「もしもし? うん、終わった。どっちなのかわかったよ。うん、あとで教え――」
 え? と主子の顔色が突然に曇った。
 すれ違いさまに向けられた若い妊婦の訝しげな視線から逃れるように、作り笑いを浮かべてから顔を逸らす。
「え、なに? 優太くんの家? もしかして雷ちゃん、もうそっちにいるの? 早く来いよな、って……。ちょっと! 雷ちゃん? もしもーし? もし――」

 まったくもう、雷ちゃんはいつまでこうなんだろう。
 主子は身のしぼむようなため息を吐きながら、液晶画面をタップする。
 社会人になり、自身でお金を稼げるようになった今でも、彼は学生のころとちっとも変ってはいなかった。いやむしろ身体だけは中学生の頃に成長できなかった分、高校時代から大きく変わってはいるのだけれど。
 もう少しぐらい気遣いや思いやりの心を持ってほしい。そう願うのは何もかも与えてくれるようになった雷市への贅沢な悩みなのだろうか?
 眩しく猛る8月の太陽に手びさしをして、主子はしぶしぶに顔を上げた。

 男はね、何だって一から教えなきゃわからない生き物なのよ。
 愚痴にも似た友人の言葉がふっと胸に届いて、主子はまたため息をついてしまう。


 麻生地のソファーに身を沈めた主子の足元にしゃがんで、雷市は上半身を乗り出した。彼女を一息させる間もないまま、その下腹部に耳を押し当てて、首をかしげている。

「いま動いたか?」
「動いていませんけど」

 主子はムッとして、あてつけのように他人行儀で返す。けれど雷市は、肩で息をする彼女に気づく素振りもなく、いまだに耳をそばだてている。

「雷ちゃんさ、私を迎えに来ようとは思わなかったわけ?」

 え? というふうに雷市が顔を上げたので、主子はおもわず彼の額を爪先で弾いていた。
 全然ダメだ。ダメ、ダメ。ダメの10万回!
 他人のこと(ほんとうは野球以外のぜんぶ!)となると雷市はてんでダメなのだ。自分の思いさえ上手く伝えられない手前、どうして他人の思いをくみ取ることが出来ようか。しかしそれでも妻のことであれば、すこしでも理解しようとすべきではないのか。
 主子はオロオロと焦り始めた雷市から顔を逸らして、壁沿いに設置されている木製の棚に目を向けた。
 年季の入ったグローブのすぐ隣には、高校時代の彼らが映る写真が簡素なフレームに入れられて3つ立て置かれている。
 主子は思う。雷市と出会ってからいままで喧嘩と言う喧嘩をしたことがなかったのは、弁の立たぬ彼の性格が良いように作用してくれていたからだと。だから主子がぐちぐちと言うだけで、雷市は何も言い返してこなかった。でもそれは、傍から見れば、何も考えていないことと同じだった。現状、彼は主子が何に対して怒っているのかわからずじまいでいる。

 毛の長いカーペットの上で窮屈そうに正座をした雷市が「主子……俺、」と声を絞り出したとき、彼女の傍からマグカップが差し出された。

「主子さん、どうぞ」

 主子に話しかけるチャンスを掴みそこねて、再びうなだれた雷市を尻目に、彼女は一真へと顔を向ける。

「ホットミルクなんですけど、飲めますか?」
「ありがとう。ごめんね、気を使わせちゃって」
「いいえ」と一真は微笑んだ。相変わらず人の良い顔をしている。

「優太くんも、ありがとうね」

 主子がキッチンを振り返って言えば、優太はカップにコーヒーを注ぎながら「そんなもんしか用意できなくてすんません」と返す。ぶっきら棒な言い方だったけれど、しっかりと優しさが含まれていた。主子はほんの一瞬だけ雷市との離婚を考える。

「俺たち、子供は絶対男じゃないかって思ってたんですよ。当たってましたね」

 一真は優太からマグカップを受け取ってくると、ローテーブルを挟んでソファーの向かい側にあぐらをかいた。ややあって、優太もその隣にクッションをひいて腰を下ろす。

「私もなんとなく男の子じゃないかなって」

 主子はカップを両手で包み込んでふんわりと笑う。
 幸せそうでよかったと、彼女と向かい合う2人は同時にそう思った。

「本当はね、一番最初に育てるなら女の子が良いなって思ってたんだけど、雷ちゃん女の子と話すの苦手でしょ」
「いや、人と話すこと自体苦手だと思いますけど」
「おい、優太」

