ヨーロッパ調の噴水が鎮座するエントランスを横切ると、エレベーターホールに着いた。
 一番遠くの扉があたしたちを待ちわびてたみたいに、ちょうどよく開く。駆け足で乗ると友部が30階のボタンを押した。扉が閉まった瞬間、気が遠くなりそうになる。あたし高所恐怖症だから。首から上が引っ張られるような感覚が何秒か続いたあと、音もなく扉が開いた。そのまま、まっすぐ友部は進む。あたしも続く。ローファーの裏に高級感を感じて下を向くと、チョコレート色の絨毯が敷いてあることに気づく。うわっホテルみたい、と一瞬ときめいて、だけどもう後戻りはできないことに気づいてしまい、いまさらになってパパとママへの申しわけなさに十字架をきりたくなる。(あたし仏教だけど)パパママ、不純な娘でごめんなさい。パジャマパーティーに参加してません。

 フロアの一番奥まで行くと、友部は立ち止まった。「今日はどっちとも帰ってこないから」と言いながらいつの間にか手にしていたカードキーを差し込み、ガチャリとドアノブを回す。重そうな扉はなめらかに開いた。

「入って」
「お邪魔します……。想像以上にお坊ちゃんじゃん、友部って」
「別にそんなことない」

 玄関は4月の太陽みたいにやわらかな明りで満ちていて、バラの花畑に寝そべっているみたいに甘い匂いがする。リビングに続く廊下の脇に目をやると、細長いポットから白い蒸気がしゅううと吹き上がっている。あたしは広すぎる玄関の隅で遠慮がちにローファーを脱ぎ、これまた遠慮がちに差し出されたスリッパをはいた。低反発。
 そして予定通りあたしは友部のうしろをついていく。



「あたしさ、正直自分の気持ちがよくわかんなくなちゃって。まだ雷市先輩のことは好きなんだけど。これってただの憧れだったのかなって。雷市先輩って見てるぶんには男の生々しさって感じられないでしょ。性欲とかなさそうだし、むしろ性欲って何? って思ってそうだし。
 それなのに、した、って聞いた時はびっくりしちゃった。あたしの中の雷市先輩像がくずれったっていうの? まぁどうせ主子先輩がそそのかしたんだろうけど。”わたしの体、触ってもいいよ”とかなんとか言って。自分から脱いだんだよきっと。でもさ、こういうのってお互いのことが好きじゃなくてもできるんでしょ。ってねぇ聞いてんの友部!」
「聞いてる」
「じゃあ、あたしが話してるときに本読むのやめてよ」

「ぼっしゅうー」とあたしは向かいに座る友部から本を取り上げた。
 あ、と友部がその本を追って顔を上げる。返してくれ、と伸ばされる手を上手くかわしながらなんとなくペラペラめくってみると、”喘ぎ声が”とか”濡れた唇を”とか、やらしー箇所だけがやたらと目に飛び込んできて、心臓がきゅっとなった。すかさず本を閉じて机に戻す。Sサイズのシェイクをつかみとろうとして、1度倒し、持ったはいいものの、自分の手が震えているのをいやでも感じる。恥ずかしさに体を縮こませ、ストローをすすると、ずずっと音をたてただけだった。そんなあたしの一連の動作を友部は無表情で見ている。

「なに」と上目づかいで言う。「なんなわけ」
「べつに」
「ちょっとお代わり買ってくるから、なんか食べたいのあったら言って」
「俺はいらん」
「友部って見た目と違って小食系だよね。大河と真逆」

 急な階段をくだって1階に行き、列に並び、コーラとポテトを買った。両方Sサイズ。夜の9時だった。この時間のマックは色んな人間でごったがえしている。

 友部は、大河や翔ちゃん、大くんと違って、あたしの話を茶々をいれないで聞いてくれる。(ほんとうに聞いているのかわかんないけど)だからあたしはこうやってたまに友部に付き合ってもらう。へんな説教もしてこないからいい。

