ありがとう、友部。あたしの願いを叶えてくれて。

 校門を出ると、外灯にもたれて待っていた友部があたしのほうにちらっと目をやり、読んでいた本をパタッと閉じた。それを鞄にしまい込み、何も言わないまま歩き出す。あたしはそのうしろをついていく。適度な距離をたもって。
 午後9時。予定通りの部活帰り。夜風はキンモクセイの匂い。制服に着替えたばかりの太ももが涼しい。
 友部は振り返らない。あたしも立ち止まらない。あたしたちはお互い他人のふりをして、目的地を目指しはじめる。

 誰にだって”初めて”は訪れる。 

 結局それが早いか遅いかの話で、あたしはあたしなりにたっぷり3か月間悩みきって”できるだけ早く”経験することを選んだ。好きだった雷市せんぱいに振り向いてもらえなかったからと、失恋して傷ついた自分の心をさらに痛めつけるメンヘラな思考で選んだわけじゃない。決して。

 あたしは小さいころから興味のあるモノや人には一直線に気持ちを向けるタイプで、雷市せんぱいに対してもそうだったし、給食で好きなデザート、たとえばカニや車の形をしたイチゴ風味のチーズ、が出た日には真っ先にそれを食べちゃうタイプだったから。だから”初めて”が必ずやってくるのなら、遅いよりも早いほうがいいって、けっこう悩んだ割にそう帰結していた。単純すぎて自分でも呆れてしまう。

 最寄り駅から上りの電車に乗りこんだ。
 9月下旬だというのに大風量でふぶく車内の冷房は、あたしのポニーテールのうなじを無遠慮に冷やし続けている。そこをさすりながらふと横を見れば、右隣に立つサラリーマン2人の向こうで、バットケースを背負う友部が普段とかわらず文庫本を読んでいる。つり革を使わず長い脚で電車の揺れを受け止める友部はやっぱり運動神経がいい。教室で堂々とエッチな本さえ読まなければモテるかもしれないのに。もったいない、と素直にそう思う。友部は野球部のなかでも真田せんぱいの次に身長が高いし、翔ちゃんの鼻より小さくて知的にツンとしている。なにより顔の輪郭が大河より大人っぽく洗練されている。

 大河といえば、一度電話がかかってきていた。上りのエスカレーターに乗っている最中だったから、表示された早川大河の文字と大河が応援する球団のロゴを画面が暗くなるまで見つめていた。
 昔っから大河ってば勘だけは良いんだもん。今日のあたしと友部を見てなにかを感じ取ったのかもしれない。でもあたしは誰に何を言われても、友部とすべてをやりきるつもりでいる。1回きり。友部もそれを了承してくれた。ありがとう友部。あたしの願いを聞き入れてくれて。



 ことの発端は雷市先輩と主子先輩がエッチをした、という話を中間テストの初日に聞いたからだった。テスト週間がはじまる前日は、すべての部活動が強制的に休みになる規則が薬師高校にはあった。
 彼女持ちの部員はそういう日にしか恋人といちゃいちゃ出来ない、っていうのを先輩たちから聞いていたから、あたしはテスト週間がやってくるのをそのつど怖れていた。つまり、雷市せんぱいと主子せんぱいがそういうことをするかもしれないから。

 中間テストの初日の朝、開けっ放しの扉から教室に入るといつもの3人、(翔ちゃん、大ちゃん、友部)が、突っ伏した大河の机を囲んでいた。近づいて声をかけると、3人がこっちを向いてあいさつをし、それから翔ちゃんが固そうな拳をつくり、大河のこめかみをぐりぐりとやりながら「こいつ、朝っぱらから泣いてやがんだよ」と教えてくれた。
「泣いてなんかねーっ」と大河がばっと顔を上げ、「やめろやっ。マジやめろやっ!」と翔ちゃんの拳をバシバシ振り払う。でも翔ちゃんの言った通り、大河の両目にはぷっつりと涙がと盛り上がっている。

「なんで? なんかあったんだ?」

 あたしは大河の前の自分の机に鞄を置いて、大河の顔をのぞき込むようにしゃがみこんだ。腕を組みなおして大くんが言う。

「それはもちろん失望したからでしょーが」
「だれに? 自分に?」
「主子先輩に」

 聞こえた名前にドキッとして、あたしはすぐ横に立つ男子を見上げた。友部はあたしの視線なんかおかまいなしに、喧嘩ごしにもみ合う大河と翔ちゃんに目を向けている。恋愛を俯瞰しているようなその表情をあたしは深く読み取れない。
 
「主子せんぱいと大河、なにかあったの?」
「それは知らん」
「失望したってどういう意味?」
「文字通りの意味」

 「いってえええええ」と大河が叫ぶ。頭ぐりぐりの次はお互い頭髪の引っぱり合いをして、悪口を言い合っている。いまだ腕を組み続ける大ちゃんは「お前ら大人になりなさい」とか言っているけれどそれは口だけで、まったく止めるそぶりはない。

