いつかこんな日が来るだろうとは思っていた。
彼は留学してきたのだからいつかは帰るのだろうと、もちろんちゃんとわかっていた。だけれど私、明日から舜くんにはもう会えない、なんて、嘘、心のどこかでそう思って、いた。だってあんなに毎日会っていたから。毎日あんなに野球してたもの。そうは言っても野球部の部員に帰国を惜しまれる彼の姿を見て、毎日胸が締め付けられた。あっ、やっぱり、帰ってしまうのだな。そう思ってから、彼と言葉を交わすたび、涙があふれそうになる。でも、悲しむのは彼が行ってしまってからにしよう。最後くらい、笑っていたい。どうせなら笑った私を、覚えていてほしい。
彼が日本を出る前日は、会わないようにしようと思っていた。会ったら多分、泣いてしまう。会ったら多分、行かないでと言ってしまう。だから当日空港で、いってらっしゃいと言うだけにしよう。

「明日、会えないか」

だから彼にそう言われたとき戸惑った。どうしよう。会いたい、会いたいけれど、会ったらきっと彼に迷惑をかけてしまう。断ろうと思った。けれど彼の思い詰めたような深刻な顔を見て首を横には振れなかった。明日家で待ってる。絞り出すようにそう言うと、舜くんはありがとうと笑った。なんで?


次の日やってきた舜くんはいつもとなんら変わりない様子だった。いつも通りの生真面目な顔で、私の前に現れた。おはよう、と言う舜くんにひきつった笑顔で返事をした。頭に大きな手が置かれた。見上げると、彼は柔らかに笑みを浮かべていた。眼鏡の奥の瞳が細められていて、いつもの眼光の鋭さはない。舜くんが私にだけは穏やかな顔をしてくれることが自慢だった。だけど今は、胸が痛い。そんな、なんでそんな。どうしたんだと彼が言って、頭に置かれた手がそのまま髪を梳いた。わかってるくせに。優しい手つきが憎らしい。
彼を部屋に上げても私は何も言えなくて、俯いてカーペットのホコリをむしる。掃除、したつもりだったんだけど。舜くんはずっと、私を見ている。泣きそうだった。顔を上げたらなんて言われるんだろう。目覚まし時計の秒針の音すら聞こえる静寂、舜くんの息づかいが、つらい。
どれだけ黙っていたのか、わからない。舜くんが、そっと私に触れた。そこで初めて顔を上げた。舜くんは私に会いたいと言ったあのときと、同じ顔をしていた。頬に触れる彼の男らしい指。野球のために丁寧に手入れされた長くて綺麗な指。熱い。好きだ、とはっきり言われる。熱い。頬も胸も目頭も全部。ゆっくり近づいてくる彼の顔。ゆっくり、やさしく、唇を落とされる。

「舜くん、やめて」
「嫌か」
「ちがう。泣いちゃう、」

ぎゅう。こんなに強く抱きしめられたのは初めてだ。おそるおそる彼の背中に手を伸ばす。洗いざらしのシャツを握りしめた。舜くんが私の背中をなでた。ブツブツなにか言っている。日本語じゃ、ない。何を言っているのか、わからない。知りたい、ねえなんて言っているの?
私、彼の国もその言葉も、彼のことだってなんにも知らない。彼が台湾の言葉を喋っているのを、これまでまともに聞いたことがあっただろうか。いつか台湾の言葉を教えてとねだったことがあった。そのとき、ニーハオとシェシェは、台湾ではリーホゥ、トウシャということを教えてもらった。私の知っていた中国語はそれきりだったから、私は彼の国の言葉を全く知らなかったことになる。とても悔しかった。舜くんは俺が日本語を話せるんだから、何も問題はないと言った。そうじゃないよ舜くん。私、全然知らない。舜くんのこと、全然知らないじゃないか、私。明日からもう、会えなくなるのに。
そう考えたらもう堪えられなかった。ずっと我慢してた涙がぼろぼろぼろぼろこぼれてきて舜くんのシャツに染みを作る。鼻をすすった。私が泣いているのに気づいた舜くんが、私の両肩をがっしり掴んで向き直らせた。彼はとても、悲しそうな顔をしていた。ごめんね。ごめんね舜くん。私が泣いちゃ、だめだよね。

「舜くんごめん、私、」

私の涙を拭くように、顔中に何度も、何度もキスをされる。掴まれた肩が痛いくらいだ。これでもかとキスを降らせる舜くんがどんどん前のめりになってくる。ついな舜くんが私の唇に長くて深いキスをしたとき、私は大きく体を反らせる形になっていた。息が詰まりそうだ。舌が絡み合うこんなキス、初めてだった。唾液が絡み合う。ゆっくりと舜くんが私を床に寝かせたときようやく解放された。さっきまで掴まれていた両肩がジンジンする。息が苦しい。何度胸を上下させてもなかなか呼吸が落ち着かない。私に覆い被さる舜くんを見ると眼鏡が少しずれていた。野球部であんなに鍛えているはずなのに、舜くんもほんの少し息が荒かった。なぜか小さく謝った彼の顔に手を伸ばして、ずれた眼鏡のブリッジを上げる。その手に舜くんが自分の手を重ねて、手のひらに舌を這わせた。どくどく脈打つ心臓がうるさい。そして唇が寂しかった。まだキスをしていてほしい。もっと、してほしい。その感覚を忘れられないくらい。

「…悪い」

舜くんが突然我に返ったようにハッとした。そのバツの悪そうな顔が理解できない。どうして謝るの?私、うれしかったのに。私がいつも、恥ずかしがるから?そんなこと今はどうだっていいのに。舜くんを感じていたい。あなたの体温を、匂いを、全身で。

足りないよ

何事もなかったように座る舜くんに、私はそう言った。はしたない女だと、ろくでもない女だと思われたかもしない。舜くんは目を丸くしていた。さっき上げてあげたばかりの眼鏡のブリッジをまた上げる。浮ついた頭は、彼のことしか考えられない。ねえもっとさわってよ。いつもは手を繋ぎたいとさえ気恥ずかしくてなかなか言えないのに、今日は迷わず言える気がする。舜くんが、ほしいよ。舜くんがまた私を押し倒した。私は舜くんと初めてのことに及ぶ間、ずっとずうっと泣いていた。


全て終えた頃には、日が大きく傾いていた。そういえばお昼ご飯も何も食べていない。私のおなかが間抜けな音で鳴ったのを彼は聞き逃さなかった。呆れたように笑って、もう泣いていないかと問うのだ。会おうと思えばそのうち会える、舜くんが言う。
そうだ、会えなくなるっていったって、台湾なんてすぐそこだ。飛行機で沖縄に行くのとなんら変わりないだろう。パスポートがいるかいらないか、きっとそれだけの違い。バイトをがんばって、少しお金を貯めればすぐ行ける。きっとそうだ。舜くんとちゃんと繋がれた、その実感がなんだか心を軽くした。会おうと思えばそのうち会える。だから別に泣かなくていい。泣く必要なんてまるでない。ヨーロッパとかアメリカとか、ましてや地球の反対側じゃない。大丈夫。今はスカイプとかラインとか、いっぱいある。いつでも話せる。だから泣かなくていい。舜くんがんばって、絶対会いに行くから。そうやって言えばいいのに、こうして舜くんに気を遣わせて。ばかだな、私。