 明日は朝練がないからとことん付き合ってもらおう、と次の話題を考えながら階段を上がり来た道を戻ると、トラッシュボックスの前で、はたと足が止まってしまった。トレイを持ったままどうしていいかわからなくなる。
 二人用のテーブル席にぽつんと座る友部が、大人の女の人に話しかけられている。栗色のロングヘアー。ホワイトに淡いブルーの花が咲いたひざ丈ワンピース。きっと女子大生。きれいな人。どのぐらいたったんだろう。その人は笑いながらいかにも自然な感じで友部の頭をポンポンとなでると、バイバイと手を振った。友部に背を向け、こちらに歩いてくる。あたしもその人に向かって歩き出す。1歩。2歩。見せつけるようにドリンクを握る右手。目に飛び込んでくる。薬指。指輪。すれ違う。バニラの匂い。くどくて吐きそう。席につくと、残り香があたしに胸やけを起こさせる。

「今のひと知り合い?」
「……英語の家庭教師」
「うそー。部活で体疲れてんのに勉強もがんばってんの? 友部っていったい何者だよー」

 笑いながら水っぽいコーラをすすり、揚げたてのポテトを口にいれたところで、また吐き気がした。胸のあたりが苦しい。しょっぱいポテトのせいだ。追加なんてするんじゃなかった。

「てか話の続きなんだけど、あたしのこの気持ちってさ、」
「悪いけど」と友部が口を挟んだ。
「なにー?」とあたしは脂っぽい指先をナフキンにこすりつけて、友部の視線から逃れるようにスマホをいじる。着信履歴にママの名前があった。
「先帰らせてもらう」
「ふーん。べつにいーよ」
「返してくれ」

 と文庫本にさっと伸ばされた友部の手を、あたしは瞬時に押さえつけた。顔を上げると、立ち上がりかけた友部があたしのほうをじっと見ている。黒目がちの瞳がうっすらと潤んでいる気がする。ああそうなんだと思った。

「もしかして、英語の先生とどっか行くの?」

 友部は答えない。
 くどすぎる香水のにおいが友部から立ち上ってきた気がして、こめかみを押さえたくなる。

「ねぇ友部、あの人のこと好きなの?」
 
 黙ったままの友部の眉毛がぴくりと動く。あたしはそれを見逃さない。

「右手の薬指に指輪してるの見たよ。あたしも女だからわかるけどさ、あの人、友部の気持ちわかってるよ。それなのに誘うってーー」
「それでもかまわん」

 友部はそう言うと、あたしが押さえつけていた文庫本を力づくで引き寄せて鞄にしまい、トレイを持ち上げ、さっさと行ってしまった。

 わきあがってきたこの気持ちは嫉妬だと思う。
 学校ではあたしのことお姫様扱いして、好きだって、かわいいって言ってくれるくせに。単なるフェイクだったわけだ。本命はまた別にいたわけだ。だから軟派なことを恥ずかしくもなく言えたわけだ。

 あたしはストローの吸い口を唇に押し付けながら、表裏と交互に折ったストローの袋をぎゅっと押した。それを爪先で弾き、ぴょんと飛ばす。
 だいすきな、池に飛び込む、カエルちゃん。

 でも友部にこんな秘密があるなんて知らなかった。知ろうとしなかっただけかもしれない。友部といるときのあたしは、いつだって自分の恋愛話ばかりしていた。もしかしたらと思う。友部があたしの話を聞いてくれていた理由は、友部も友部で叶わない恋をしていたからなのかもしれない。雷市せんぱいに望みのない恋をしていたあたしに、友部は共感してくれていたのかもしれない。
 なんだか似てる。あたしと友部って。好きな人がいて、でもその好きな人にはまた別の好きな人がいる。それに少し変態ってところも。

 あたしは席を立ち、スクランブル交差点を見渡せるカウンター席に駈け寄った。手をつっぱって、真下をのぞきこむ。
 友部はすぐに出てきた。さっきの女の人と一緒だった。ふたりはそのまままっすぐ歩き、信号待ちの雑踏の一番うしろに混じった。
 女の人はそうするのが当たり前みたいに、半袖の腕をブレザーの腕に絡みつけた。それから耳元に口を寄せ、何かを言い、ふふっと笑う。顔をのぞきこんでくる女の人から、友部は顔をそむけてうなづく。それを見ているうちに、あたしの胸は友部の胸とリンクする。