「ねぇ友部、それってあたしに言えないこと?」
「……本人から直接聞いたほうがいい」

 そう言って、友部はあたしたちの輪から静かに離れていった。まっすぐ席に戻り、ずっと手に持っていた文庫本を開き読み始める。教室のうしろでだべっていた女子たちが目の前に着席した友部に気づいて、うわっという顔をして、ベランダに飛び出して、そこで顔を寄せ合い、やはり友部のほうをちらちら見て笑っている。

 そのマイペースさ、うらやましい。他人の目とか評価とか、まったく気にするそぶりを見せない友部のことがうらやましい。あたしなんて同性に嫌われたくなくて我慢してること、内緒にしてることなんてたくさんあるのに。制服のスカートをもう5センチ短くしたいとか、かわいい色のリップを塗りたいとか。あたし愛されてます、みたいに微笑んで可愛くしていたいけど、少しがさつなほうが学校生活は過ごしやすい。女子は1本出る釘を数本のハンマーでぶったたく。

 あたしは前に向きなおり、「ちょっとー、大河の髪は繊細で抜けやすいんだからねー」と取っ組み合うふたりのあいだに腕をさしいれて、引きはがした。
「ハゲになれハゲにっ!」とイラつき最高潮の翔ちゃんが大くんを引き連れて教室を出ていく。
 その背中を睨みつけながら大河は自分の机の脚をガンッと蹴った。

「大丈夫だよ。まだたくさん残ってるし。そのうち生えてくるって」
「そうかよ……」
「ねぇそれより主子先輩と何かあったわけ? ひどいことされたんならあたし2年生の教室乗り込んで言ってやってもいいよ」
「そういうんじゃねーよ」

 と大河がふてくされたように下唇をつきだし、

「主子先輩、雷市先輩としたって」
「――え?」
「だから、」

 セックス。
 と小声で言うと、机に突っ伏してしまった。

 セックス、という言葉がテスト時間中、あたしの頭のなかから離れなかった。3時限目の英語表現のテストでsixをsexと書きそうになったぐらいに、その言葉はいつまでもあたしの心を揺さぶり続けた。

 大河は主子先輩に本気だったらしい。雷市先輩と主子先輩がそういう仲になってしまったことを知って泣いちゃうぐらい、主子先輩に本気だったらしい。
 大河は子どもだ。なにかっていうとすぐ感情を顔に出す。

 だけどあたしはちがった。
 女子は男子よりも精神年齢の成熟ってやつが早いみたいで、それが関係していたのかわからないけれど、あたしはふたりがセックスをすることを恐れていた割には、驚きはしたけれど、あまり、というかまったく恋心にダメージはなかった。むしろふたりがした”セックス”というものに興味をひかれた。
 一度興味を持ってしまうと、あたしは止まれなかった。レズっ気のあるママと浮気性のパパのあいだに生まれてしまった性だこれは。

 毎晩ベッドにもぐりこむと、暗闇のなかで、ドキドキしながらセックスに関する単語を検索ボックスに入力した。愛撫。愛液。体位。出てくる単語をまた、かたっぱしに検索していった。今までぼやけていた性への知識が、あたしの頭のなかでクモの巣みたいどんどん広がった。アダルトビデオ。コンドーム。ラブホテル。
 恥ずかしながら、自慰行為を調べた次の日なんかは朝一番から4人の顔をまともに見れなかった。見てはいけない気がした。目が合うと、昨日そういうことしたのかな、なんて無意識に想像してしまいそうで指の先まで熱くなった。
 それが男子にとって食べることや寝ることと同じであるにしても、あたしにはやっぱり未知の世界だった。

 あたしはとうとう変態になってしまったのかもしれない。クラスの女子はきっと、こんなふうにエッチな言葉を夜な夜な調べて、太ももをこすりあわせたくなるようなじれったい気持ちを味わわない。いますぐにでもエッチをしてみたい、なんて願わない。



 午後9時25分。15分揺すられB駅で降りた。
 予定通り友部は改札口を出たすぐそばで、初めて降りた駅にとまどうあたしを待ってくれていた。何気ないふうを装い、友部に近づく。あたしに気づいた友部は何も言わずまた歩き出す。
 整った地下通路。カーブのついた階段を上がる。3番出口から歩道へ出ると、友部は車が途切れるのを待って道路をわたり、その真正面にあるマンションの玄関に入って行った。あたしは後れをとらないように駆け足で道路を渡り、だけど歩道で一旦足を止めて、頭上にそびえるマンションをあおぎ見る。白銀に輝く三日月のしたで、一等地に立つ高層マンションは夢の国のイルミネーションみたいに棟全身を金色のつぶつぶできらめかせている。友部は社会学者の父と女医のハイブリッドらしい。場違いな気がした。だってあたしは家賃8万円の2LDKで育てられて、それに似あうぐらいにしか、心も体も育ってない。

 「公子、」と呼ばれて顔を正面に向けると、バットケースを背負う友部が、エントランスのテンキーの前でじっとこちらを見つめていた。あたしは友部にうなづいてみせる。一歩踏み出すと、自動ドアがしゅいんと開いた。

ぼくらの闇はひどく明るかったりする #01

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