01

認識したから

「主子、後ろ」
 先ほどまでクソだるそうに毛先を弄んでいたA美が顎をしゃくってみせた。口の端が一方だけつり上がっているから面白いものでも見つけたのかもしれない。こういう時の彼女の表情は怖いぐらいにいやらしい。
 左右にいる友人たちがわたしの背後に視線を移したので、わたしもそれに倣って紙パックのストローを咥えたまま振り返った。
 ……えっと誰だっけ、こいつ。
「え、なに?」
 わたしが怪訝そうに言うなり、近くでくすくす笑いが起こった。きっとみんなも同じことを思っているに違いない。だって俯いたまま突っ立ってるなんておかしいでしょ。挙動不審すぎ。言いたいことがあるならはやく言えばいいのに。
 わたしはもう一度繰り返す。
「なに? なんか用?」
「……イ、イス……オレの……」
「イス?」
 返事は無くて、頷かれた。あー、わたしが座ってるこれね。てかこんなやつ同じクラスにいたっけ? ま、いいんだけど、そんなこと。いてもいなくてもどうせわかんないし。
「ごめん、ちょっと借りてた。ありがと」
 立ちあがって差し出すと、クラスメイト(仮)は背もたれを掴み、ずずっと汚い音を立てて引き返していく。
 気づけば、あれほど騒がしかった教室内が静かになっていた。両隣の教室のざわめきが遠くに聞こえる。後ろのロッカーに凭れるチャラ男組も、教卓の前で机をくっつけあっているちょっと冴えない優等生の女子グループも、誰もかれもが目を向けていた。
 イスに座った彼の顔は、俯いてるせいでよく見えない。制服のスラックスの上で握られているこぶし。
 ほんのすこしだけ、胸が痛む。
 たぶん、彼は学校のルールを知らない。悪目立ちをしちゃいけないことを知らない。
 堰を切ったように、ぷっと小さく噴出したのはA美だった。脇腹をつつかれる。
「なにあれコミュ障? ウケんだけど」
 わたしが思っていたことをB子は口に出していた。口が悪いのは中学時代から変わらない。
 わたしはためらう間もなく、C奈の膝の上に腰を落ち着かせる。主子重すぎー、とかなんとか言いつつも、ぬいぐるみを抱くように腕を回された。C奈の巨乳が背中に当たる。超エロイ。
「てかさ、いまのあいつ、野球部なんだって。真田センパイが教えてくれたぁ」
 口の端にポッキーを咥えたA美がケータイを弄りながら言う。
「それまじ誰得情報」と嘲笑したB子はポーチあさって化粧を直し始めた。アウトオブ眼中っていう感じが伝わってくる。もちろんわたしもあんなおどおどタイプに興味なし。
「でさ、サナダセンパイってだれ?」
 二人羽織のようにC奈の手から差し出されたポッキーをかじって、わたしは訊ねる。全く聞いたことのない名前だ。
「あたしもその人知らなーい」
 とC奈が続く。
 B子だけはサナダセンパイの存在を知っているらしく、アイラインを引く手元を止めてチラリとA美に視線を向けた。けれどもすぐ鏡に向き直ってしまった。
 C奈とわたしは興味ありげにA美に顔を向けた。肩甲骨辺りからC奈の心臓のドキドキが伝わってくる。
 A美はケータイから顔を上げて、にんまり笑うと液晶画面を向けてきた。
 わたしとC奈は身を乗り出してその画面を覗く。
 毛先をくるりと遊ばせたツインテールのA美の隣で、眩しい白い歯を見せながらピースをするイケメン。
 まさか。うそだ。この学校に、こんなかっこいい人いるなんて。見ているだけで顔に熱が集まってくる。
「ちょーイケメン!」「ちょーイケてる!」
 思いがけずC奈とハモってしまった。お互い顔を見合わせて、頷き合う。やばいねこれ。やばいよこれ。
