お腹あたりに重みを感じる。
「主子、起きて」
 声がする。可愛らしい少年のような声。
 昨晩、普段とは違う汗を流しながら
「好きだ、好きだ」
 と、それしか言えなかったあの彼の、擦れ気味の声ではなかった。
 目を擦り、朦朧としながらも主子はゆっくりと瞼を上げた。


 いったい、何がどうなったらこのような事態になるのか。


 文字通り、主子は飛び起きた。
 わっ! とタオルケットを掴んだ彼女は、それを胸元に引き寄せヘッドボード際まで後ずさる。彼女の丸い目はさらに丸くなり、何か言おうとして、言えなかった口の方はぽかんと開いたままだ。
 いや、ありえない。と主子は首を振った。
 もみあげの長い野暮なヘアスタイル。
 キリッとした眉。
 その下の挑みのある瞳。
 ツンとした鼻。
 形の良い唇。
 しかし彼女が何度瞬きをしても、ベッドの際にぺたんと座り、困った感じで目を向けてくる少年の姿は、まさしく雷市そのものに変わりなかった。そればかりか、黙って見つめ続けると、先に顎を引いて視線を逸らす癖が彼にはあるのだけれど、それさえも瓜二つの所作であった。
 いや、だって……そんな……。と主子は未だこの状況を把握出来てはいない。
 彼女は元より、自分の部屋にいる事実に狼狽えているわけではない。よって、彼と共にベッドで寝ていたことに言葉を失っている訳でもない。
 理由は一つ。彼の全てがあまりにも幼く見えていたからだった。
 それは体躯がそうであるように、年齢でさえ本来の雷市の半分にも満たないような、そんな子供らしい、顔つきであった。そしてこの非現実的な状況の中、ふいに主子の頭の中に浮かんだのは、ある憶測だった。
 あり得もしないその憶測を、もしかしたらと、小数点以下の確率で真実になりそうであったが為に、彼女はベッドサイドの小さな円卓に目を移す。
 そこに置かれている電子時計は、昨日から1日しか経っていない。そこから真下に視線を滑らせて主子はゴミ箱の中を覗く。丸められたティッシュと避妊具が入っていた小袋が捨てられている。
 避妊はいつもしている、と主子はしっかりと頷く。
 そもそもの話、1日で子供が生まれるはずがないではないか。なんとも異様な証明の仕方だったが、これで目の前にいる少年が雷市との子ではないと、主子は確信出来た。
 だとすれば――。
「もしかして」主子は前のめりになりながら、恐る恐る訊ねる。「雷ちゃん、なの?」
 すると真っ白なシーツをくしゃりと握りしめながら、少年は「ん、」と頷いた。プラスチックのメガホンで殴られたような衝撃が主子の後頭部を襲う。
「主子……。おれ、これじゃあガッコいけない」
 子供特有の舌足らずな感じが、彼の幼さに拍車をかけていた。それもそれで可愛いのだけれど、今の主子にそう思えるほどの余裕はない。
「あ、えと、そ、そうだよね、学校、学校行けないよね。ど、どうしよう……」
 本当にどうすればいいのか、と主子は前髪をかき上げて天井を見上げた。未来へ行くことは出来ても、過去に戻る事はできはしない。
 少し跳ねのある髪をぐしゃぐしゃとまさぐり、主子はハッと一瞬の閃きを感じたが、しかし、すぐにその考えを放り出す。
 それもそのはずで、小さくなってしまった手を見つめ、握ったり開いたりする雷市に「小学校に行けばいいんじゃない?」なんて馬鹿な言葉をかけられるはずがない。
「あーもー、私にはどうすればいいかわかんないよ」主子は、お手上げだとでも言う風に頭を横に振って、ベッドの上になおざりにされたままのTシャツを拾い上げた。「雷ちゃんさ、昨日変な物食べた? 変なことした? もう、それぐらいしか考えられないって」
 主子が言う”変なこと”に思い当たる節があったのか、そのとき雷市は顔を向けた。
 Tシャツの袖に手を通し、ちょうど襟から顔を覗かせた主子と目が合う。
 彼女は一瞬、「なに?」と首を傾げたが、あっ! とその言葉のあやに気付き、慌てて顔を逸らした。彼女の頬は赤く火照り、一方の雷市も目の下を赤くさせ、ぶかぶかのTシャツの裾をぎゅっと握りしめる。
「いや、あの、ごめん。そういうことじゃなくて、そういう意味じゃないよ、そう、あれは変なことじゃない、と思うし……」
 じゃあどういうことなのだろう。語尾が曖昧になってしまったのは、きっと世間への罪悪感があるからに違いなかった。
 未成年とのキス、その延長線上にある性行為。
「主子、……したい……」と消え入りそうな声で、彼なりの精一杯の求め方で始まる戯れ。
 自分から言っておいて、続ける言葉が見つからなくなってしまった。主子は、いても立ってもいられずにベッドから降りると、2人用のソファーへ座り、身を縮こませた。ショーツしか履いていないためか、少しだけ下半身に涼しさを感じながら、未だ熱をもったままの顔を膝に埋める。
 子供の前で何を言っているんだ私は、と主子は深く息を吐いた。



