私はあの日、初めて彼と顔を合わせたときの、彼のあの表情を5年経った今でも忘れることが出来ないでいる。それはこの夏、瑞々しい青さに囲まれる青心寮の裏門の傍で、私に注いだ表情と同じだったからだ。
 その夜はなんとも悲しい静けさだった。誰もがそれぞれの思いを抱えて、孤独にその夜を過ごしていたに違いなかった。そして、私がその静寂の中に身をひそめるのは、この夜が初めてではなかった。高校時代に3度だけ巡ってきたその日、私は彼らと同じように膝を抱えて、声を殺し、決して戻らない夏を無理矢理に自分の心から引きはがさなければいけなかった。


 北総線の高架下をくぐり抜けたその先で、私はあの日、彼と出会った。
 まるで川に捨てられて、やっとのことで岸に流れ着いた子犬みたいだった。全身を濡らして、くたくた、よれよれ、たまにぶるぶる。小さな身体を小刻みに震わせて、よいしょよいしょと黒いエナメルバッグを引きずりながらコンクリートの階段を上る足元もやっぱり、がくがくと震えていた。
 そんな日常からはみ出した少年の姿を、私は少し離れた場所で自転車のグリップを掴んだまま、ただ惚けたように見つめていた。そのときはなぜだか身体がピタリと動かなかくて、けれども瞼だけはぱちぱちと動いていた。
 真昼のことだった。
 少年は階段を上りきると、私の足元から伸びる影に気づいたのか、力なく顔を上げた。助けて、と懇願するような表情をしていた。私は、その時に初めて「ど、どうしたの?」と声を出すことが出来た。咄嗟に自転車のスタンドを立て起こすと、少年の目線に合わせるように膝を折って屈んだ。とてもびっくりした。少年の顔は酷く傷つけられていた。右の瞼は腫れぼったく、右の目元や頬にも切り傷があった。左半分は擦り傷だけで、顔の右側だけ殴られたような、そんな感じだった。


 それは少しだけ見栄を張ることを覚えた、子供なりの嘘のように思えた。
 川に落ちてしまったボールを拾おうとしたら、逆に誤って落ちてしまった。と鼻水を啜りながら言う彼の唇は青ざめていた。
 私は近くのコンビニにまで走り、タオルと絆創膏、着替えのTシャツとパンツ、最後にホット飲料をかき集めてレジに通すと、彼の元へと駆け戻った。自転車はパンクしていたから、使えなかった。早く行ってあげなきゃと思った。お腹を空かせた小鳥に、はやくご飯を与えてやりたいと思う親鳥の気持ちでいた。一生懸命に走ったのは、サボる事を知らなかった小学生の時以来だった。さくら餅のような匂いのする風を切って走るのが、なんだか気持ちよかった。
 私は息を切らしながら土手の斜面を登った。彼はやっぱり捨て犬みたいに身を縮こませて、コンクリートの階段途中に力なく座っていた。

「ごめん、待たせ、ちゃって」

 と息も絶え絶えに丸まった背中に声をかけると、彼はゆっくりと振り向いた。ゆっくりじゃないと、身体がついていかないみたいだった。

「お姉さん、俺、すごく寒いよ」

 彼はそう言って、力なく笑った。くぅん、と子犬が鼻の奥で鳴いたような甘えのある声だった。
 彼の着替えを待つあいだ、私は階段の最下段に座って目の前に広がる江戸川の河川敷をなんともなしに見つめていた。そのときふと、左横に置いてあった彼のエナメルバッグが目に留まったのだ。
 中央部に金色の糸で刺繍されている”江戸川”の文字は、今は輝きを失って薄汚れてしまっていたけれど、確かに見覚えがあった。私は、先ほど高架下ですれ違った3人の少年のことを思い出して、顔をしかめそうになるのを、唇を噛みしめることでこらえ続けた。彼を不安にさせたくはなかった。

「着たよ」

 階段を降りてくる足音が耳に入って、私は振り向いた。想像通り上も下もぶかぶかだった。Tシャツのほうは首元が広すぎて右肩が見えてしまっていたし、パンツのほうはシャツを入れ込んでも、腰のあたりがひと回りも大きかった。それでも、子どもが父親のものを借りてきたような、無垢な愛らしさがあった。

「ごめんね、コンビニには大人用しかなくって」

 私が言うと、彼は小さく首を振って私の隣に腰を下ろした。

「謝らないでよ。これでも俺、すごく嬉しいよ」

 そう応えた彼の肩に、着ていたカーディガンをかけてやると、彼がこちらに顔を向けた。

「俺さ、今すっごく不思議に思ったんだけど……。お姉さんさ、なんでこんなに優しくしてくれるの? もしかして、俺に一目ぼれしちゃったとか?」

 まだ声変わりの始まっていない、混じりけのない声だった。そんな声帯でキザな言葉を言うものだから、その微妙なズレが無性に可笑しくて、私は声を立てて笑った。私がなぜ笑っているのか分からなかったようで「そこ、笑うとこなの? ねぇ?」と彼は執拗に訊いてきた。私のブラウスをぐっと掴んで引っ張る手のひらは、そのときはまだ、私のそれよりも小さかった。

