おぶられたからわたしはいま、初恋の味を思い出している。 たぶんわたしの初恋は、小学4年生ぐらいのときだったと思う。 体育の授業で足を痛めたわたしをおぶり、保健室へと連れて行ってくれた男子は、クラス一のお調子者として通っていた。 (しっかり掴まってろよ) (うん……) 男子の言うとおり首に手を回すと、ほっぺたとほっぺたがくっつきそうなぐらい、顔が近くなったのを覚えている。 好きなファッションや好きなアイドルを見つけ出したこの頃の女子たちは、モンスター同士を戦わせる男子のガキっぽさにうんざりとしていた。もちろんわたしも例外ではなく、女子にちょっかいを出してくるこの男子のことを、あまり良いふうには思っていなかった。 なのだけれど。 そのときは、無造作な彼の髪に頬をくすぐられても、嫌な感じはひとつもしなかった。 身体をぴったりとくっつけて、わたしのすべてを彼が受け止めてくれているのだと思うと、なんだか胸がいっぱいになって、よくわからないうちに泣いてしまっていた。 (何泣いてんだよ。そんなに痛ぇのか?) (うん。すごく痛い……) 胸の奥が、詰まったように痛かった。 そして現在。 淡くて優しい思い出を懐かしむわたしは、先ほど攣った足に痛みを覚えながら、くしくも轟におぶられていた。 「あ、待って! そこは右。――あれ? 医務室ないじゃん。ちょっと、轟! ちゃんとセンセーに教えられた通りに進んだ?」 「え……、あ……」 「階段下りて、右。事務室の前を左で、そこからえっと……」 「……右で、」 「違うよ。左。え? やっぱ右? ていうか、ここどこ!?」 背筋を伸ばして、辺りを見渡す。 本当に、どこに迷い込んでしまったのだろうか。真昼であるはずなのに、わたしたちが立ちすくむ廊下は、ほの暗い。 窓は等間隔に付いているのだけれど、山側だからなのか春の陽は大方、生い茂る木々によって遮断されている。 不気味な場所だと思った。 目を凝らして廊下の先を見ても、ずーっと遥か彼方まで続いてしまっているようにも見える。永遠に出れない、永遠に歩き続けなければいけない……。吸い込まれそうな真っ暗闇に手招きをされているかと思うと、なんだかそら恐ろしくなってきた。 長袖のジャージを着ているのに、この場所はしんと寒い。はやくここからと立ち去らないと――。 「ねぇ、轟。もどろ。はやくもどろ!」 わたしは轟の肩を叩いて、急き立てた。轟はうなづいて踵を返す。 と、そのときだった。 ”待って” 声がした。 隙間風のように鳴く、微かな声だった。 ”待って。こっちだよ” わたしたちは、声に背中を掴まれた。轟は根の生えたように立ち止まる。 ジャージの隙間から冷気が入り込んできて、背筋をすーっと昇っていく。わたしは身震いをする。轟の首筋が鳥肌だっている。 「はやく戻ろうよ! ねぇ、轟っ!!」 わたしは今にも泣き出してしまいそうだった。轟の身体も、強張りを増している。 ”こっちだよ” 振り返ろうとした轟の首に腕を回して、たまらず抱きついた。 「見ちゃだめ! お願い、戻って!! はやく戻って!!」 だめだ。絶対に振りかえっちゃだめ。 ”こっち。こっちだよ” 声が段々と近づいてきている。それなのに足音は一切、聞こえない。こわい。こわい。こわい。 「もうやだ……わたし、こわいよ……」 轟の肩元で弱音を吐いたとき、辺りが一斉に明るくなった。 「二人とも無視しないでよ。ぼくだってば!」 わたしと轟は、同時に振り返った。 「先生!?」 そこに立っていたのは、目尻の下がった恵比須顔の教師。――通称エビセンだった。数週間前、補修プリントを渡されたのを覚えている。 エビセンはこっちこっちと、あの福顔で手招きをしている。5mほど先、そこの壁面に蛍光灯のスイッチがあるらしい。 