あの暴力事件を起こしてからの倉持は、何かと野球の話題から離れるように過ごしていたようだった。俺の家にもあの野球バカの親父がいる為に立ち寄らなくなり、学校帰りにコンビニに寄っても野球チップスではなく、普通のポテトチップスがファンタの相方になっていた。ウイイレ派の俺とパワプロ派の倉持とで給食を食いながら争うこともなくなり、果てにはバッティングセンターの無料券を教室のゴミ箱に捨てていた。倉持は独特の折り方で財布にそれをしまい込んでいたから、誰の所有物だったのかすぐに見当がついた。 そんな倉持が痛々しかった。それでも俺は何の追及もせずただ黙っていた。言いたくないことは言わなくてもいいし、無理に聞くこともない。 なのにわざとカマをかけて聞き出そうとしたあの時の俺は、何を考えていたのだろうか。信頼されてないんじゃないかと勘繰って、倉持を傷つけて。足を引っ張ろうとしていたのは誰でもなく自分だった。 先ほどの苦しげに歪む倉持の表情が、目を閉じればありありと蘇ってくる。その後ろめたさから逃れるように湯船に顔の下半分をひたした俺は、ぶくぶくと水面を泡立たせてそのまま身を沈ませた。 俺はかろうじて開けていられる右目を駆使して、こちらに向かって歩いてくる倉持から俺を囲む男たちを見上げた。遠くを見遣る3人は遊び相手が増えた事に嬉々として目を輝かせていた。 「ヨシさん、いいもんきましたねぇ」 リーダー格であるヨシユキの右隣にいたデブが奴の耳元で囁いた。そのデブはヨシユキよりもマガジン1冊分以上低かったので、つま先立ちをしてもなおそいつの顔元にも届かない。 「ヨシさん、あいつ最近手ぇださなくなったらしいっすよ」 ヨシユキの左にいたデブが言う。 「ふーん」と生ぬるい返事をしてからヨシユキは「クソ真面目の女でも出来たか」と言って鼻で笑った。 「いや、そのことなんですけど」と右のデブが、この間隣町で起きた騒動の概要を説明をし出す。微かにだが聞こえてくる内容は全て事実だった。 身ぶり手振りで口早く話す右のデブ。そして、話しの内容に少々のツッコミを入れる左のデブ。右のデブをそのまま左にコピーアンドペーストした姿は、ザ・たっちというお笑いコンビに似ていた。だから俺と倉持は彼らの事をかずや、たくやと呼ぶことに決めていた。もちろん彼らの本当の名前なんてはじめから知らない。 終盤に来て、かずやは自分の鼻筋を指すと歯茎を見せて笑った。 「で、そいつ。鼻の骨折られて、そんで救急車で運ばれたって! 救急車っスよ! 救急車! 俺だったらチャリで病院行けるレベルなのに、救急車! ウヒャー! ダサいっスよね!」 「で?」 ヒートアップするかずやを尻目に、ヨシユキは冷淡に話の続きを促す。 「あ、すんません。それで、野球推薦貰ってた高校にサヨナラされたらしいって話しっス。やられた奴が”ボン”だったらしくって、そいつの親父が権力行使で県内の高校にあいつを入れないようにって通達したとか、しないとか。まぁ、あくまで噂っス」 「んでそれ以来、殴り合いはしてないみたいで。そうそう北中のヤツら、この前倉持とすれ違ったらしいんすけどね。シカトして逃げてったって。そうだったよな、確か」 「そうそう。そんで俺も、東中のやつらに聞いたんっスけどね。これ、内緒っスよ。あいつ、この前スゲェー巨乳の女を家に連れ込んでたって」 「おい、それって彼女じゃねーよな? おれはセフレって聞いた」 かずやとたくやはヨシユキを挟んで、最近の倉持に関しての噂とやらを交互に伝えていたが、途中から倉持が大病にかかっており余命3ヶ月であるとか、新しい父親が出来てそいつが金持ちであるから海外に引っ越しをするだとか、四十路人妻が好む井戸端会議のようなドロドロとした話題に変わって行った。 