「君って、結構おマセさんなんだね」

 私は階段を2段上がって、彼の背後に回ると濡れた髪にタオルケットを被せた。彼は河川敷の向こうを見つめながら言った。

「君じゃなくて、かずや。みゆき、かずや」

 俺の名前、結構かっこいいでしょ。と自慢げに言うと、彼は両手で包み持っていたホット飲料の蓋を回し開けて、口を付けた。

「かっこいいね」

 私がそう調子良く合わせると、訊いてもいないのに彼は漢字まで教えてくれた。御幸一也。私の名前も教えると、「#名前#」「#名前#」と繰り返し呟いて、

「漢字は?」と訊いてきた。知識欲の旺盛な子だと思った。私が彼の手のひらに自分の名前を人差し指で書いてやると、くすぐったそうに少しだけ身をよじらせて朗らかに笑っていた。そのいたいけな仕草に心をくすぐられた私も、気付けば彼と同じように笑っていた。

 春風が江戸川の上流から吹いてきて、土手の斜の部分に生える雑草をさわさわと揺らしていた。薄い雲間を抜けて和やかに降り注ぐ太陽のおかげで、少しだけ癖のある彼の髪もすぐに乾かすことが出来た。ふっくらとしたあたたかい空気と、心地よくそよぐ風。とても気持ちがよかった。春の雰囲気にのまれていた私と彼は何度もあくびをして、そのたびにうーん、と上半身を伸ばした。冬の寒さに縮こまっていた身体が早く動かして、動かしてと私たちの心にせがんでいるようだった。
 乾いた着衣に袖を通して、エナメルバッグを重たそうに肩にかけると彼は振り向いた。

「ねぇ、途中まで一緒に帰ろうよ。って、お姉さん、何やってんの?」

 私はそのとき、自転車の後輪の傍でうずくまっていたのだ。前輪のみならず、後輪までもがパンクしていたことに気付いたからだった。私は、私の傍で身を屈めた彼に簡単に事情を説明してみせた。駅の駐輪場に停めておいたら、2時間後にはこうなっていたんだ、って。本当は悪意のあるイタズラにすごく傷ついていたけれど、なんとなく軽い感じで私は彼に話すことが出来た。たぶんこれは誰の心も穏やかにさせる、まごうことのない春のせいなのだと思った。
 ぶにょぶにょの後部車輪を短い人差し指で弄んでいた彼が顔を上げた。

「今日は俺もお姉さんも、ツイてない日だね」

 彼はそう言うと、よいっしょと立ち上がって、頭の後ろで両手を組むと歩き始めた。私は彼に置いていかれないように、自転車のスタンドを蹴り上げた。オレンジ色に変わった太陽は、河川敷の土手の上から見渡せる屋根の全てを、同じオレンジ色に染め上げていた。
 私は彼の後ろからその小さな背中を目印にして、自転車を押し進めていった。

 これは私が高校に入学する前の話で、一也もその春、中学に上がる齢のときだった。
 この時から変わったことはといえば、何の目標もなしに高校生活を送ろうとしていた私が、彼にほだされて野球部のマネージャーになったということ。そして、その3年間をとても有意義に過ごせたということ。
 それと、彼がいつからか私に対して距離を置きたいとでもいうように敬語を使うようになって、けれどもまた私の事を呼び捨てで、親しみを込めて名前を呼んでくれる日が訪れたことだ。


 京成本線の高架下で、俺は待っていた。
 京成江戸川駅のほの暗い改札から、他の乗客たちよりも後に出てきた#名前#が、自販機にもたれ掛っていた俺に気づいて、小走りで近づいてきた。

「もしかして、ずっと待っててくれたの? 連絡くれればよかったのに」
「さっきしましたよ。でも、返事来なかったんで」
「ごめん、充電がなくなっちゃってて。そういえば久しぶりだね、一也と会うのも」

 青道高校の指定バッグからマフラーを取り出し、首に巻きつけた#名前#は、その奥から財布を取り出すと俺の方へ顔を向けた。

「今日も寒いね、何か温かいもの飲む? 私がおごるよ、何が良い?」

 俺は#名前#に気づかれないように、チノパンのポケットに手を差し込みまさぐった。財布さえ持たずに来てしまったことを後悔しながら「喉乾いてないんで、俺はいいです」と返す。それだけ早く会いたかった。

「一也はいつからそんなに意地っ張りになったの?」

 #名前#が眉毛を下げて、それでも口元に笑みを浮かべながら自販機のボタンを押した。「寒いくせに。唇、紫色になってる」
「なってないっすよ」俺は口元に拳をあてて、#名前#とは反対側に顔を向けた。
 改札内にいるのは、俺たちだけだった。
 とってつけたようなわびしい白熱灯にも、夏には集まっていた虫たちさえいなかった。時折に、駅前の舗道を自転車が横切っていくだけだ。
「はい」頬に暖かいものが宛がわれて、俺が仕方なしにそれを受け取ると#名前#が言った。

「今度は一也がおごってね。私はパフェがいいなぁ。花やしきの近くにある、あのお店のさ、イチゴの奴でいいよ」
「なんかそれ、俺、すっげー損してません?」
「うそうそ、本気にしないでよ!」

 #名前#が俺の背中を軽く叩いて、俺の一歩前を進んだ。
 俺は彼女の後ろから、いつのまにか自分より小さくなった背中を目印にして、歩を進めた。

 これは俺が中学を卒業する前の話で、#名前#もこの冬、高校を卒業する齢のときだった。
 この時に伝えた、彼女に対するそのどうしようもない感情を、彼女もまた俺と同じようにその身体の中に隠し持っていたのだと知った時、もう一度その言葉を繰り返してほしいと、俺は抱き寄せた彼女の肩に顔をうずめて、そう告げたのだ。

(2014/05/18)
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