「俺はこっちのほうが好きだなぁ。野球少年ぽくてなぁ」

 親父が倉持の学ランを手に持ち、にこやかにそう言う。倉持は照れながらも「あざす」とこたえて学ランの袖に手をとおした。
 友人割引という名目でお店破格の会計をすませると、俺と倉持は店の外にでた。すでに辺りはうす暗くなっていて、商店街のまるい街灯にも明かりがともっている。
 今日は水曜日だから、倉持の母ちゃんが遅番の日だ。だから俺が軽く腹ごなしにと倉持を誘うと、倉持も俺と同じことを考えていたようで、俺たちはどちらかともなく商店街の一番端に提灯をかかげる店を目ざした。
 近づけば近づくほど、しょうゆと油が混じり合ったようなにおいが鼻の中から入り込んできて、口の中が唾液でいっぱいになる。
 それがまた、たまらなく良い心地だった。

 倉持が店の引き戸を開けると、いりことタバコのにおいが俺たちを招き入れた。
「ッラシャイセー!」と厨房を駆けまわる店主が俺たちの方に顔だけを向けると「2名様入りましたー!」
 一人で切り盛りしているにも関わらずそう叫んだ。相変わらず声の通るおっちゃんだ。
 俺は「いつもの2つ」とVサインを見せて、縦に長いカウンターの真ん中あたりの席に腰かける。時間も時間なので、カウンター10席のみの店内は俺たちを最後にうまってしまった。
 店主はサラリーマン2人組の会計を済ませると、油っぽいコップに水をなみなみと入れて、俺たちの前に置いた。

「なんだぁ、洋一。見ないうちに変わっちまったなぁ」

 前歯が2本ともかけているのは、この人も昔はやんちゃ坊主だったからだ。

「っス。どっスかね? 久しぶりに暗くしたんで、なんか慣れないつーか……」

 倉持は照れた感じで首のうしろを所在なさげにまさぐっている。

「今のお前のツラ、俺ぁは結構好きだぜ。パッと心変わりでもしました、って顔しってけどよぉ、なんかあったんか」

 店主がネギをたんたんと刻みながら言う。俺たちよりも3倍ぐらい生きているからか、鉢巻がまかれている頭には産毛の一本さえない。

「こいつ、青道って高校にスカウトされたんですよ」

 俺が口走る。と同時に、「余計な事言ってんじゃねーよ!」と右わき腹にショートフックをくらった。これ、結構、くる。

「なに!? 青道!」と店主は麺の汁を切りながらも、細い目をカッと見開いて”青道”という言葉に食いついてきた。「青道って、あの名門のか?」

 千葉ロッテマリーンズのユニフォームを仕事着にするほどに、この店主も商店街の中では俺の親父と同じく野球好きで有名だった。
 そうだ! とひらめきが俺の頭をパッと照らした。
 俺はテーブルに両手をついて前のめりになると、カウンター越しの店主にこれでもかという笑顔を投げかける。

「そうそう、すごくないっスか? ってことで、おっちゃん」

 俺は神様をおがむみたいに両手をパンッと合わせて

「そんな俺たちにチャーシューおまけしてくれっ!」

 2杯並べたどんぶりの中に麺をすべらせるおっちゃんにそうたのむと、「こいつの分はいれなくていいんで」と倉持が俺のわき腹にアッパーカットを入れ込んできた。肋骨のしたを倉持のこぶしがえぐられて、俺は痛みのあまりに思わず、カウンターの上に顔をふせてしまった。それがいけなかった。
 だから、「あいよッ!」とカウンターごしにラーメンどんぶりを受け取ったときには、乗せられていたであろうチャーシューというチャーシューすべてが店主と共謀した倉持によってぬすまれていた。
 ただそれでも、味は格別だった。やっぱり、ウマい。腹が減っていたからウマいし、倉持と一緒に学生服のまま食べるからウマい。
 あの角煮のような極厚チャーシューが乗ってたらもっとウマいんだろうな。と考えていたら、隣から1枚の肉の塊が俺のどんぶりに飛びこんできた。
「やる」
 元は自分のモノであったのだから、「いいのか?」と聞くのもはばかり、俺はそれを頬ばりながらも、倉持の横顔をぬすみ見た。額からしみ出た汗をカッターシャツの肩口でぬぐう倉持が、俺の視線に気づいたのかこちらにちらりと目だけを向ける。

「んだよ」
「いや、べつに」

 俺からチャーシューをうばった張本人は倉持であるのに、そのときはなぜか
「こいつ、本当に良いやつだ」と心の底からそう思って、俺は分厚い肉を奥歯でぎちっと噛みしめた。


--- 背中合わせのフィフティーン ---


「ごちそーさんでした」
「あいよー、また顔見せろよー」
「おいーっす」

 ものの数分でどんぶりを空にした俺たちは、学割価格でお勘定をすませて店を出た。人気のなくなった商店街のアーケードをぬけて、右に折れる。倉持が住む公営団地は、その道をまっすぐに行ったところに建ちならんでいる。
 飯を食ったら倉持の家でゲーム、と水曜日の夜は決まってそうしている。

「そういえばさ、悪い報告のほう聞いてねーよ」

 口直しにと、ポケットに入れっぱなしにしていたミントガムを頬ばった俺は、ふいに頭に浮かびましたという感じでその話題を引っぱり出した。
 だが、本当はすごく気になっていたことでもあった。話の内容がなんであろうと、真剣に聞いてやるつもりでいた。
 北風が頬を擦るように俺たちの向かいから吹いて、ラーメンで温めた体温をうばっていく。
 俺はパーカーのポケットの中に両手をつっ込んで、倉持が口を開くのを待った。

