鹿な女からトシを守ってあげる。トシを傷つけるものから、わたしが守ってあげる。
わたしが、ずうっと。永遠に。