あの日。
 倉持が俺の家、もとい親父の床屋に顔を出した時刻。
 そのときの俺は倉持をさそってとなり町のカラオケにでも遊びに行こうと思い、バックネット裏から野球グラウンドをのぞいていた。(なぜ隣町まで行くのかというと、俺が一目ぼれをしたカワイー店員さんがいるからで、倉持もその子のことを気に入っていたし、俺にはあまり独占欲が無かったから、倉持とそのカワイー子の話題で盛り上がる事が、最近は野郎とたわむれるよりも楽しかったからだ)
 気だるそうな「ウオ〜オイ」といった声がとぎれとぎれに聞こえるグラウンドからうしろを振り向くと、顔見知りの野球部がちょうど通りすぎるところだった。

「お前らさ、よーいち知らね?」と軽く声をかけると、
「あ、っと……よ、洋ちゃんなら、さっき帰った、よな?」

 3人の中の1人がおどおどとしながらも応えて、あとの2人も曖昧にうなづく。

 「そっか、あんがと」

 礼を言ってから、俺はそのまま校門へと駆けた。このとき、別段そいつらの動揺に気を取られなかったのは、はやく倉持を見つけてカワイーあの子に会いに行くことが俺の頭の中を占めていたからだ。
 だけど家に帰り、俺の親父が倉持の頭髪をいじくり回している姿を店外のガラス越しに見たときに、思わず「えぇ!?」とマスオさんみたいな声を出していた。俺に一言の声もかけずに、俺の家、正しく言えば俺の親父の床屋へ散髪しにくるなんて初めてだったからだ。

 俺はいったん心を落ち着かせてから、CDのような円盤型の取っ手を引いた。チリリンと開閉音のベルが鳴る。その音を聞いて、親父と、イタリアンマフィマの部屋にあるような合皮の黒イスに大人しく座る倉持が、足を使って器用にドアを押し閉めた俺に目を向けた。

「え? なんでいんの?」

 待ち合い用のソファーに学生バッグを放り投げながら、だけど俺の目だけは倉持をとらえている。

「見りゃーわかんだろ」
「”見りゃーわかんだろって”ってまぁ、そうなんだけど」

 俺は学ランの上着を脱ぎ、ベルトに手をかける。

「つーか言ってくれればいいのに、まじ俺ビビった。こういうのってさぁ、マジで漫画みたいにエッ!? てなるんだな」
「勝手にビビってろ」

 つまらなそうにそう言ってから、倉持は鏡に向き直ってしまった。
 倉持が俺の家に散髪に来るのは、久しぶりだった。それが嬉しくて、へらへらと笑っている俺の顔に誰かのするどい視線がグサグサとつき刺さった。
 ――親父だ。右手に髪切りバサミをたずさえて、ここはお前の部屋じゃないんだぞ、と言わんばかりの表情でこちらに睨みをきかせている。

「えっと……た、ただいまかえりましたぁ」

 俺は背筋に寒さを感じて、まるで愛玩動物を抱きしめるみたいにして、ソファーから鞄を優しく抱き寄せた。
 それから、逃げるようにそそくさと倉持のうしろ側を通ってのれんをくぐり抜ける。右手の急な階段を上り、すぐ左にある日焼けたふすまを開けると、鞄と詰襟を放り投げた。
 代わりに脱ぎ捨ててあった黒のパーカーを羽織る。再び階段を降りてのれんに手をかけたが、ちょうど喉の渇きを覚えたので台所によってから店と家とを区切るのれんを持ち上げた。

「130円なー」

 俺は倉持の手前に突き出ているガラス板の上に、コカ・コーラを1本置く。

「勝手に出しといて金取んのかよ」
「これも、しょーばいなんで。すみませんね、お客さん」

 そう調子良く返すと、親父が「お前、いい加減にしろよ」と、のんきに笑っていた俺に釘を刺してくる。

「洋ちゃん、ごめんなぁ。こいつ俺と同じバカだから」

 3年間を共にした俺よりも、たまに顔を合わせるだけの親父の方が倉持の事をフレンドリーに呼ぶ。その気取らない優しさは、子供を守る大人の特権ってやつだった。

 俺はいつものようにコーラをちびちびと舐めながら、倉持の散髪姿を壁にもたれかかりながら見入っていた。待ち合い用のソファーや空いている席に座ろうとするものなら、親父に鬼の形相でにらまれるので仕方なくそうするしかない。手伝え、と命じられたことは無かったけど、気が向くと床に落ちた髪をモップでかき集めたりもした。それは親父の背中を見てきた息子の性ってやつかもしれない。