「二人とも、迷子になっちゃったんでしょ?」 わたしと轟は、思わず顔を見合わせた。 「お化けじゃなくてよかったぁ」 わたしが安堵の声を漏らすと、轟がカハ、カハハハと腑抜けたように笑った。 白熱灯に照らされた轟の目元は、少しだけ潤んでいるように見えるけれど、それはきっとわたしも同じだ。 「今度迷ったら、絶対に許さないんだから」 トゲのあることを言いつつも、首に巻き付けた腕は解こうとは思わなかった。 むかつくけど、なんだかこの場所をえらく気に入ってしまっている。昔のように胸の奥は痛くはならないし、この背中に頼り甲斐はない。けれど妙な安心感だけはあった。 下がっていたわたしの体をよいしょ、と上げると轟はエビセンに向かって歩き出した。 「ていうか、センセーはなんでここにいんの?」 「あぁ、ぼく? 迷ってんの。いやぁ、ここは広くて参っちゃうね」 「なにそれ、だめじゃん」 わたしが笑うと、エビセンも笑った。いや、もともと笑ってるように見えるから、もしかしたら笑ってないのかも。 エビセンはあっちに出口があるからと、廊下の奥へと進んでいく。スイッチの所に施設の地図が貼られていたのを見たそうだ。轟とわたしもその後を追う。 「そうだ。なんで君はおぶわれてるの? 足でも挫いちゃったの?」 轟がセンセーに追いついたとき、ブラつくわたしの足を一瞥したエビセンが小首をかしげながら聞いてきた。 「まぁ、そんなとこ」 正座をしていたら足をつりました。なんて、おばさんみたいなこと、女子高生のわたしに言えるはずがない。 「へぇ、そうなんだ。でもさ、もう治ってるんじゃないの? 一回降りてみれば?」 「センセー、それ本気で言ってんの?」 「本気の本気。そういうのぼく、鋭いんだよね」 そういうのってどういうのだ。 しゃがみ込んだ轟がわたしの足を離した。 「あれ? ぜんぜん痛くない」 右足をまっすぐに突き出して、足首も回してみる。ほんとうだ、いつの間にか治ってる。 「ぼくってさ、そういう察知能力みたいなものを持ってるみたいなんだよねぇ」 「先生、すげぇ! かっけぇ!」 エビセンに感銘を受けた轟が、目を輝かせた。 「かっこいいでしょ。だってぼくは――」 そのときわたしは、二人から視線を外して、出口の方向をまっすぐに見つめていた。 前触れもなく現れた非常口の扉。おかしいと思った。あのとき、薄暗い中で誘導灯の光がどうにも見えなかったのはなぜだろう。 わたしは轟のジャージを引っ掴むと、一目散に走っていた。センセーは追ってこない。四方八方が段々と縮まっていく感覚が怖かった。 ドアノブに手をかけたときは、天井が後頭部すれすれのところまで来ていたと思う。勢いのままに扉を押し開けて、そのまま背中で押し閉めた。ドンッという音で、木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立った。曇り空を仰ぐと、黒い点々が扇状に広がっていくのが見えた。 この場所は手入れの届いていない施設の裏側らしかった。 蔦が巻かれた焼却炉の脇には、狸の置物がコロンと転がっている。 どのぐらいぼうっとしていたのかわからない。 しゃがみ込んだ轟に背中を差し出されて、わたしはハッと現に引き戻された。 もう足の痛みなんてない。たぶん轟もそれをわかっている。かける言葉が見つからないのかもしれない。いめる言葉の代わりに差し出された体に、わたしはこのときだけ甘えてしまおうと思った。 先ほどより広く温かい背中にすべてをあずけると、ふと涙があふれてきた。 こわかった。わたし、すごくこわかったんだから。 癖のある髪にくすぐられながら、わたしはあのときのように、さめざめと泣き続けた。 2014/08/03 |