 彼女が一人でしょ気かえっている一方、雷市もまたベッドをよいしょと降り、テレビ台にもなっている本棚の元で、ペタリと座り込んでいた。
 本の背表紙をなぞっていき、お目当ての本を抜き取る。理由は解らないが、ソファーの上でダンゴ虫のように丸まっている主子を振り返ってから、雷市はその本を拙い手つきで捲っていく。
 それは先日、友人の結婚式の引き出物として、主子がグルメカタログと一緒に貰ってきたものだった。別段読みたいとは思わなかったものの、カタログのほうを見終えた雷市は、彼女がドレスから部屋着に着替えている間の時間つぶしとして、その本を軽く手に取っていたのだ。
 だから、ふと思い出していた。
 自分が元に戻る方法がこの本には描かれている、と。
 雷市はその大事なページを開いたまま、主子のもとに駆け寄り、「おれ、見つけたよ」と声をかけた。
「なに?」と主子は気弱な顔を上げて、雷市は「これ」と右側のページに描かれているイラストを人差し指で指し示す。
 悪い魔女によって、姿を獣に変えられてしまった王子様が、お姫様のキスで元に戻るという場面だ。
 クマゼミの鳴き声が途絶えて、シンと部屋の中が静まり返る。主子は何も言わない。
 なんのアクションも起こさない主子に待ちくたびれた雷市は、様子伺うように彼女の顔を見上げた。
「主子?」
 と雷市の呼びかけに、そのイラストをじっと見詰めていた主子は、ハッと我に返り雷市へ顔を向ける。
「ちょっとこれは、えっと、」
「うん」
「確かに元には戻ってるんだけどね」
「これじゃあ、むり? もとにもどれない?」
「うーん、ど、どうなんだろう……」
 曖昧な言葉を選んで、首を傾げるだけの主子を見て、雷市はしょんぼりと肩を落とした。
「そうだ、バ、バナナ食べる?」と機嫌を取ろうとする主子の声が振ってきたが、顔さえ見ずに「いらない」と返す。
「え、ちょっと。拗ねないでよ、雷ちゃん」
 主子はソファーから降り、カーペットに膝を立てると雷市の顔を覗き込もうとする。焦る主子をちらりと一瞥して、雷市は再び水玉模様のカーペットに視線を落とした。
 彼自身気付いていない幼児独特の性格が、露呈し始めていた。身体だけではなくその上考え方までも退化し、幼くなっているようだ。
 だから、絵本の中の物語を本当のことの様に信じてしまっていたし、今のように自分の意思が通らなければ、すぐにねじくれてしまう。もちろん父親には、幼児期にこのような態度を一度も取ったことがないのだけれど、相手が主子であるから、その部分を我も知らずにさらけ出してしまうらしい。
 少しだけプッと膨らませた雷市の頬に主子の両手が宛がわれる。
「ご、ごめんね、雷ちゃん」主子が困った顔をして、困ったように笑ったのが雷市にはわかった。「じゃあさ、えと……。1回だけ、しよ。ね?」
 その言葉に頷いた雷市は、主子のTシャツを握りしめた。
 そんな積極的な雷市に動揺を隠せず、主子はビクリと身体を強張らせる。
 加えて、小さい子供にキスをするという行為に両手の置き場所を決めかねていた主子だが、覚悟を決めて1つ深呼吸をすると、彼の肩に手を置いた。
「も、戻らなかったら。えっと、ごめんね」
「もどれる、ぜったい」
 主子の瞳とぶつかる。
 とそのとき、やらなければいけないことをひとつ思い出した。雷市は待って、と言うふうに小さな手のひらを主子に向ける。
 そうしてから、ローテーブルに置かれた絵本を覗き込み、見よう見真似で主子の背中に左手を回し、右の手を彼女の右頬にペタリと添える。
 キスをする姿も、同じようにしたほうが良いと思ったのだろう。子供は真似をするのが好きなのだ。
「ちょ、ちょっと!」とそのあいだにも主子の顔はみるみるうちに赤く染まり、目は潤みを増していた。
「いいよ」
「いいよって……。もう、何が何だか……」
 泣きそうになりながら、主子は心を落ち着かせようともう1度深呼吸をする。

 クマゼミの合唱が始まった。
 白いカーテンが夏の風に揺れている。
 そばのローテーブルの上で開かれていた本がパラパラと捲られていく。
 そしてパタン、と閉じられた。



 まるでデッサンをする画家のような顔つきだった。
 キッチンのガスコンロの前で主子は、手前、奥、手前、奥、とピントを交互に移して、手元にあるアルバムの中の雷市と、リビングで呑気に朝食をとる雷市とを見比べていた。
 確かに今の雷市と、長方形の枠で顔だけ切り取られている彼とを比べてもしょうがない、とは思っているのだ。けれども1つだけ、なんとも形容しがたい不思議な感覚が、あの日から脳にこびりついて離れなかった。
 結局、あれは夢だった。
 そして思い起こしてみれば、あの時の彼の左頬には傷跡が無かった。今手元にあるアルバムの中の彼も同じく、頬に傷跡は見られないし、夢の中の彼もこのぐらいの歳だった。
 だからなんだ、と聞かれれば、そこが不思議なんだと応えるしかない。
 小さい頃の彼の姿を、今初めてみたのだから。
 したがって、夢の中の雷市の頬にも、傷が付いていないとおかしいのではないか、と主子は首を傾げる。
 ――だがもし、と主子は想う。
「ねぇ、雷ちゃん」
 ソファーとローテーブルのあいだであぐらをかく雷市が、卵焼きを摘まみながら「ん?」と顔を向けた。少し猫背なのだけれど、その姿が妙に愛くるしい。
 ――だがもし、1回どこかで出会っていたのだとしたら。
「ごめん、なんでもない。呼んでみただけ」
 少しだけ口元を緩ませて主子は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、雷市の背後にあるソファーに膝を抱えて座った。アルバムとボトルを脇に置いて、目の前にあるつむじをつつくと、雷市がこちらを見上げるように振り向いた。
 ――やっぱりそれも運命なのかもしれない。
 そう想いながら主子は手を伸ばして、彼の額にそっとキスを落とす。
 あの時の様に心を込めて、触れるだけのやさしいキスを。
 
触れるだけのキス 2014/05/25
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