Please forget about me. #01

 雷市はモノを捨てる、ということを知らない。
 といってもバナナの皮だったらキッチンのゴミ箱に捨ててくれるし、飲み終わったミネラルウォーターのボトルだったら、ラベルをはがしてベランダの隅に置かれているリサイクル袋に分別しておいてくれる。

 だけどあいつは、他人にもらったモノとか、自分が着ていた洋服とか、捨てられない。ほとんど全部、備え付けのクローゼットの中に押し込まれている。

 たとえば、中学生のときに働いていた新聞配達の肩掛けバッグ。そのとき着ていたエンジ色のジャージ。
 先輩の誰かにもらったGAPのパーカー。 

 最近だと、若いホステスにもらったごつくて安っぽいシルバーアクセサリー(これ、若いねーちゃんから貰った、と家に帰ってきて人指しゆびにはまったそれをリビングで見せられた時、俺たちは自宅飲みで酔いが回っていたこともあって、お互いの肩をばしばし叩き合いながら、ものすごく笑ってしまった。だってドクロの顔がぼっこり浮き出た太い指輪と轟雷市の組み合わせは笑えるぐらいにミスマッチだった。ごめん若いお姉さん。それに雷市も)

 といった具合の、お前それもう着ねぇだろ?いらねぇだろ?って言いたくなるものがそこにたくさん詰め込まれている。

 俺は昔から部屋にモノが増えるのが嫌いで、何か新しいモノを買ったらそのつど何かを捨てていたから、一緒に住み始めるとそんな雷市の性格が気になって仕方がなかった。

 変な話、今日の朝だって雷市と洗面所で鉢合わせしたときに、高校時代、何度も部室で見たことのある下着をはいていて、二度見してしまったぐらいだ。それは腰のゴムのところに英文字のゴシック体が入っている、黒のボクサーパンツだった。

「雷市お前、そのパンツ何年はいてんの?」

 と鏡と向かい合いながら歯を磨いていた俺がきくと、風呂場から出てきたばかりの雷市がタオルをかぶせた頭を天井に向けて、

「えーっと、」
「高校からだろ」
「おう、高校から。だからえーっと」
「7年?」
「アッキー計算速ぇ」

 カハハハッと無邪気に笑って、濡れた髪をごしごしとやりながら、雷市は洗面所を出て行く。たくましい肩甲骨を持つ背中を俺は鏡越しに見送る。ふとそうしたくなって、肩の上から手を回し自分の肩甲骨をさぐっていると、リビングのほうから短い悲鳴が聞こえた。ちょっと、轟!

「下着のままソファーに座らないでっていつもいつもーー」
「カハハハッ! ワリィワリィ」
「悪いと思うなら早くどいてよ。レザーなんだからシミになっちゃうんだよ」
「レ、レバー?」
「レザー!」


 俺はそんなドタドタしい会話を耳に入れながら蛇口をひねり、手を受け皿にして、水を口に運ぶ。冬の水は頬を刺すように冷たい。

「ねぇ、轟、その下着さ……」
「7年」
「え?」
「7年はいてるって、アッキーが」
「そう……もう捨てたら。新しいの履きなよ」
「…… あるけど、」
「あるけど、なに?」
「これ、付き合ってたとき、主子がくれたやつ」


 一瞬、心臓がズドンと重みを増した。そばだてていた耳の奥から脈動が聞こえて、身体全体が心臓になったみたいだった。

 だからオレ、すっげぇ、気に入ってる。

 その言葉を最後に二人の会話はぷっつりと途切れてしまった。
 生白いタオルで、手も口もぬぐい終えていた俺は、ドアノブに手をかけたまま、今このタイミングで出ていくべきかどうか迷った。このマンションの間取り的にリビングを通らないと俺の部屋にも、もちろんみんなの部屋にも行けない。

 そのまま耳をすましていると、足音が近づいてきて、突然ドアが開かれた。俺は慌てて蛇口をひねり、キンキンの水を口にふくんだ。思いきりひねったせいで水が滝のように流れている。右の奥歯が少しだけしみる。ぬすみ聴きしていたこと、バレていないといい。

「ごめん、今どくから」

 俺は顔を上げて、棚の上から新しいタオルを取り出し、それで口をぬぐいながら言う。
 
「うん、待ってる」と後ろ手にドアノブを掴んだまま、うなだれる主子の姿が鏡の中に映っている。膝丈のふわふわのワンピースに、もこもこのソックスが足首でアシンメトリーにたるんでいる。右手にはホットケーキ用のフライ返し。今日の朝食は主子が作ってくれていた。

