『名前さん』 懐かしい人が何度もわたしの名前を呼ぶ。はい、と返事をすれば柔く、そして満足そうに笑った。 「……夢か」 ゆっくり開かれた世界はあの木造の平屋でなく、まだ見慣れない天井。そっと目を障子のほうへ向けると外はまだ薄暗い。 布団をめくってつま先を出せばひやりとした温度が伝わる。春が近いとはいえ、まだ冬だ。 ミシッと音をたてる廊下の先には食堂。あとすこしでここに隊士たちが集まって朝ごはんを食べるのだろう。 「お手伝いします」 腕まくりしながら言えば、女中さんが困ったようにまゆを寄せる。以前のような理由を口にすると、すんなり場所を開けてくれて早速わたしも用意をはじめる。 最初は女中さんにお皿の場所やなにをするか、いちいち尋ねていたけれど今まで料理店で働いていたこともあって、すぐに仕事をのみこんだ。ドタドタ走る音や話す声が聞こえたかと思ったら食堂に大勢の隊士たちがやってきた。 次々に出される注文に応えていく。目がまわってしまいそうな忙しさに、普段からこの騒ぎに対応している女中さんに感心してしまう。 「はい、ご注文は?」 「……こんなとこで何してる」 お皿を片付けていたため、相手も確認せずにお決まりになっていたセリフを投げる。ふわりと香ったタバコと低い声で誰だかわかってしまった。 「あ…」 土方さん、と呼びかけて昨日咎められたことを思い出して口をつぐむ。なんて呼んだらいいかわからなくて、ぽつりと意味もない言葉が生まれた。 「ご、ごめんなさい。わたしはただ」 「日替わり定食」 「…え」 「日替わり定食くれ」 なんて言おうか、考えていた途中で遮られた。それがわたしのやっていたことを黙認することに決めたのか、ただのきまぐれなのかはわからない。 はい、と小さく返事をしてひたすら手を動かす。 じっとわたしの手元を見るこの男が言いようもなく、怖く感じた。 * 「近藤さん」 お風呂に向かう途中、あの人の声がして足を止めた。名前を呼ばれたのはわたしが初めてここへ来た日に優しく接してくれた、真選組の隊長さんだ。 してはいけない、と思いながらもそっと聞き耳をたてる。 「あの女のことなんだが」 「名前ちゃんのことか?自分の奥さんをあの女なんて呼んだらいけないぞ、トシ」 「…名前のことで話がある」 「ああ、なんだ?」 自分があの女と揶揄されたことに、なぜだかひどく胸が痛い。そして初めて呼ばれた名にすこし、本当にすこしだけどこか奥のほうがざわつく。 「正直、俺はあいつのことがよくわからない」 「どういうことだ?」 「なにを考えているか、ここでどうしたいのか。まるでわからねェ」 ふっと息を止めた。彼が、わたしのことを話しているのを聞くのははじめてだ。わからねェんだ、ともう一度だけそう言った。 「なァ、トシよ」 「…」 「まだ結婚したばかりなんだ、焦るこたァねえよ。互いのことがわからないのは仕方のないことさ。ゆっくり知っていけばいい」 「…ああ」 雰囲気で近藤さんがゆるく笑ったのがわかる。それからふたりは会話もなく、おそらく酒でもあおっているのだろう。 バレないようにそっとその場を離れてお風呂場まで向かう。 『なにを考えているか、ここでどうしたいのか。まるでわからねェ』 わたしも、そうだ。 自分がなにを考えて、どうしたいのかわからない。自分が生きる理由さえ忘れてしまった |