「じゃあ、切るのはこれぐらいでいいかな。準備してくるからちょっと待っててな」

 いくらか髪を短くした倉持の肩に手をポン、と置いた親父は、後ろの棚からボトルを選び出して、なにやら化学の実験みたいに液体をまぜ始めた。
 ツンとした染料独特のにおいが部屋いっぱいに広がる。俺の嫌いなにおいで、親父のにおいでもあった。

「髪色、戻すんだ? なんで?」

 缶をあおった倉持の喉仏が上下に動くのを見ながら、俺はたずねた。
 倉持はそうとうに喉が渇いていたらしく、コーラを一気に流し込むと、手の甲で口元をぬぐってから「受験とか、ほら、色々あんだろ」と言って空き缶を俺の方へ突き返してきた。

「まぁ、そりゃそうだけど……」

 俺は倉持の考えに半ば同意しながら、缶を受け取る。しかし、どこか釈然としない部分もあった。というのも、地毛色に戻すのは高校の受験日だけで、しかもカラースプレーという節約かつ強引な手段でやり過ごしてやるぜ、てきなことを3日前に聞いていたからだった。
 倉持の中で何かが変わったのかもしれない、と思ったものの、その何かを俺が問い詰めても倉持は何も白状しないような気がした。言いたくないことは言わなくてもいいし、無理に聞くこともない。それが俺の信念だった。

 俺は今日発売したばかりの少年マガジンに目を落とす倉持を、楕円形の鏡ごしに見つめた。自分の信ずる者以外は全員敵であると思わせるような顔つき。しかし、生えてくる髪は繊細で、今まさに整髪剤を落とされて自立心を無くしている。いつもなら丸見えな額が全て隠れていて、その代りにいつもなら隠されているつむじが丸見えだった。なんだかタテガミを刈られてしまったライオンみたいな感じで、もしかしたらといまなら殴り合いをしても勝てそうな気がしてくるから、ヘアスタイルって大事なんだって思う。

 親父はゴム手袋をはめて戻ってくると、丁寧かつ手際よく倉持の髪に染料を付けて、そのまま後ろへ撫で上げていく作業を始めた。そうしてから5分も経たぬうちに、エルビス・プレスリーばりのべっとりとしたオールバックが完成した。

「じゃあこれで時間置こうか。なにかあったら呼んでくれな」

 親父はゴム手袋を外しながら倉持に言葉をかけて、首から吊る下げたストップウォッチのスタートボタンを押すと、俺たちを残してのれんの奥に消えて行った。アラームが鳴るまでの待ち時間は俺が倉持の接客をするのが暗黙の決まりだ。おっさんと話すよりも友人と話していたほうが楽しいだろう、という親父の心遣いでもあった。

「この前さ、連載始まったばっかのフェアリーテイルってやつあんじゃん。結構面白くね?」

 言いながらも俺は、近くに立てかけてあった折り畳みの丸イスを選び、

「お前、聞いてんの?」

 と倉持の背後を通って漫画本が陳列されている棚の前にしゃがみ込む。

「冷てぇヤツ」

 2段目の棚から漫画本を抜き取りながら独りごちると、倉持とちょうど良い距離をたもてる位置に椅子を広げて腰かけた。
 当然、時代を逆にさかのぼる床屋にはオシャレな音楽なんてかかっていない。だから俺たちは、古臭いエアコンが熱を放出するぼおおおんみたいな音をBGMとして漫画を読みふけった。
 しばらくして単行本を読み終えた俺が椅子から腰を上げたとき、雑誌から顔を上げずに倉持は言った。

「良い報告と、悪い報告があんだけど」
「なんだよいきなりー」

 俺は、GTOの最終巻を狭い隙間に押し込めながら応える。

「お前、どっちから聞きたい」
「そうだなー」

 一瞬だけ俺の脳内に先ほど顔を合わせた野球部3人の報われないような顔つきが浮かび上がって、すっと消えて行く。当たらない、で有名な俺の勘はこの時ばかりは冴えているような気がした。
 とはいえ、俺は好きなモノは先に食べてしまうタイプだったので「良い方から教えや」とこたえて、倉持のそばまで椅子を寄せた。
 すると、鏡の中で顔をもたげた倉持と視線がかち合う。なんだか神妙な顔つきだった。
 一呼吸おいて、倉持は口を開いた。

