02

名前を知ったから

 春色の昼休み。校内放送で名前を呼ばれた。

「補習? え、わたしがですか?」
 カーディガンのポケット。突っ込んだスマホが震えている。けれど、
 それよりもなによりも、今この瞬間、右手に掴まされたこのプリントのほうが問題だった。
 B4用紙2枚。
 古文。
 未然連用終止連体、ひいきにみゐル。
 中学校の頃から不思議に思っていたけど、昔の人の言葉を学ぶ意味ってある?
「解答ずれただけなんですけど……」
「うん。それはダメなミスだね」
「でもでも先生、解答欄がずれてなければ」
 全問合ってましたよね? そうですよね、センセ? と顔を覗きこむように前のめりになり、食い下がろうとして
「じゃあ君さ、期末テストやセンター試験でもその言い訳が通用すると思うの?」
「げ」失敗に終わった。
 目じりをだらだらに下げて恵比寿さまみたいな顔をしているこの教師、あだ名はエビセン。結構あなどれない。
「提出は今日中だからね」と机に向き直ったエビセンが店屋物の天丼を美味しそうに頬張ったところで、わたしはその幸せそうな横顔にツッコむ。色々とおかしいんだけど。
「え、先生ちょっと待ってよ。なんで同じプリント2枚ももらわなきゃいけないの?」
「あぁ、そうそう」
 口元をお手拭で拭いながらエビセンが笑う。右頬にくっつくタレ付きの米粒がホクロみたいで、すごく気になる。
「もう一人の子、呼んでも来ないからさ、主子さん持ってってよ」
「え?」
「なに? 何か問題でもある?」
「わたし、先生のパシり?」
「でも、同じクラスだしねぇ」
「パシられるのはイヤでーす」と拒否する間もなく話は続けられる。
 学校というのは個々を大事にするというけれど、その割には連帯責任だとかで変なトバッチリを受けることが多い。
 大人の決めたことって、ところどころ矛盾してる。

「トドロキくんね。トドロキライチくん。彼にも伝えておいてね、今日中に提出してって。あー待って、あとぼく放課後は放送室にいるから。ぼくを見つけられなかったらこの机の上に置いといてくれればいいよ」

 半ば強引に伝えられて拒むに拒めなかったわたしは、2枚のプリントを丸めこんで職員室を後にした。トドロキライチ?そんな名前の人、うちのクラスで聞いたことない。エビセン、他クラスの生徒と勘違いしてるんじゃないの?
 教室に戻れば、友人たちがいち早くお帰りのお手振りを窓際から寄越してきた。お返しに腕を掲げて渡されたプリントを見せてやると、3人はお互いに顔を向けあってから悲しんでるんだかなんだかわからない表情を向けてくる。いや、違う。これ笑い堪えてる顔だ。くやしい!
 わたしはあみだくじみたいに机と机のあいだを通って3人の元に向かう。
「ねぇトドロキライチって人、うちのクラスにいたっけー」
 とっくに笑い顔になった3人に聞こえるように言ったとき、「雷市になんか用か」とがっしりとした身体に行く手を阻まれた。第一ボタンを開けたカッターシャツから視線を上に移す。
 このデカいだけの図体……まさか、
「優太じゃん。なに? いまさら名前変えたの?」
「ちげーよっ!」
「まぁ、トドロキライチのほうがカッコいいし強そうだもんね。男らしいっていうか? 優太ってなまえだとなんかちょっとやさ男な感じが――」
「ボケかまされてもいちいちツッコミきれねぇんだよ! こいつだよ、こいつ」
 と優太が手の届く位置にあった机に、分厚い手のひらをバンッと乗せて
「おまえ、クラスメイトの名前ぐらい覚えろよ」
 いきなりわたしに文句をつけてきた。
 思わず、むっとする。小学校からつるんでるんだからそろそろわたしに対して優しさを持ってほしい。ていうか知ってるんだけど、優太が他の女子にはやさしーってこと。
「善処しまーす」
 と適当にあしらいつつ、改めてトドロキライチに顔を向ける。
 硬そうな黒髪。
 輪郭にかかった長いもみあげ。
 しわくちゃのカッターシャツ。
 机の上には野球部あるある2。
「…………」 
 瞬間、なんとも言いがたい感情が胸の中に生まれた。悲しいとか気のどくとか、そういったたぐいのやつ。
 もっとこう、タナカケンタみたいな名前だと思ってたけど違ったんだ。野球部あるあるの名前。
 てか出たんだ、第二巻。
「ねぇすっごい顔真っ赤だけど大丈夫? 熱でもあるんじゃないの」
「え、いや……べ、べつに……」
「それならいいんだけど。これ、エビセンからもらってきた補習プリント。放課後までに提出だから」
「オ、オレはなんとも……です……」
「ん?」
 んん?
 なにこれ、ぜんぜん話噛みあってない。
 顔を覗き込むようにしゃがむと、いきなり優太に手首を掴まれた。「え、ちょっ、優太!」そのまま教室の後ろまで引っ張られる。途中途中でおニューのハイソを履く足がもつれそうになる。
「なにいきなり」
「かっこいいとか、強そう、とかおまえが変なこと言うからだろ」
「何それ。小学生じゃないんだから」
「あいつそういうの慣れてねーんだよ」
「あっそ。そんなことどうでもいいし。てかここまで来て話す内容でもなくない?」
 わたしは優太にわからせるように教室内を見回した。わたしたちに注目していた生徒たちの好奇心がクモの子みたいに散らばる。窓際に顔を向けると、3人とも机に肘をついてニンマリと笑っていた。何がそんなに楽しいの。はやくその手に持ってるパン食べればいいのに。
 優太もわたしの訴えに気づいたようで、謝罪の言葉を呟いてから掴んでいた手を離してくれた。
「でもトドロキがめっちゃウブだってことはわかった」
 男子とのこういう空気、大の苦手だ。わたしは掴まれた手首をさすりながら、少しだけ微妙になってしまった優太との距離を取り繕くろうとしてみる。
「ま、べつに言われなくてもなんとなくわかってたけど」
 ロッカーに背中を凭れたまま、優太は「おう」と返事。反省してるのはわかったけど、さっきまでのウザイ感じはどこにいったわけ? たまに見せる芯の無くなった優太の姿を見ると、なんだか不思議な気分になる。こっちまで情けない気持ちになるじゃん。
 だからわたしは優太にグーパンチを食らわした。気分転換、みたいなかんじで。弾力のある二の腕に拳が当たると、優太がこちらを向く。ほら、情けない顔、してる。
「トドロキってさ、絶対高校でドーテー卒業出来ないね」
「ハァ?」
 優太がわたしの発言で、表情を変える。いつもみたいにちょっとだけ怒ったような顔。
「おまえってほんと性格悪いな」
 そうだよ、その顔じゃなきゃ優太じゃない。
「あ、優太もドーテーか! ドーテー同士ガンバレー」
「うっせーよ!」
 手のひらを振って優太を挑発すると、わたしの頭上に悪魔の手が降りてくる。と思ったときにはもう遅く、後頭部をぐっと押されていた。前のめりになった身体。慌てて立て起こすと、トドロキの席に向かっていく優太の大きな背中が見えた。ほんと優太って、最近わたしに厳しい。

 そのときふと嫌な視線を感じて、窓際に顔を向ける。
 いまだあの3人が、雲一つない青空をバックに、ニマニマとわたしのことを眺めていた。
 ……ていうかいいかげん、そのパン食べなよっ!


2014/06/17