「……くそ」 タバコの火を消そうとすると、すでに灰皿がいっぱいになっていることに気づいて眉を寄せた。 最近いつもこんな感じだ。徹夜して完成させた書類に茶をぶちまけたり、前はきちんと把握していたはずのマヨネーズのストックが切れていたり。 原因はわかっている。 眉間に寄ったシワをもみながらため息を吐いた。 名前が行ってしまってから数日が経った。あいつが高杉率いる鬼兵隊となんらかの関連があると聞いたときは信じられなかった。いや、今もか。 あんなひ弱そうな、いまにも壊れてしまいそうな女が獣のような危険すぎる男と関係があるだなんてありえねえ。一応俺の配偶者ということもある厳しい追及はないと思うが、甘くはないだろう。 泣いてないだろうか。 元気だろうか。 名前の過去になにがあったかは知らないが、それがもどかしくてなにもできない自分にただ腹がたつ。 「…はやく、帰ってこい」 一人じゃつまらねえんだ。 * 「さっさと吐け!」 「…何度も言っているように、わたしは鬼兵隊の一員ではありませんし彼がどこに潜伏しているかなんて知りません。」 チッ、と忌々しそうに舌打ちをする天人をぼんやり見つめる。 「そろそろ休憩にしましょう」 おそらくその天人の部下なのであろう男がそう提案する。その声に促されるようにして仕方がない、とばかりに立ち上がってドアの向こうに消えていく。 もう何日も何時間も同じことの繰り返しだ。高杉くんの仲間だと勝手に決めつけられて、挙げ句の果てに居場所を吐けと問いつめらる。何度知らないと言ってもまったく聞く耳を持たない。 うんざりするような灰色のコンクリートの壁を見つめてまたため息が落ちる。 ……いま、十四郎さんはなにをしているだろう。なにを思っているのだろう。きっともう会えないと覚悟しても心が、身体があの人を求めてしまう。すこしだけでいいから顔を見たい、触れたい。 「十四郎さん」 名前を呼んで、抱きしめて、そしてできることならわたしを許してほしい。 「……お前」 ぼんやりと紙を眺めていた天人が急に輝いた表情になる。そしてくつくつと心底楽しそうに笑いだした。 「そうか、そうだったのか!」 がたりと椅子を倒して勢いよく立ち上がった。 「貴様、吉田松陽の女か」 「…」 「思い出したぞ!あのとき寺子屋にいた小汚ない女だ!!」 今さら思い出したの、と言いたいくらいだ。こっちはあんたに会ってすぐに誰だかわかったっていうのに。 忘れられるはずがない。先生を死に追いやった張本人を。 「しかし今は真選組副長の妻…ということは」 目玉をぎょろぎょろ動かしてなにかを懸命にたぐりよせているようだ。そんな様子をわたしはどこか遠くで眺めていた。 すこしの間そうしたあと、合点がいったとばかりに目を輝かせる。 「スパイだ!あの男を殺された復讐に真選組に侵入したんだ、そうだろう!?」 スパイ…? 先生を幕府に殺された復讐のために、幕府の狗と呼ばれる真選組にこっそり潜入したってそう言いたいの? 「…がう」 「あ?」 「違う!!」 お見合いで真選組副長という文字を見たとき、確かに心がざわめいたのを感じた。先生とは正反対の立場の人。それだけじゃない。鋭い目付きも話し方もなにもかも先生とは違っていた。 だけど、スパイとか復讐とか考えたことは一度もない。むしろ前向きになろうと思って踏み出した一歩だった。その気持ちまで愚弄してほしくない。ましてやこいつなんかに。 「貴様ァ…!」 「なにを聞かれてもこれ以上話すことはありません」 殴り飛ばして殺してやりたいほど憎い。 だけどきっと先生が――そしてなにより十四郎さんがそれを望んではいないから。ぐっとひざの上で握りこぶしをつくる。てのひらに爪が食い込むのを感じながら目を閉じる。 つらい時、思い返すのはいつも先生のことだった。先生の言葉や笑顔がわたしの支えになっていた。 だけど、いまは違う。 『名前』 十四郎さんがわたしの名前を呼んでくれるだけで強くなれる。十四郎さんがいるだけでわたしはいま、息をしている。 すこしずつ塗り替えられていく気持ちに、もう嘘はつけなかった。 |