 何かを言ったほうがいいのか一瞬迷って、それだと二人の会話をぬすみ聴きしていたことになるので、結局何も声をかけないまま、主子の横をすり抜けた。リビングに行くと雷市の姿も消えていた。ホットケーキを焼く前の甘く粉っぽい匂いが部屋いっぱいに満ちていた。俺は自室に戻り、クリーニングから帰って来たばかりの生白いシャツに腕を通し、ネクタイを締める。
 扉を隔てていたとしてもあの二人と同じ空間にいるのはなんだかいたたまれなくて、俺はいつもより30分も早くマンションを出て、コーヒーショップで時間をつぶした。

 どこにも着地しない会話があの二人のあいだにはあるみたいで、時たまそういう場面に出くわすと、胸の中がもやもやとしてしまう。本音を言うと、どちらかがこの部屋から引っ越せばいいのに、と一瞬でも思ってしまう俺は、あいつらの友達として嫌なヤツかもしれない。けど、高校3年生の最後、二人が別れたとき、お互いの心の内を少しでも知っている身としては、無性にもどかしくてしかたがなかった。

 お前らもう大人だろ? と言ってやりたくなる。もういっそ、俺が何もかもを取り持って、二人の寄りを戻してやったほうがせいせいするかもしれない。
 でももし本当にそういうことになるのであれば、俺は、俺たちの決めたルームシェアの掟にしたがって、二人のどちらかをこの部屋から追い出さないといけない。もしくは二人いっしょに。と考えたらやっぱり少しだけさみしいのはなんでだろうな。

◇ ◇ THE FOUR ◆ ◇

 校了日の翌日は久しぶりの休日だった。
 ダイニングキッチンに寄りかかり、コーヒーメーカーの抽出をぼーっと待っていると、目の端で人影がもぞもぞと動くのが見えた。
 一面が窓ガラス張りになったその向こうに視線をうつすと、ベランダで主子がうずくまっている。葉のとがった観葉植物が障害物となっていたからすぐには気付かなかったみたいだ。
 窓に近づき、コンコン、とガラスを叩くと、主子が振り向いた。驚きに目を丸め、慌てたように何かをポケットに押し込むのが目に入る。

「何やってんだよ、そんなとこで」
「べつに何も。それよりさ、どうだった今回の出来は?」

 2人分のコーヒーを持ってベランダに出ると、そんな感じでぞんざいに話を逸らされた。
 桜色のマグカップを手渡して、1週間後が楽しみなくらいの出来だよ、と返すと、俺はおざなりにされていた折りたたみのスツールを主子の隣に置き、そこに腰を落ち着けた。スチールの柵のあいだからは東京湾とその向こうで背比べをするビル群が見渡せた。

「今年の冬はあったかくて幸せ〜。ねぇ、こういうのってさ、なんて言うんだっけ、えっと、昨日もニュースでやってたんだけど、えーっと、」
「エルニーニョ現象?」
「そうそれ。やっぱり一真って頭いいなぁ。さすが編集者」
「もっと褒めてくれていいよ」
「えーじゃあもう褒めないでおく」

 自分から太陽に顔を向けて「まぶしーっ、でも、あったかーい」と目を細める主子の姿を、熱々のコーヒーをすすりながら見やる。夏の太陽は忌み嫌うのに、冬の太陽には真正面から向かっていく主子につい笑ってしまう。もとは同じ太陽であることをこいつは知ってんのか? と思う。

「なんで笑うの?」
「別になんでも。それよりさっき、何やってたんだよ」
「べつに何もー」
「うずくまってこそこそしてただろ」
「だからべつに何もしてないってば」

 そう言って、主子が立ち上がる瞬間、ワンピースのポケットから黒い布がはみ出ているのが見えた。そこへ手を伸ばし、さっと引き抜く。主子が、あっ、と声を上げて振り向いた時には、黒い布が俺の両手によって広げられて、黒いパンツになっていた。ボクサーパンツ。英文字が読み取れる。DIESEL。雷市のやつだ。ぱっと手を離す。主子はそれを急いでひろい上げて、またポケットに押し込んだ。

「お前さぁ、」
「もともと私があげたやつだから半分は私のだもん」

 7年使用済みのパンツをどうしようとしているのかも、半分私のだもん、という言い訳も俺には理解出来ない。

「どうするつもりだよ」
「捨てる」
「捨てる?」
「だって、7年も使ってるなんておかしいよ」

 それを丸めてポケットに突っ込んでるお前もどっかおかしいんじゃないか?

