最悪。
私の今日の気分はどろっどろで真っ黒な沼に片足が埋まっていると錯覚するくらいに沈んでいた。
理由は簡単、イメチェンをしようと昨日の夜前髪を切っている際に手元が滑って事故が起きてしまったからだ。事故どころじゃない、大事故。私の伸び切って流していた前髪は今や眉の上である。これはもはやイメチェンではすまされない。
知り合いに会ったら絶対バカにされるのは目に見えている。学校にいきたくない気持ちでいっぱいなままとぼとぼといつも歩き慣れた通学路を亀のようなのろさで歩く。どんなに行きたくなくても足は学校へと着実に向かっているんだから泣けてくる。

ミンミンとこっちの気持ちも知らずに今日も元気に鳴き続ける蝉たちを恨めしく思いながら通学路を抜けると、正門前はざわざわと登校してくる生徒で賑わっている。うう胃が痛い涙出てきた。前髪を伸ばすように手で押さえながら歩いていると、ふと後ろからバタバタとせわしい足音と声が聞こえてきた。
うしろに視線をチラリと向けたと同時にドン、と勢いよく背中に衝撃をうけた。あまりに突然の出来事と重さに耐えきれず、情けない声とともにずしゃんと地面に手をつく。
その衝撃の犯人である私の幼なじみ兼後輩である桃城武に大きくため息をついた。

「なまえ、おはようさん!」
「武、あんた私の転け具合みて第一声それ?」
「ん?あ、わりいわりい!…って!何その前髪!」

転ける直前に咄嗟に地面に手をついてしまったため私の前髪は解放状態だ。
ハッと武の言葉にあわてて前髪を押さえるが時すでに遅し。私の背中に体重をかけたままアハハハと心底おかしそうにお腹を抱えて笑う武に一瞬殺意が湧いたのは仕方ないと思う。
そしてそろそろ体重を支えきれなくなった腕が悲鳴をあげてぷるぷると震えている。まだ笑いつづけている武に声をかけようとしたところで上からスッと影がさした。

「…オイ、邪魔なんだよてめぇ」
「あぁ?んだよマムシ」

顔をあげることは出来ないが声とやり取りから察するにテニス部で武とライバルの海堂くんらしい。
険悪な雰囲気になりかけているが原因は正門前で伏せっている私のせいだ。

「あ、ごめん海堂くん…」
「…チッ、おい桃城てめぇさっさと退けよ」
「うるせーな!関係ねぇだろ!」

海堂くんの言葉にようやく私の背中からどいた武にほっと安堵のため息をついて立ち上がる。
なにやら2人が言い争っているのを聞き流しながらスカートや手などについた砂を払っていると随分と気分を悪くしたらしい武がまたなと声をかけて去って行った。
相変わらず嵐みたいなやつだなあと苦笑いしながらみていると海堂くんがまだ私の近くに立っていることに気づいて慌てて頭を下げた。

「海堂くんごめんね、朝からやかましくて」
「…べつに、先輩は悪くないっすよね」
「あ、あとありがとう」

海堂くんが来てくれて助かったよと言うと海堂くんは眉間にシワを寄せて視線をそらした。海堂くんには武がお世話になってる様なので会うたびに私から話しかけているが相変わらず嫌われている様だ。うーん、仲良くなりたいんだけど。
会話が途切れて沈黙が続く空気にいたたまれなくなって教室行こうかと声を掛ければ小さい声でッス、と返事がきこえた。

下駄箱を過ぎて、2年と3年の教室をわける階段のまえで手を振ってまたねと声を掛けるとずっと逸らされていた視線がようやく交わる。こうして見て気づいたけど、海堂くんって睫毛が長くて肌も白くて綺麗だ。思わず見惚れてしまっていた自分を心の中で叱って海堂くんのほうを向き直す。

「どした?」
「……前髪、切ったんすか」
「え!?」

海堂くんのまさかの言葉にバッと音がなりそうなくらいの速さで前髪を隠す。
すっかり忘れてたけど前髪事故ってたんだった!ひい、恥ずかしい。顔がぼぼぼと熱くなっていくのがわかる。

「き、きりすぎちゃって!似合わないよね!てか、もう行かないとチャイムなっちゃうよ!」

これ以上海堂くんにこの前髪を見られたくなくて時計を指差す。じゃあね、と逃げる様に踵を階段へ向けた私に慌てた様な海堂くんの声が聞こえて振り返ると何故かすこしだけ顔を赤くしている。

「あの、似合ってる、っす」
「………え」
「ーー 」

小さく呟かれた言葉を聞き返す前に失礼しますとパタパタと音を立てて去って行った海堂くんの後ろ姿を見ながら私はしばらくその場から動くことが出来ずに、遅刻してやってきた友達に声をかけられてやっと教室へ向かったのであった。

「おれは、すきです」

海堂くんの照れたような言葉とともにぽろりと自分の中の何かが落ちた音がしたとある朝の出来事。

150207


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