「俺、青道に行くことになった」

 意味がわからなかった。

「せーどー?……どこそれ。ていうか、なにそれ」
「東京の私立高校。お前が知らねーとこ」
「東京の私立って金かかんじゃん」
「だろうな」
「もしかしなくても、お前の母ちゃん金持ちと再婚するとか言うなよ」
「ちげーよ、バカ」

 倉持は無知な俺に対して、青道は野球部の名門校だってことをなんだか誇らしげに話してくれた。3年間しかない高校生活の全てを野球に捧げる為に、寮生活をするってことも。
 くわえて、ついさっきまでおっぱいの大きい青道高校のお姉さんが自宅に来ていたことも、見た感じFカップぐらいだってことも。
 こらえられない嬉しさを押しつぶそうにも押しつぶせない感じではにかむ倉持は、そのときだけ俺よりもずっと年下に見えた。

「スカウトって、すげぇじゃん! お前はさ、こんな片田舎で燻る男じゃないと思ってたよ、俺は」
 甲子園行っちゃうのかー、Fカップおっぱい見放題かー、と腕を組みながら天井をあおぐ。
 一度諦めかけたことがもう一度出来るようになるなんて、夢のようで漫画のような話だと思った。でも、倉持ならきっと漫画の主人公にだってなれそうな気がするから不思議だ。
 世間さまにうやまわれる方じゃなくて、そこかしこに欲求不満をぶちまける、俺たちみたいなゴロツキ共からしたわれるニヒルなヒーロー。一昔前のマガジンだったら何度も表紙を飾っていそうだよ、お前は。

「だから黒に染めてんだ。どうせなら早めのほうが良いと思ってよ」
「ぶっちゃけ俺さ、お前と一緒の高校行けるかもって思ってたわ」

 俺は白い天井についた北斗七星みたいなシミを見つめたまま言った。口をついて出たのが本音だったから、ちょっと恥ずかしくて倉持と顔を合わせられなかった。
 暖房が直接当たる場所にいるせいなのか、首筋あたりが熱くなってくる。

「でもま、もしスカウトされなくてこのままだったらよ、たぶん同じ高校行ってたんじゃねーかな……俺もお前も、頭ん中は同レベルだしな」

 ヒャハハハと笑った倉持の声が天井から跳ね返って俺の耳に届く。倉持の笑っている表情が、その時だけ小学生に逆戻りしたんじゃないかと思うぐらいに腹の底から笑う顔が、白塗りの天井に浮かびあがる。
 アハハハでもなくて、ギャハハハでもなくて、ヒャハハハ。
 なんだか妙なことで、倉持の笑い声を聞くととたんに俺自身もおかしくなってくる。楽しくなってくる。気持ちがスカッとして、なんでもできそうな気がしてくる。そんなやる気パワーみたいなものが倉持のまわりにはあった。
 ずっと天井を仰いでいた俺は痛くなった首を一回りさせると、ぬるくなった缶の中身を空にした。暖かくなった心の中に、言葉にしたいことがたくさん溢れてきて、それを本人にぶつけてみたくなった。

「でも、野球の神様っての? そいつはさ、一度はそっぽを向けたくせにお前を見捨てなかったってことだろ。いい意味でも、悪い意味でも目につくんだよ、よーいちは。何処にいても、何しててもさ。……東京からわざわざスカウトが来てよ、こんな中途半端な田舎で野球をするお前をさ、よく見つけてくれたと思うよ」

 ぐっと指先に力を込めると、空き缶がベコッと凹む。俺はそれを無意味に繰り返す。

「お前ってさ、俺よりイケメンだし、喧嘩もつぇーし、ナンパしたらお前目当てでついてくる女も多いし、もちろん運動神経もいいし……。まぁ、タッパだけは俺の方が勝ってっけど。結構羨ましくてさ、お前のこと。ほら、俺の親父野球好きだろ? お前らの試合見に行った日の晩にはさ、お前のこと酒の肴にしてビールかっくらうんだぜ。それがうざくて、うざくて……。友達が褒められてんのに、なんでこんなにイライラしてんだろうって思ったら、途端に情けなくなってさ。俺って自分のこと嫌いなんだってわかっちゃったんだよなぁ。んで、お前みたいになんかひとつでも秀でてるモノが欲しいって思った。ま、俺に合いそうなモノの手がかりとか、いまだに見つけられてねーけど」