「別に大したことじゃねーよ。全部、俺の独りよがりでしたって話……そんだけだ」

 先ほど俺の身体にアッパーカットをかましたヤツの言葉とは到底思えなかった。なんだか情けない言い方が倉持らしくなくて、自分自身に幻滅したって感じが伝わってくる。

「なんかあったわけ?」
「別に、なんもねーよ」

 嘘をつけ。

「……つーか、こういう話、やめにしねーか? せっかく腹いっぱいでいい気分になってよ――」
「あいつらとなんかあったんだろ?」

 俺が立ち止まって強気に言うと、一歩先に進んでいた倉持がめんどくさそうに振り返った。等間隔に立ちならぶ街灯の光は儚すぎて、顔に影がかかる倉持の表情がゆがんで見える。
 やはり俺の当たらない勘は今日だけさえているようだった。中一のころから仲の良かった野球部連中が、あんなにも言いづらそうに倉持の名を口にするはずがない。

「お前には関係ねーだろ」

 倉持がいいかげんにしろよ、という視線を投げかけてくる。

「関係ないってなんだよ、言いたいことがあるなら――」
「俺がなんもねーってんだから、ねーんだよ!……いい加減しつけーぞ。だからお前は――」
「だぁぁぁ! うるせぇっ!」

 俺は倉持の言葉をさえぎるように喰ってかかった。
 めいっぱい叫んだものだから、道沿いの公園で遊んでいたクソガキからの好奇な視線が一斉に俺のほうに集まる。

「いきなり大声出してんじゃねーよ」倉持は俺から視線を外して、公園の方をみやる。「ガキどもびびってんじゃねーか」

 けれどもそんなことはお構いなしで俺は倉持につめ寄った。
 俺と目線を合わせようとしない倉持の襟首をつかむと、ぐっと引き寄せる。倉持が反抗する素振りを見せないのは初めてだった。

「お前さ、自分でふっといてなんなわけ? なんか話したいことがあったんじゃねーの? 言いたいことがあったんじゃねーの? 俺は独りよがりのおせっかい野郎です、って話をさ、俺にしたかったわけか? それが悪い報告ってやつか?……んなことずっと前から知ってんだよっ!」
「なんでそんなに苛々してんだ……。あぁ、俺がお前のチャーシュー食ったからか。悪かったな」

 軽くいなすような倉持の返しに、俺はつき飛ばすようにして手を離した。

「……馬鹿みてぇ」

 倉持の思い悩んでいることを聞いてやろうとしていた自分に向けた言葉だった。

「……馬鹿みてぇだよマジで」

 悪いことだって嫌なことだってなんでもかんでも口から出して、これだから俺ってバカだよなーって言い合って、笑い合って。そうやって消化してきたのは、誰でもない倉持であるのに。
 なんでも言い合える友人だと思っていたのは俺だけか。

「もういい。一生強がっとけ」

 俺たちの一部始終を見ていたガキどもに「こっち見てんじゃねーよ」と凄むと、俺は身を翻した。
 噛んでいたガムは、もうすでに味もにおいもなくなっていた。俺は歩きながら、乱暴にズボンのポケットをまさぐる。一粒だけ取り出して引きちぎるようにして包身紙を剥がすと、口の中に放り入れた。ミント味なのにちっとも爽快感がない。無性に胃のあたりがキリキリとしている。
 元より、倉持は追ってこなかった。だが、商店街のアーケードの入り口を曲がろうとしたときに誰かにズボンを引っつかまれて、俺は振り返った。

「んだよ」
「おとどけものです」

 声がした方へ視線を落とすと、俺の太ももぐらいまでの背丈をしたガキが、まるで空を見上げるみたいにして、俺の方を見ていた。知らない顔だ。商店街のガキじゃない。

「おにーさんに、わたしたいものがあるの」
「あ? 俺、なんも注文してねーけど?」

 新手の詐欺か? と思いながらしゃがみ込むとお日様のようにガキは笑った。
 そして、「おみみをかしてくださいね」と肩に手を置かれる。

「耳ん中に虫入れんじゃねーよな。そしたらぶっとばすかんな」
「でんでんむしだよ」
「虫じゃねーか」
「わたしが、でんでんむしさんなの!」
「お前、ワンピースってマンガ好きだろ」

 ガキのペースにはめられつつも、その他愛無いやり取りにささくれ立っていた感情がすこしづつ薄れていくようだった。

「つか、誰からの伝言か教えてほしーんだけど」

 俺がきくと、しっ! しずかにして、と子供を叱る母親みたいに自分の口元に人差し指を当てた。マセたガキだ。
 俺たち以外には誰もいない場所で、わざわざ耳元で話さなければいけないようなことがあるのだろうか。ガキに似合わぬ気丈な振る舞いにどぎまぎしながらも、俺は左耳を囲うように当てられた手の中からどんなものが届くのかと、少しだけ期待していた。

「これは、ないしょのおはなしです」

 俺は、おう、とうなずく。

「あのね」

 言葉と息の音が耳に当たってこそばゆい。

「りゆーはいえないけどね」

 そしてガキは次の言葉を最後に、俺から一目散に逃げて行った。きゃーと声を上げて。

「もう、けんかはやめます」

(2014/05/02)