花薄 | ナノ



ゆるりと目を開けた。
長時間うつむいたあとに、急に顔を上げるとわずかに視界が揺れる。

見渡すかぎり灰色。最近見た灰色以外の色はなんだったか、忘れてしまった。
ふと、自分の頬に触れてみる。かさついていて、きっとみっともなく痩せてしまっているはずだ。ここには鏡がないから確認することもできないのだけれど。

どれだけの時間が経過して、どれだけの間わたしはこの暗い灰色の箱のなかにいたのだろう。十四郎さんはきっと来ない。先生のことを知られてしまったし、なにより彼のあの顔が忘れられない。めったに表情を変えない十四郎さんが目を大きく見開いて、頭の回転がはやい彼がなにも言えずにいたこと。……きっともうここには来ない。もう一度そう思ってそっと目をつぶる。

取り調べは続いているけど、高杉くんの居場所なんてわたしが知るはずない。もう同じことを何度も聞かれて、何度も知らないと答えてきた。
あちらもイライラしているのだろう、少しずつ言葉が乱暴になり声が大きくなっている。でもなにも知らない、言わないことにも気づいているようだ。だから近いうちにここからは出れるだろう。

でも、そのあとは?
ここから出たそのあとは?誰がわたしを迎えに来てくれて誰とどこに帰るというのだろう。
実家には帰れない、笑顔で送り出してくれた母になんて言って帰ればいいのか。お金もないからどこか遠くへ行くこともできやしない。広い広い江戸に、わたしの居場所はあるのだろうか。
鉄格子から見える世界は、あまりにも小さかった。



「知りません」


もう何回も口にしたこの言葉はすっかり板についてしまった。ひっそりとため息を吐いていると、誰か慌てたように取調室に入ってきて天人に耳打ちする。すると、慌てたように席を立ってどこかに消えていった。
今日の取り調べがこのまま終わればラッキーだなんてのんきにそんなことを思っていると、外が騒がしくなってきた。なんだろう、と顔を上げると同時に激しい音ともに扉が開いた。


「大丈夫か」


珍しくあせったような顔をして、額にはうっすらと汗がにじんでいる。口元の煙草は投げ捨てられてしまったのか、その姿は見えない。


「………十四郎さん」


会いたかった、あなたにすごく会いたかった。
あれだけ会いたいと願い続けた人がいま、目の前にいる。


「………名前?」


ゆっくりと近づいてきて、呆然としているわたしを心配するように顔を見つめる。こんなところにいたせいで醜くなった自分を見られたくなくて慌てて顔を背けた。


「大丈夫、です」


なにが大丈夫なのかはわからないけどなにか口にしなければいけない気がして。助けてほしかった、会いたかった、来て欲しかった。のに。
十四郎さんの顔が見れない。


そこからはよく覚えていない。肩に毛布をかけられて、十四郎さんに背中を押されてそこから出た。久しぶりの外は、わたしなんかがいなかったことをまるで気にも止めずに動いていた。
パトカーに揺られながら見える景色は、色や音に溢れているのに車内は驚くほど静かだった。

屯所はなんら変わりなく、わたしがいなくなる前と同じ姿をしていた。


「…名前」


おそるおそる名前を呼ばれる。いつもはもっと自信に満ちている十四郎さんの声は、母親の機嫌をうかがう子どものようにか細い。


「すこし、部屋で休んできてもいいですか?」

「あ、ああ」


疲れてしまった。ひとりになりたい。

久しぶりに足を踏み入れた自分の部屋はきっと誰かが掃除してくれたんだろう、綺麗なままでホコリも落ちていなかった。ひんやり冷たい畳に布団もひかず寝転がる。コンクリートのそれとは違う冷たさが心地良い。
すこしずつ体温が畳に移っていくのがなんだか新鮮で、冷たさと温かさの間でうつらうつらしてしまう。


「名前」


そんなわたしをゆっくり引き上げたのは低く響く声。閉じかけた目をゆるく開けると、月明かりに照らされた影が障子ごしに写る。


「…少し、いいか」


うん、とも言えずただじっと見つめる。
影は迷うように二三度揺れた。


「お前自身の話を聞いてから、正直疑った。復讐のために嫁いできたんじゃないかって考えた」


ぽつりぽつり紡がれる音は、きっと彼の本音。
顔は見えないけれど、必死に向き合おうとしてくれていることだけはわかった。


「でも、もういい」


きっぱりと言い放つ。


「お前に裏切られてもいい。憎まれてもいい。」

十四郎さん

「愛してる」

十四郎さん

どうして男の人は、こっちがうじうじ悩んでいることをなんでもないかのように飛び越えてしまうのだろう。答えを出してしまうのだろう。

ぽたぽた、水滴が畳を濡らしていく。止める術がわからない。
我慢できなくて嗚咽がもれてしまう。泣いているだなんて恥ずかしくて手の甲で口を押さえながら呟く。


「十四郎さん」


ガラリ、と勢いよく障子が開いて月を背にした彼が立っていた。


「名前…、どこか痛いのか」


横になったまま泣きじゃくっているわたしの姿を見て、なにか勘違いしているらしい。普段見たこともないくらいおろおろと戸惑っている。
そんな情けない姿が、もうどうしようもなく愛しくてかわいくて。思いきり首もとに抱きついた。


「十四郎さん」

「ああ」

「十四郎さん」


存在を確かめたくて、夢じゃないと信じたくて何度も何度も名前を呼ぶ。
すん、と鼻を鳴らして息を吐くと真っ白な空気に変わった。


「名前」


首に回した手を優しくほどかれて、すこしだけ距離をとる。泣いてひどくなったであろう顔を見られたくなくて目は伏せたまま。
まつげについた水滴を払うように形をなぞらえて、甘い重みがまぶたを通じて身体中を駆け抜けていく。それから自分のそれとは違う体温が唇に触れた。


「おかえり」


口の端をゆるりと上げてそう言う土方さんが眩しくて、また泣きそうになる。


『あなたは生きてください』

先生のいなくなった世界で生きていく理由なんてないと思っていた。なんて酷なことを言うんだろうと思っていた。
でも先生、あなたは生きていればきっと良いことがあるなんてなんの根拠もないことを堂々と言ってのける人だから。だからあのとき、先生がどうしてそんな言葉をわたしにくれたのか今ならちょっとだけわかる気がする。


「ただいま」


わたしの生きる意味はたしかにこの腕のなかにある。



end