そんなPTA後のババアに成り変わった2人に挟まれたヨシユキは、倉持が歩み寄ってくるのをじっと待っていた。ただ、獲物を待ち構える飢えた目は倉持だけを捉えて、離さない。俺をいたぶっていたときよりも鋭く、憎しみがこもっているようにも見える。 ヨシユキにとって、倉持がここに来たことは絶好のチャンスだったのだ。なぜならこいつは倉持に一度だって勝てたことがなかった。今日なら今までの借りを返せるのだと思っているのだろう。倉持はもう喧嘩をやめた。一発だって殴っては来ない。 思えば、俺がこんなブ男3人に捕らわれている理由はとんでもなくダサかった。 超絶かわいい女の子から声をかけられて、カラオケに連れてくと良い感じの雰囲気の中でキス。よっしゃイケる! と心の中でガッツポーズをして、ホテルへ直行。 それを武勇伝のように友人に語り、ヨシユキの耳に入ったとき、自宅の電話の呼び鈴が鳴って彼女の口からヨシユキの女だってことを知った。別段、嵌めようとして俺を誘ったわけじゃないらしく、だが結果的にはライオンを釣り上げる肉となった。牙と爪を自分で剥がしたライオンがハンターの前にのこのこと姿を表すなんて、A5の霜降りじゃなきゃ出来る芸当ではない。 もちろんヨシユキは倉持が手を出さなくなったことをついさっきまで知らなかった。 とすると、倉持を誘い出したのはたっちのほうか。バカっぽいのに策士だな。そして二人寄ればなんとやら、とありもしないことわざを思い出そうとする、そんな半端なくバカでダサい俺を、倉持は迎えに来たのだと言った。 「来て早々、悪ぃけどよ。こいつ、返してくんねぇか」 たっちの2人は倉持の冗談ともつかぬ言葉を聞くと、顔を見合わせてニシシと笑った。その間に挟まれているヨシユキも何も言わぬまま目の前にいる倉持を睨みつけていたが、 「いい度胸じゃねーか」と言って頬を引くつかせた。「持ってけるもんなら、とっとと持ってけよ!」 そう言うか否か、俺の頬からヨシユキが足を退かした。 瞬間、細い太陽の光線が右目に差し込んでくる。視界が真っ白く染まる。ピントを合わせた直後、振り上げられた長い足を捉えたときには。避ける間もなく鳩尾に激痛が走っていた。思わず背中を丸めて縮こまる。昼飯が喉のあたりまで上がって来ている感じがして、気持ちが悪い。何もかもすべてぶちまけたくて、でも寸前のところで止まってしまう。 俺の名前を叫ぶ倉持の声が聞こえて、「おら、殴ってこいよ!」とヨシユキが倉持を煽った。無防備な倉持に自分から手を出さないのは、きっと倉持が殴りかかってくるのを待っているからだ。そのほうが、都合が良いのかもしれない。最悪だ、俺のせいで――。 「か……れ、よ……」 俺は、今持っている力を込めてヨシユキの足首を掴んだ。倉持に向けて放った言葉だった。だが、先ほどめいっぱいに絞められた喉がヒューヒューと音を立てて、上手く言葉が出ない。悔しい。惨めで、悔しい。 いつもいつも倉持の背中を追いかけていた俺は、いまだって追い抜くことが出来ない。隣に並ぶことでさえ、精一杯だった。 「……かんけ……い――っ!」 「お前まだ喋れるのなぁ」 俺がもう一度口を開くと、一瞬にして青空が飛び込んできた。 「ほら、ちゃんとヨシさんに謝れよ。カノジョに手ぇ出してしまったスミマセンでしたって」 かずやとたくやのどちらかに無造作に髪を掴まれて、釣り上げられるようにして上体を起こされる。