海の中でもがき苦しむ夢から飛び起きた。
 気道が詰まった感じがして反射的に咳き込むと、水がゴボッと口から溢れ出る。鼻の奥が沁みるように痛くて、喉のあたりがイガイガする。顔の皮膚だけが冷たくて、だけど身体の中は風邪をひいた時みたいにねっとりと熱い。
「おいコラ、起きねぇと置いてくぞ」
 真上から倉持の声が降ってきた。他の奴らの声はもう聞こえない。
 眩しい太陽の光に邪魔されつつも少しずつ瞼を開けると、ペットボトルを持って聳え立つ倉持が俺を見下げていた。
 太陽の光を遮断するように目元に手を添えると「二度寝すんな」と脇腹をつま先で突かれる。痛てぇ! 口を開けたが声にならなかった。
 軋んで痛む上半身をゆっくりと起こすと、右横からペットボトルが差し出された。差出人の顔も見ずにそれを受け取り一気に呷る。まるで海から打ち上げられた海藻のようにしなびていた俺の身体に、水分が行きわたっていく。口の中の傷に沁みるが、喉を通る流動感は最高だった。
 一滴残らず飲み干すと、俺は乱暴に口元を拭って倉持の方を見た。
「あんがと」擦れてはいたが、今度はちゃんと言葉になった。「あいつらは」
「知らね……俺が目ぇ覚ましたときには消えちまってた」
 俺の隣に腰を下ろしていた倉持はそう言うと仰向けに寝そべり、ぐぅっと身体を伸ばした。何処かが痛んだらしく、すこしだけ眉根を寄せている。
「そっか」
 よく見なくても倉持の顔は酷かった。口の端は両端とも切れていて、鼻の下も赤黒い血が固まってついていた。左目の瞼も少し腫れぼったい。それに着衣もボロボロだった。カッターシャツには血が点々と飛び散っていたし、着ていた詰襟は俺たちよりも遠くに落ちていた。
 聞きたいことがたくさんあった。言いたいことも山ほどあった。でも、今伝えたいことはこの一言だけだった。
「あんがとな」
 ちらりと、倉持が俺を見た。
「おう」
 倉持はカッターシャツの袖で鼻の下を拭うと、拳を突き出してきた。俺も傷だらけの右拳をそこに軽く当てる。なんだか青春ドラマみたいだな、そう言うと倉持も俺と同じことを思っていたようで、ほんの少しだけ照れくさくなった。
「久々にバッセン行きてーな」
 どこかさっぱりとした表情でまっすぐと太陽を捉える倉持の横顔を、俺は見つめた。
「俺のおごり?」
 そう答えると、倉持が訝しげな表情を俺に向ける。
「ったりめーだろ、誰が迎えに来てやったと思ってんだ」
「あーあ。わたしってやっぱりあなたのATMだったのね」
 俺がしなをつくって言うと、倉持は寝そべったままで俺の腰辺りに蹴りを入れてきた。
「お前きめーんだよっ!」
「いてーっ! まじ、いてーっ!!」
 俺は痛みと可笑しさのあまり、目元に涙を溜めて叫んだ。
 あと、1ヶ月で倉持は東京へ行ってしまう。部活後のカラオケもナンパも、バカみたいに夢中になって喧嘩をする毎日も、もうこいつとは出来ない。そう思うと、なんだか急に胸の中がさわさわとしだした。そう感じるほどに、倉持と共に過ごした3年間がしょっぱくて、苦くて、汚くて、けれどもそれが混じり合うと不思議と悪くない味だったように思えた。
「てか、この顔じゃあ行けなくねーか?」
 俺は自分の顔を指さすと、組んだ手のひらを頭の下に敷いて空を仰ぐ倉持に訊ねた。
 見なくとも、触らなくとも、きっと蜂に刺されたようにボコボコとしているような気がした。さっきから左目がぼやけていて、右の頬が触らなくとも痛かった。
「おう、イケてんじゃね? 女にキャアキャア言われそうな面してんぞ」
 倉持は俺の顔を一瞥もせずに応える。
「そっかぁ……」俺も倉持と同じように空を仰いだ。胸いっぱいに潮くさい空気を入れると、言ってやった。「ま、よーいちも結構キマっちゃってるからいっか」
 そこから、顔を見合わせた俺たちのあいだに変な間があって、俺がこらえきれず「プフッ」と吹き出すと、倉持がヒャハハハと腹を抱えて笑った。だから俺も続けてギャハハハと笑った。
 肋骨が痛くて、腹筋も痛くて、なぜだか涙も止まらなかった。

 強がる俺たちの傷に太陽の光線が沁みていた。
 それは先ほど受けたどんな暴力よりも、どんな言葉よりも痛かった。

(2014/05/02)