まるで黒猫のようだった。 昼食支度の匂いを嗅ぎ付けると、彼女はやおら起き上がってきてはその身を俊平に擦りつける。 下着しか身に着けていないのは彼を挑発するためではない。彼の前では日常のしがらみから逃れ羞恥心の薄れた、ただのものぐさ女になってしまう。 ずるいんだ。私はずるいやつだ。 所帯を背負う夫を差し置き、若い男に夢中になる自分を苛めながらするセックスは、奇しくも夫婦生活を順風にさせた。可笑しいけれど、夫との諍いもなくなった。まだ子のいない自分にとって、俊平はもしかしたら自分と夫とをつなぎとめてくれる子供のような存在なのかもしれないと、そう思うことさえあった。 活字ばかりを追いかけてきた夫と比べて、親子ほどの差がある俊平のたくましい背に凭れる。「にゃお」とでも言いたげなあくびをひとつすると、彼女は彼の首に腕を巻きつけた。まるで尻尾を立てた猫同士があいさつでもするように、二人は向き合い、唇を合わせ始める。 彼女の乾いた口内にトマトの鮮やかなにおいが弾けるように香った。 ふつふつと煮える鍋の中身はたぶん、――。 「今日はいつ帰ってくるんすか」 「あの人? バレたらまずい?」 「それ、俺のセリフなんすけど」 俊平が彼女の肩にかかる髪を掬いとると、鼻を近づけた。甘ったるいだけの安いシャンプーの匂い。初めて彼女を抱いた時から、この匂いが彼にとって特別刺激的なものになった。 「俺とあの人と、どっちのほうが好きっすか」 彼女を胸に閉じ込め、俊平はその髪に頬を摺り寄せた。 彼女は彼の耳元で囁く。 「どっちも愛してる。それじゃあダメなの?」 言いながら、言葉のバカバカしさに唇をかんだ。 遊びと本気の一線は越えない、それが条件。付き合う前、子供のように小指を絡めてそう誓い合ったことを俊平は忘れてしまっている。 彼女は彼の腕から逃れると、鍋のふたを外して中を覗き込んだ。トマトのみずみずしい甘みと酸味が喉を通り抜けていく。これだけでもお腹が膨れそうだ。 「これ、あの人の大好物。いつもいつもこればっかり作るの、わざとでしょ?」 自分たちは何も知らぬ夫を弄んでいる。かつて、俊平と同じように愛した夫の後ろ姿が浮かび上がり、彼女はきつく目を閉じた。そして悔んだ。もう自分の中で、夫は背を向けてしまっていた。 俊平は何も答えない。 代わりに彼女の背中を抱き寄せると、愛し合うその口でおぞましい言葉を言いのけた。 それは彼女が恐れた、そして一番に求めた台詞だった――。 |