頭の皮膚だけがめくれそうに痛い。地面が揺れているみたいに平衡感覚がない。よろめきながらも膝立ちになると、俺を見下げる倉持と目が合った。 「そんなに苦苦しい顔すんなよ」と俺は自分の不甲斐なさを恥じて笑って見せると、倉持はより一層眉間にしわを寄せて唇を噛みしめた。 視線を落とせば、今にも振りかぶりそうな右手が押さえつけられるようにギュッと握られていた。一瞬でも力を抜いてしまえば、気が振れそうなぐらいに。 そしてヨシユキたちは、ギリギリのラインで自我を保つ倉持のやり場のない表情を楽しみながら、俺の身体だけに暴力を振り続ける。お前が止めないと俺たちはこいつを殴り続けるぞ、という無言の挑発だった。 「悪ぃな……」 倉持が呟いた。 俺は四つん這いで、澱と血液と胃液が混ざった汚物を砂の上に垂らしながら、その言葉を聞いた。視界が少しぼやけていて、口の中の感覚もなくなって、けれどもなんとか鼓膜だけは無事だった。 「本当に悪ぃ……」 誰に向けて言ったのか、俺にはわからなかった。それはこいつらも同じだったようで、砂浜に力なく伏せた俺を無理やり掴みあげて、右拳を掲げたヨシユキも、一方的にはやし立てるだけの2人も一斉に倉持のほうへ視線を移した。 「もう我慢ならねぇよ……」 「あぁ?」 目を伏せたまま、倉持は続ける。 「一方的にヤラレやがって……」 ウソだろ、とそう思った。 良識の線を切った倉持が、狂ったように3人を殴り倒す映像がパッと俺の脳内に浮かぶ。だが、俺はこんなこと起こるはずがないとその1コマを頭から消し去る。それを何度も何度も繰り返す。 喧嘩をやめるとあのガキから伝えられたときには、やみくもに沸き立つ感情をぶつけられる場所を、倉持自らが放棄するなんて頭の中がどうかしてしまったんじゃないかと心配していた。だが、自分の求めていたチャンスってやつをもう一度野球の神様に与えられたのだとしたら、それを離さないように自分を律することが倉持にとって重要な事なんじゃないのかと、そうも思った。 それこそが倉持のケジメで、あの日に髪を染め直したのがその始まりに違いなかった。そして俺も考えた末に、あの日から倉持と同じように殴り合いの喧嘩をやめた。倉持から喧嘩のやり方を教えてもらって、喧嘩のやめ方も教えてもらった。 「んだよ、その様はよ……見てらんねぇよ」 喉の奥から無理矢理引きずりだされたような、擦れた声だった。見ていられないのは、お互い様じゃねーか。もう二度と、つまらなそうにグラウンドを眺める倉持の姿なんて見たくない。黄昏た後姿なんて、似合わない。 胸の中の消えかかっていた何かが、いきなり小爆発を起こしたみたいにポッと大きくなって俺を奮い立たせた。 それは、無意識だった。気づいた時には、糸一本で繋がっているかのようにぶらついていた右腕に力を込めて、俺の胸ぐらを掴んでいるヨシユキの手首を握っていた。 俺の小さな抵抗に、ヨシユキは薄い唇のあいだから黄ばんだ八重歯をのぞかせた。はじめからこうすればよかったんだ、そう思いながら負けじと笑ってやる。俺が最初からこいつらを蹴散らしてしまえば、それで丸く収まるはずだったんじゃないか。きっと俺が倉持に倣って喧嘩をやめるなんてへんな気を起こさなければ、倉持を巻き込んで嫌な思いをさせなくて済んだんじゃないのか。俺には夢なんて何もないのに、倉持と同じようにその夢の為に何かを手放すというセンチメンタルな思いに浸りたかったんじゃないのか。 後悔の波が俺の中に押し寄せてきて、それがふつふつと何かに変わろうとしていた。 