家に帰りたい。
でも帰れない。
だから部屋を変えてくれ。
何処でもいい。
こいつ以外だったら、誰でもいい。
大人になれ、俺。
増子センパイのような寛大な男に……。
行くあての”ある”感情を押し殺すために、沢村はスウェットの袖を噛みしめた。

――5号室 只今、21時20分

「い”って”ぇぇぇぇぇ!」
 サンダルを脱いで、一歩部屋に踏み入った時だ。ふいに、左足の裏から頭のてんこちょまで一気に激痛が走った。反射的に背中を丸めてうずくまると、前方から「うるせーんだよ、静かにしろっ」と罵声が飛んできた。
 泣きたい、と沢村は思った。もちろん、痛いから泣きたいんじゃない。人生の不公平さにだ。自分の不運さにも。もっと厳密に言えば、倉持が自分のセンパイであることに。同室である事実に。そして、3ヶ月前だったら決してあり得なかったこの部屋の有り様に。ゲームソフト、教科書、ノート、脱ぎっぱなしのカッターシャツ、その他もろもろ。
 沢村は、最近有名になったゆるキャラのTシャツを着る倉持の背中を、恨めしげに睨みつけた。

 (ち"くしょう……)

 倉持はいつものように、散らばりきった部屋の真ん中で、腹ばいになり足をバタバタと所在なさげに動かしている。机の代わりにとマガジンを2冊重ねて、最近はそうやって勉強をしているのだ。
 The 俺の部屋。お前の居場所? ベッドの一段目があるじゃねーか。
 倉持の自己中心的な在り方がそう訴えかけてくるようだった。
 5号室から3年の増子先輩が去ってから、3ヶ月が経った。幾分か広くなったはずの部屋だったが、2週間もすればむしろだんだんと居場所が侵食されていった。だから、倉持の機嫌を損ねればベッドの上でお笑い番組を見なければいけなくなっていた。
 まったく、何の罰ゲームだ。
 この痛さだって、部屋をちゃんと片づけてくれてさえいれば味わらなくてもよかったはずだ、と悲痛な思いを抱えながら、ベッドの脚を支えにして足の裏を見た。
 風呂に浸かって柔らかくなった皮膚に埋もれていたのは、なんとゴム製の人形だった。親指先端ぐらいのおおきさで、真っ青な水滴状のフォルムはもちろんあいつしかいない。
 くそっ! なんでお前なんかにHP削られなきゃいけねーんだ!
 真ん丸な目をこちらに向けて口元に笑みを浮かべているのだが、よく見れば頭のてっぺんが平たく削れていた。
 消しゴムとして使われてんじゃねー! 
 (ザラキーマッ!)
 心の中でそう叫びながら、摘まんだフィギュアを床へと投げつけた。それはカーペットの上を2回バウンドして、勢いを落とさずにもう一度そこに身を沈めたかと思えば、大きく飛び上がり――。
「いてっ」3回目はイレギュラーバウンドになった。沢村の心を代弁するかのように倉持の頭上へ飛び上がって、そのまま重力に身を従わせたのだ。
 やべっ! いや、やばくねぇ! 頭部直撃ホームラン!
 ミンティアを食べたような爽快感が沢村の心を吹き抜けた。どんより湿った雨雲から、お天道様の光が差し込んでくるようだ。
 ざまぁみやがれってんだ!
 沢村は頭の中に浮かび上がったダイヤモンドを手を叩きながら回る。
 ”よくやったぞぉ、沢村ぁ!” ”キャー! 沢村くん、かっこいいー!”
 アルプス席の観客たちが自分の名前を呼んでいる。低音が響くヒットファンファーレが心地いい。
 しかしその妄想は、倉持独特の怒鳴り声によってすぐに突き破られた。
「てめぇっ!」倉持が振り返って顔だけを沢村に向けた。その瞳は鋭く沢村に突き刺さる。「人に向かってモノ投げてんじゃねーよ」
 バンっと威嚇するように床を叩いて倉持は立ち上がった。その音に一瞬びくついてしまい、隙をついた倉持に襟元を勢いよく引き寄せられる。
「おい、沢村ぁ。俺の頭割れたらどう責任とってくれんだよ。あぁ?」
 しかし、対する沢村も場末のヤンキー感漂う倉持の絡み方にはもう慣れっこだった。つばを飛ばす勢いで応対する。下手に出るとこっちが負けだ。
「投げてねーし! 逆に片づけただけっスけど!」
 なにか問題でも御座いやしたでしょーか! 小学生のような言い訳を口にすれば、Tシャツがグッと搾り上げられた。ふざけてんのかてめぇ、と倉持の下唇も突き出る。
「つーか、勉強するなら机でやればいいじゃないスか!」
「おいコラ。言うようになったじゃねぇか、1年のくせによぉ。先輩としてまだ教えなきゃいけねーことたくさんあるみてねぇだなぁ。あぁ?」
 くそ、1年だけしか変わんねーのに……。
 そんなことを思いながら反撃する手段を知らない沢村栄純は、倉持洋一の容赦ない攻撃に耐えて耐えてちょっと泣いて、耐えて耐え続けるのであった。


 クリス先輩、事件です。
 金丸は5号室の扉を開けると、まるで何事もなかったかのようにそっとその扉を閉めた。
 なぜ俺はこの部屋を訪れてしまったのだろう。とでもいう風に扉の前で一度首を傾げると、2階へと続く階段を上っていく。
 横になり頬杖をつきながら「このコントつまんねぇなぁ」とテレビの前で尻をかく倉持の背後で、沢村は轢かれたカエルのように四股を広げて身をうつ伏せていた。
 クリス先輩、今日の5号室も悲惨です。

(2014/05/16)
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