 歯に衣着せぬ優太の物言いに主子は「そうなんだよね」と笑った。

「だから男の子で良かったのかも。男同士だったらスキンシップも取りやすいでしょ」
「まぁ、女の子よりかは」と言いかけて優太は雷市に視線を向けた。
 寝ていた。ソファーの座枠に頭をもたれて、彼はすやすやと眠りこけていた。

「おいコラ、雷市! 主子さんが――」
「優太くん、いいのいいの」

 主子が遮るように言う。

「昨日の試合で疲れてると思うの、そのままにしてあげて」
「いいってそんな……」

 優太は狐につままれたような気分になった。
 主子は相変わらず、雷市の頭部をやさしく撫でつけている。それを見ていると優太は我慢ならなかった。

「これからもそうやって雷市を甘やかしていくつもりなんすか」
言うと主子の手はやっと雷市の頭部から離れた。優太は続ける。
「もうこいつ父親になるんすよ。勝手に主子さんのこと呼びつけておいて、自分は寝るなんて馬鹿な真似、ふつうはしないと思いますけど。俺が子どもだったらイヤっスね、母親を大切にしない父親の姿なんてみたくないんで」

 何もできない雷市の面倒を見ているうちに、主子は彼に尽くすことをすっかりと身につけていた。しかし、当の彼女はそのことに関しておかしいとは気づいてはいない。少しだけ彼のことに親身になりすぎているとは感じていたものの、それが普通のことなのだと当然のように思っている。
 一真も優太に同意するように頷いた。

「主子さん、俺たちすごく心配しているんですよ。変な話、このまま行けば子供を2人育てるようなものじゃないですか? それで大丈夫なんですか?」

 主子はマグカップの見えない底を見つめたまま、何も言えずにいた。
 雷市に父親の自覚を持ってほしいと思うものの、どのようにすればよいのか手立てが見つかってはいなかった。マタニティ雑誌を見せてもあまり興味を示してはくれず、試合がある日は定期健診に付き添うことさえ出来ない。彼が主子のお腹に耳を当てる行為も、人間のお腹の中に生命が入っている神秘を興味本位で覗くような、愛というより好奇心に近い気もしていた。
 でもそれは、雷市を甘やかしてきたツケなのかもしれないとも思うのだ。
 一抹の不安が頭上に広がり、主子を押し包む。
 悲観的に瞳を揺るがせる彼女を見て、一真は言葉を繕った。

「あの、主子さん。ごめんなさい、俺たち言い過ぎました」

 主子は顔を上げる。焦点の合わない瞳でふたりの姿をぼんやりと見つめてから、首を振る。

「そんなことないよ。私もね、ずっとどうすればいいかなって考えてたの。こういうことって本人が訊くのもおかしいかもしれないけど」

 主子はひとつ深呼吸をすると、すがる思いで口にしていた。

「どうすればいいの、かな……」



 「こっちにきて」

 と促され、雷市は及び腰にソファーへ腰を下ろす。人懐こい子犬のようにこてん、と主子が肩にしなだれかかり、彼はほんの一瞬身を固くする。彼女のすべてを自分のものにしてもなお、いまだ温もりのある振る舞いには慣れないでいる。
 けれども永遠にそのままであればいい、とも思う。

「今日はいっぱい動いたから疲れちゃった〜」

 あくび混じりの彼女の言葉は、今の雷市にはこたえるものがあった。
 帰り際、優太と一真に板挟みにされて、主子に対してもう少し思いやりを持てと、これでもかと非難を浴びせられていたのだ。
 何をしてやれば良いのかわからない、と返せば
”主子さんがお前にしてくれたように、お前も主子さんに色々としてやればいい”
 とふたりにそう言われて、雷市は追いだされるように優太の部屋を後にしていた。
 そのことを伝えたいと、しかしなんと言えばいいのか雷市は言葉を出しあぐねている。