 A美はこれ以上見られたくないのか、大事そうにケータイを胸に抱き寄せて満足げに笑った。
「えー、どこで見つけてきたわけ」C奈が本当に羨ましそうに言う。「A美ってイケメン見つけんのうまいよね」
「でしょ。昨日さ、中庭で見つけてそっこーLINE教えてもらったぁ」
 A美がペロっと舌を出すとB子がファンデーションのふたをパチンと閉じて嫌な顔を見せた。
「あたしも一緒にいたんだけど、聞いてよこいつまじ恥ずかしいの」
 一部始終を見ていたらしいB子は、普段のハスキーボイスよりも高い声をだしながらA美のマネをしてみせる。
「”先輩めっちゃかっこいいですね、お友達になりたいです!” ってあたし隣にいたじゃんか、ミルクティー吹くかと思ったわ」
 うん、いまの似てる似てる。ムッと頬を膨らませてB子を親の仇のように睨むA美を傍目に、C奈と一緒に手を叩いて笑う。
 今は面白おかしくて笑っているけれど、それでもA美の可愛らしい顔と可愛らしい声で言われたら相手はひとたまりもないはずだ。
「んでさ、サナダセンパイは彼女いんの?」
 一通り笑い終えた後、人差し指で目尻を拭いながら訊ねた。A美の機嫌を損ねる前にいろいろと聞いておきたい。友達の恋の行方を見守ることは、少女マンガを読むことよりも胸をときめかせてくれる。それは自分が恋をしていない時はなおさらに。
「ううん、今はいないって。だからあたし頑張ろうって思ってる」
「もういけるでしょー。普通会ったその日に2ショット写メなんて撮らないよー」
 わたしの髪をプラスチックの細長いクシで梳かし始めたC奈がのんびりと言うと、B子が違う違うと首を振った。
「こいつさ、あざといから”センパイ、一緒に写真いいですかー?”とか言ったじゃん。まじあんとき、あの人ドン引きしてたと思うね」
「はぁ? 真田センパイそんな人じゃないし。てゆーかB子も真田センパイのお連れ様と連絡先交換してたじゃん。あたし見てたんだけど」
「あれ、あっちから言われたんで。逆ナンじゃないんで」
「えー、わたしにも誰か紹介してよー」
「C奈、彼氏いるじゃんか」
 ポッキーを咥えた口で言うと、C奈がけだるそうに顎を右肩に乗せてきた。C奈の甘い匂いが肩越しに香ってくる。このグループ内で女子力が高いのはいつだってC奈だ。
「あの人意外とつまらなかったからもう別れたーい」
「はぁ? お前マジ飽きるの早すぎだろ」
「だってさ、あの人部活忙しくて構ってくんないしー。キス上手くないしー」
「バスケ部の部長を捕まえといてよく言うよね」
 ハァ、とC奈がわたしの耳元でいわくありげなため息を吐いたとき、5時限目開始のチャイムが鳴った。
 わたしはお腹にまわされていた彼女の腕を解くと、自分の席へと向かった。廊下側の一番前。ごみ箱の前。見上げればそこに掛け時計。サイテーサイアクの位置。昨日の席替えくじが運悪く、ここに強制連行されてしまった。
 くじ運なんて生まれたときから持ってない。むしろ、あの3人にじわじわと吸い取られている気がする。
 数学一式を机の上に準備してから、ななめ後ろを振り返った。窓際で固まって座る3人の姿が目に留まる前に、なんとなくさっきの男子が目についた。
 硬そうな黒い髪の毛。
 ほっぺを縁取る長いもみ上げ。
 猫背。
 アイロンのかかっていないしわくちゃのカッターシャツ。さっきのサナダセンパイと比べてなんかダサイ。てか何読んでんの。野球部あるある? ふーん。え、うわ、なに? 今ちょっと笑った? ふふって笑った? え、なに? そんなに面白い野球あるあるがあったわけ? もう1ページめくってーの、げ! また笑ってる!

2014/06/16