「轟には内緒にしといてよ。”オレのパンツどこ?”って聞かれたら、”どっか飛んでった”って言うつもりでいるから」
「むちゃだろ、それは」
「いいから一真は黙ってて」

 そう言うと、主子はつんと顔をそむけ、つっかけスリッパを乱雑に脱ぎリビングに上がった。そのままソファーテーブルのわきを通って自室へと向かう。扉がガチャンと閉まる音がした。リビングから人の気配が消えた。はずだった。

 だけど俺は、上半身を軽くねじらせたまま、そのリビングから目が離せなくなっていた。
 俺の見間違いじゃなければ、ラグマットのうえにあぐらをかき、主子を見上げているのは雷市で、ソファーのわきに立ち、フライ返しを握ったまま腕を組み、雷市のことを見咎めているのは、いま自室に戻っていったはずの主子だった。
 生霊なのか幻なのか、俺にはわからない。

「ていうかさ、そのパンツいつまで履いてるわけ?」
「7年」
「はい?」
「7年はいてるって、アッキーが」
 
 主子がソファーの背もたれに片手をつき、はー、とおおげさな溜め息をつく。

「じゃあもう捨てて新しいの買ったほうがいいよ。ずっとはいててよく穴開かないよね」
「……新しいのはあるけど、」
「あるけど、なに?」
「これ、付き合ってたとき、主子がくれたやつ」

 だからすっげぇ、気に入ってる。
 言った瞬間、雷市は照れくさそうにうつむいた。主子は、急に息が出来なくなったような顔をし、一歩二歩すり足で下がると、逃げるように洗面所に駆け込んで行った。だけど俺はそこから出てこない。

 気付くと、主子の部屋前に立って、ドアをノックしていた。返事はなかったけれど、俺はかまわず言う。聞くのも聞かないのも主子次第だ。嫌なら耳をふさげばいい。

「雷市の許可もなしに勝手に捨てるなよ。主子が買ったものでも今の所有権はあいつにあるし、訴えられる場合もあるんだから」
「轟がそんなことするわけないもん」

 扉のすぐ向こう側で声がした。

「俺がけしかけたらするかもしれないだろ。あいつ、金は持ってるよ」
「じゃあどうしたら一真は内緒にしててくれるの?」
「干してあった場所に戻すのなら雷市にはいわねーよ」
「それじゃあ結局捨てられないじゃん!」

 ひと際大きな声がして、それからバシッと何かが扉に打ち付けられた音がした。それが雷市の下着だと思うと、いくらかげんなりする。

「なんなの? 意味わかんないよ。私があげたパンツ、7年間も履き続けるなんて」
「それをどうにかしようとしているお前だって俺から見たら意味がわかんねーよ。価値観は人それぞれなんだから、それをどうするかなんて雷市の勝手だろ」
「だから半分は私のなの!」
「はぁ……」

 これは長くなるかもな、と思いながら俺は腰を落とし、壁にもたれ、マグカップに口をつける。コーヒーは酸っぱくて、口の中よりも冷めていた。

 生物上の男としては間違っているのかもしれないけど、俺はこの地点で主子のことをほっておけないぐらいには、彼女のことを友達以上の、だけど恋人よりももっと近しい存在だと思っている。だから今は主子を一人にしちゃいけないと思う。

「だってふつう捨てるでしょ、付き合ってた人からもらったモノって。それを見てるとその人のこと思い出しちゃうでしょ? 私は捨てたよ、轟との写真。もらったものは何もないけど、目に見える思い出は捨てた。全部捨てた。そうしないと前に進めないでしょ?」

 俺は黙ったまま、たまに天井を仰いだり、立膝に顔をうずめたり、ときにはフローリングのみぞに詰まったホコリに顔をしかめて、主子の話を聞いていた。前に進めないのはお前のほうだろ、と言ってやりたかった。そしたらきっと、目を覚ましてくれると思う。主子がたった1枚の下着に対して怒り出してしまう理由が、どこから生み出されてどこを傷つけているのか、それをどうしたくてたまらないのか気付いてくれれば必ず――。

「このパンツさ、ゴムと布の縫い合わせのところに穴開いてるんだよ? 虫食いみたいに小っちゃい穴だけどさ、それ広げちゃえば、轟、捨ててくれるかな? 捨ててくれるよね? こんなん履いてたら、一生彼女出来ないよ。一真もさ、轟に可愛い彼女見つけてほしいでしょ? 一緒にダブルデートとかしてみたいでしょ? だから今からそこに指突っ込んで引き裂くから。私、本気だよ。いいでしょ? だって、それが轟のためになるんだもんね?」

 ねぇ、一真、いいよね?
 まるで自分に言い聞かせているみたいに切実な声で、主子は繰り返す。
 ね、これでいいんだよね、一真?
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