「俺さ……えと……ふたりに言われて……」
「うん、」

 主子が言葉を促すように彼の手を取って、やさしく包み込む。
 指先が少しだけ冷たく感じる。それでも彼女の頬だけは、ほんのりと赤く染まっているように見える。

「主子の身体、もうちょっと気遣えって。父親になるんだからって……。だから、今日も、その……ごめん、なさい……」

 主子が「ううん、」と首を振る。

「私も雷ちゃんのこと甘やかしてばっかりで、それが雷ちゃんのためになると思ってたの。でも、ぜんぜん違ってた。私もあのふたりに言われてようやく気付けた」

 主子は雷市の手をとると、膨らみのある下腹部にいざなった。

「雷ちゃんのお父さんが雷蔵さんであるように、雷ちゃんもこの子のお父さんになる。それから私も、私を生んでくれたお母さんと同じように、この子のお母さんになる」

 撫でてと言わんばかりにそこに当てられて、雷市は今まで何度も繰り返してきたこの行為に、特別な豊かさを感じ始めていた。

「なんだかすごいよね。この子だって、顔もしぐさも、性格も違う私たちの良い所も悪い所もすべて受け継いでくれるの。それでね、この子がまた大人になって、わたしと雷ちゃんみたいに愛する人を見つけて、その思いがまた1つの命になるの」

 何とも言えぬ、責任感の様なものが少しずつ芽生えてくるようであった。
 自身の手を雷市の手に重ねて腹部を撫でる主子の姿を見て、かつて感じたことのない愛情を、彼女と、そして彼女のお腹の中にいる子どもにわけ与えてやりたいと、雷市はそう思わずにはいられなかった。

「雷ちゃんと私が結ばれたこと、愛し合ってたこと。この子達の存在がね、それをずっとずっと未来まで伝えてくれるの。……私はすごくうれしいよ」

 うれしい。俺もうれしい。
 家族が増える幸せに気づいたとたん、雷市は身を慄わせてぼたぼたと涙を滴らせていた。
 とおく幼少時から焦がれるように抱いていた、はかない夢だった。
 母親がいて父親がいて、その真ん中でむじゃきにはしゃぐ子どもの姿。指をくわえてみる事さえできなかったその光景。
 今はもう真ん中に立つことは出来ないけれど、それでも主子と顔を見合わせて我が子の行く末を見守る父親になることで、その夢が叶おうとしている。

「あ。まーた泣いてる。この子が泣き虫だったら雷ちゃんのせいだからね」

 主子は後頭部に雫が垂れ落ちてきたのを感じて、ふと顔を上げていた。

「だって、俺……ずっと、ずっと、親父とふたりきりで……」
「うん、」
「むかしは大変だったね」

 と主子の手がしゃくりを上げる雷市の頬に伸びて、涙をぬぐう。
 雷市のぬくもりが伝わった指先はもう、冷たくはない。

「俺と、親父と、……主子と……あと、……あとっ……」
「この子?」と主子が言い、雷市はしっかりとうなずく。
「俺……これから、いろいろ手伝うから……主子に迷惑かけないようにする、から……」
「うん、ありがとう。私も元気な赤ちゃんが生まれるように頑張るね」
 
 主子の両手に包み込まれて、雷市は彼女と額を合わせた。
 あたたかい、彼女はとてもあたたかい。

「お洗濯とかお掃除とか、あとお料理も。これからは一緒にやっていこうね」
 
 主子はそう言って、おまじないのように雷市の濡れたまぶたに口付けた。

「この子も雷ちゃんと同じように優しい良い子になるよ。きっと」

 主子の胸元に引き寄せられて、雷市はこのときだけもう一度、あの頃のようにすがりついた。
 これで彼女に甘えるのは最後にしよう、そう思いながら子守唄のように奏でられる鼓動を聞いた。


 愛らしい主子のうしろ姿が、まぶたを閉じればそこにはあった。
 そしてふいに彼女は振り返った。
 我が子をしっかりと腕に抱いて、主子もまたうれしみの涙をながしている。 
 

改稿(2015/04/30) 初稿(2014/06/06)
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