「は、なせ……」 俺はやれる、と自分に言い聞かせた。 左腕にも力がだんだんと戻ってくるのを感じる。最初はぎこちなかった、手のひらを握って開く動作もスムーズになってきていた。簡単なんだ、人を殴るなんて。目をつぶってでも出来る。楽勝。ただ思いっきり手を突き出せばいい。俺は倉持じゃないんだ。別に無くなって困るものなんて持ってない。ヨシユキの顔に焦点を合わせると、ゆっくりと左腕を掲げる。その時だった。 倉持が俺の名前を叫んだ。弾けるようにして、俺はヨシユキの肩越しに倉持を見上げた。 「ふざけた真似してんじゃねーよっ!」 大声で吠えた倉持は、一瞬たじろいだヨシユキの表情を見逃さなかった。次の瞬間、相手の懐にすかさず一歩踏み込んだかと思うと、倉持は右腕を振りかぶっていた。 反射的にヨシユキは、立ち上がりながら俺を突き放して倉持に向き直っていた。俺はそのまま後ろにいたたっちを巻き込んで尻餅をつく。 「いってぇ!」「ざけんな!」 クッション代わりになった2人が、俺を退かそうと背を押してくる。起き上がろうとした奴らを後ろに押し付けて、状況を確認しようと目の前にあるヨシユキの足元から上へと瞬時に視線を動かした。グレーのパーカーを羽織ったヨシユキの背中がパッと目に飛びついた時には、俺自身の覚悟は決まっていた。 もしまた、暴力沙汰を起こしたことで倉持があの高校にそっぽを向かれてしまったら、俺も入学予定の高校へは行かないとそう決めた。高校浪人、中卒。どっちだっていい。もう一度A5ランクの霜降り肉から獣に戻って、こいつらを殴り殺す勢いで飛びかかってやる、そうも決意した。 「ナメた真似してくれるじゃねーか」 仁王立ちのヨシユキが唸るように言った。2人はピクリとも動かない。俺も動けなかった。倉持は手を出してしまったのだろうか。ヨシユキの背中と2人分の足しか見えない状態では、彼らがどんな表情でどんな攻防を繰り広げているのか、わからなかった。 背後から唾を飲む音が2回聞こえて、俺も鉄臭い唾を飲みこんだ。息を吸うのも憚るほどの緊張感は、びょうびょうと吹く浜風さえも寄せ付けなかった。 最初に動いたのは、黒いスラックスを履いていた倉持の足だった。ヨシユキの前から一歩下がると、「もうやめよーぜ」あっけらかんとした声でそう言って、俺とヨシユキのあいだに割って入った。 「悪ぃけどよ、俺はお前らを殴れねぇ。こいつと約束してんだ」 そうだろ、そう言って倉持は振り向いた。倉持の真剣なまなざしが俺を見据える。俺は下唇を噛みしめながらゆっくりとうなずいた。 その、一瞬で決着はついてしまった。全て俺の杞憂だった。 全身の力が抜けて行くのを感じて、そのまま仰向けに倒れた。太陽がまぶしい。俺の下敷きになったかずやとたくやが、そこから這い出ようともがいている。痛み以外の感覚が徐々に戻ってくるのを感じる。喉の渇き、口内のぬるみ、手足のだるさ。鼻呼吸がしずらくて、鼻のあたりを拭うと水に溶いていない絵具みたいに真っ赤な血がどろりと手の甲についた。 身体の外も中もなにもかも全てが悲鳴を上げているのに、俺は奇妙な充実感を感じていた。幸福感っていってもいい。俺と倉持はこいつらに勝った。3人の挑発に乗らずに、自分の信念を貫き通した。もう何も考えなくていい、ただあいつらの気が済むまで殴られればいい、そう思って目を閉じる。 「おら、かかってこいよ……俺のことぶっ飛ばしたくてうずうずしてんだろ?」 今度は倉持がヨシユキを煽る番だった。 (2014/05/02) |