 倉持は顔を伏せたままだったけれど、黙って俺の話を聞いてくれている。

「だからさ、早々に野球を辞めた息子を持つ親父のためにも、その青道って高校で頑張ってくれよな。俺の親父、甲子園行くのが夢なんだってよ」
 言い終わって正面を向くと、鏡の中ではなくて実物の倉持と目があった。
 真顔、だった。

「……おまえそんな恥ずかしいことよく言えんな」

 しかもジト目。

「でもま、あんがと」
 
 褒めているんだからもっと照れてくれてもいいのに、こっちが逆に恥ずかしくなってきた。

「あ”ーもー! つーかさ、なんでお前さっき受験のために染めるとかホラ吹いたんだよ。ふざけんなよマジで。俺とお前の未来予想図返せ。まじで返せ!」

「はぁ? てめ勝手に俺の未来決めつけてんじゃねーよっ!」

 俺は火照った顔をしずめたい一心で、声を荒げてわめき散らす。何かしゃべっていないと、わき上がってくる羞恥心でどうにかなりそうだった。

「どうせあれだろ。あのとき親父がいたから言えなかったんだろ!」
「ごちゃごちゃとうっせーヤツだな。だから女の一人もできねーんだっ。ちょっと、こっち来い!」
「それとこれとはカンケーねーよ! って、ちょっ……苦しっ……ぐる、じぃ……」

 倉持に引き寄せられ、ヘッドロックをかけられた俺の右手から力が抜けていく。握られていたた空き缶が床に落ちて、コロコロと転がっていく。どこまでもどこまでも。

「ギブ? ギブすっか?」と問われて何度もうなづいた末に、俺はやっと倉持の二の腕から解放された。

「ほんと、手加減ってもんを知らねーんだからよー」 

 締め付けられていた首元をなでながら、俺は大げさに言う。

「ヒャハハ! すっげー顔真っ赤じゃん。猿みてぇ!」
「うっせ! お前のせいだろが!」

 思っていた通り、倉持は俺の親父に報告するのが恥ずかしいと思っているに違いなかった。だからあの時に言えなかったんだ。
 野球部の名門に進学する、なんて言葉をすべらせれば必ず親父は倉持を得意になって持ち上げるはずだ。なんて言おうと俺の親父は、バッターボックスに立つ倉持のことをきっと倉持の母ちゃんと爺ちゃんの次ぐらいに応援しているから。だから褒められることに慣れていないヤツにとってはそれがとてもくすぐったいことなんだとも思ったし、特に倉持には親父さんがいないからそれが余計にマイナスとして作用している気もした。

 でもどうせすぐバレる。そうしたら俺の親父に、キメキメのヘアスタイルをわしゃわしゃとかき乱されるに違いない。まるで自分の息子にするみたいにして。それが早いか遅いかの違いだ。
 へんな所で慎重になるやつだよなこいつって、とそう思いながら店のドアまで転がってしまった空き缶を拾い上げたときに上の方からアラーム音が聞こえた。

 ほどなくして、1階に降りてきた親父がのっそりとのれんから分け出てきた。煙草のにおいが尾を引いている。
 いい感じに染まったことを確認するとそこからがまた職人技といった感じで早かった。
シャンプーをして、髪を乾かしていく。
 俺がションベンをしに行って戻ってくると、カットクロスを外された倉持が真っ白なカッターシャツについた髪を刷毛で落とされているところだった。
 俺は倉持の右横から鏡の中をのぞきこんだ。

「おぉー。いいじゃん」
「なんかガキっぽくね?」

 俺に問いかけてきた倉持と目があって、一瞬だけドキリとした。
 暗くなった髪色と、少しだけさっぱりした髪型。大人ぶろうとして、派手に足掻いていた同級生が身の丈に合ったモノをまとう姿に、俺は目が離せなかった。
 まるで幼虫がさなぎを経験して蝶になったみたいで、その身そのままでどこかへ行ってしまう気がした。脱ぎ捨てたさなぎと、そばにあった枯葉なんか目もくれずに。
 きっと、倉持が向かう先には同じ信念を持った奴らが集まる場所があって、こんなハンパな田舎でくすぶり続ける俺にはきっと一生経験することのない時間が待っているんだろうなと思った。
 ここにきて、寂しいような、哀しいような、そんな気持ちが一気に募ってくるなんて思ってもみなかった。
 でも一歩先に踏み出した倉持の背中を掴むようなことはしたくはない。
 目の前の鏡の中。親父と親しげに笑い合う倉持の隣でぼう然とたたずむ俺は、少しでも触れられたら粉々に割れてしまいそうな枯葉みたいにしなびて見えた。

(2014/05/02)