 あとで辛くなるからそうやって優しくしないでほしい。でも今はその辛さを忘れられるぐらい優しくしてほしい。

 シンガーソングライターのサビみたいにあたしの内なる痛みはクレッシェンドを増していく。急いで席に戻り、鞄を肩にかけると、いらないものはトラッシュボックスに流し入れた。コーラを片手に階段を駆け下り、外へ出る。信号はすでに青に変わっていた。交差点の半ばまで走って、それから辺りを見回して、ふたりの姿を探した。何度も人にぶつかって、舌打ちをされ、そのたび「すみません、すみません」と謝った。謝りながらも目はふたりを探していた。いつのまにかコーラの入ったカップがあたしの手から滑り落ちている。あたしはあのふたりをなんとしてでも見つけなければいけなかった。なぜ見つけなければいけないのか、あたしはいまだにうまく説明する自信がないけれど、ふたりを引きとめて、友部だけに「明日学校でね、バイバイ」とひとこと言わなければ、友部と一生会えない気がした。
 ふたりはとっくに交差点を渡りきっているはずなのに。壊れたコンパスの針が行き場を失うみたいにあたしは何度も体をひるがえし、あちこちに視線を巡らせた。じっとしていられなかった。ローファーの靴底から伝わる、もろくて細かい氷がシャリシャリとつぶされていく感覚に、わけもなく胸がざわついた。

 とつぜん背後から「公子!」と呼ばれて振り返ると、幼なじみの大河と、翔ちゃんが、むずかしそうな顔をして、人波をかきわけ、あたしのほうへ駆けてくる。
 あたしは逃げたくなる。でも大河に手首を掴まれてしまう。熱い。大河の手のひらが熱い。大河が何かを言っているけれど、あたしにはよく聞こえなくて、その手に引かれるままに足を動かした。何度も転びそうになる。目はふたりを探してる。

 あたしのなかで友部が苦しんでる。
 だけどあたしはなにもしてやれない。



 友部の次にシャワーを浴びおえ、部屋に案内された。

 はじめて見る友部の部屋は野球部男子の自室というよりかはビジネスホテルみたいにこざっぱりとしていた。キレイで片付いていて、だけど無機質で、人間のぬくもり、みたいなものが感じられなかった。でもすごく友部らしい。

 そこに足を踏み入れ、「うわー、この部屋広ーい」のこの部屋、まで言いかけたところで、背後からふっと抱きしめられた。びくっとした。こんなふうに男の人に抱きつかれたこと初めてだから。感想としては男の人の体は硬いってこと。だから女の人の体をつぶさないように、力加減を調節しないといけない、という感じの、そういうやさしさが友部の腕のなかで伝わってくる。
 一拍おいて、扉が控えめにカチャと閉まった。シーン。静かだ。あたしの心臓の早鳴り、友部に聞こえないといい。
 正面を向くと、一面窓ガラスの向こうに東京の夜景が広がっている。ピカピカ光ってロマンチック。そしてそれをバックに、あたしと友部の姿がくっきりと映っている。
 友部の腕の中にすっぽりと収まるあたし。
 そんなあたしの耳元に鼻先をうずめる友部。
 下を向くと、あたしを抱きしめる力強い二の腕が、呼吸するあたしの胸と一緒に上下している。あたしはそこに手を添えてみる。それに応えるように、友部が少し力を込めてあたしをぎゅぅっと抱きしめてくれる。大丈夫だから、って言うみたいに。

 友部の髪は意外とふわふわで、お風呂上がりのほっぺたにくすぐったかった。これだったらあの女の人が撫でたくなるのもしょうがないかもしれない、と思っていると、友部の厚ぼったい唇が、あたしの首筋のいろんな場所をちゅっちゅっとついばみはじめる。そうしながらも、あたしの胸元にまわり込ませた手で制服のシャツのボタンをぷちぷちとはずしていく。さすが非童貞。手なれてる。よかった初エッチの相手が友部で、と思いながら、あたしは目を閉じる。 

ぼくらの闇はひどく明るかったりする #02

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