コミカルなマンボ No.5を口笛にして太陽が西へと沈み、真珠のように硬く冷たい満月が愛の夢を奏でながら東45度に顔を出したころ、金網のフェンスに身体を押し付けられた主子の心臓は嬉々として、じゃなくて危機として速鳴っていた。

 満月に照らされた常松の身体は熊のように大きく、長く伸びた影が主子の顔を覆っている。ここでひゃあ、と可愛らしい声でも出してやろうと思ったけれど、考えてみればそれも彼の計算の内に入っていそうでやめた。

「ちょ、ちょっと! 常くん、一体何のまね?」
「え、アレっすよ。昨日、月9で――」
「げつくぅ!?」

 もともと影響を受けやすいたちであった。
 ゴリラと揶揄される集団の中にいて、しかし外見に似合わず宵宵に星空を眺め見る生粋のロマンチスト野郎であった。
 言うだけ野暮だがアンパンマンが彼のヒーローであり、主子の存ぜぬところで彼女が可憐なヒロインを務めあげていた。
 だから当然、主子は自分を受け入れると思っている。純粋であることとバカであることはこういうとき、同じ意味になる。

「ごめん、常くん。わたし、ドラマとかあんまり見ないからよくわからないんだけど……」
「え、そうなんスか?」
「ごめんね、本当にごめん。もう戻っていいかな? ほら、明日の準備とかあるし」

 と言って、主子はその身体をかいくぐろうとする。でも、右腕が金網に張り付いたまま言うことを聞かない。主子は泣きたくなった。
 本当は昨日の月9をしっかりと鑑賞していた。最終回に向かって盛り上がる第7話であった。主子の永遠の王子様、ヂャニーズJrの足越くんが主演を務めていて、もちろん視聴者が待ちに待った砂原さとみとのキスをロマンチックに交わしていた。
 主子もテレビの前でときめきを掴むようにうっとりと見ていた。砂原さとみの姿に自分を重ねてベッドに入り、足越くんが夢に出てきますようになんて愛らしい願いを唱えながら眠りについた。足越くんとキス。キスさせてください神様。
 ん? と思った。誰も足越くんの役になりきった常くんとキスしたいとは言っていない。 
 小川常松と足越祐也。後ろから見ても、斜めから見ても、下から見ても、間近に見ても、遠くから眺めても、名前だって誕生日だって何もかも……。

「……ちがう」
「え」
「ぜんぜんちがうよ! ヒロインが抑えつけられていたのは左腕だった! それに主人公は左利きで――」
「あ、やっぱ違ってたんスね。俺もなんか違うと思ってたんス」

 常松が手を離した隙に、主子はさっと距離を取った。主子が猫のようにフーフーと、苛立っているのにもかかわらず、常松は普段と変わらずクマの人形のように首をかしげている。

「え、なんで逃げるんスか」
「常くん、ちょっとね、あなたね、最近ね……」

 主子は優しかった。でもそれは時としてあだとなる。彼を傷つけまいと言葉を選んでいると、常松が先に告げた。

「俺、主子先輩のこと、好きっス」
「ニャんだってー!?」
 
 知ってた。とうの昔から知っていた。たぶん、誰もが知っている。
 なんで今言うんだ、という意味で思わず飛び出た「なんだってー!?」が猫語になってしまったのかは、もう自分でもよくわからない。ハッと唇に手を当てると、常松が照れながら「今の、すごいかわいかったっス」と言う。
 ゆっくりと近づいてくる常松。そろそろと後ずさる主子。

 平和な地球の上、お月さまよりももーっと遠くの世界から、恋の神様はそんなふたりを楽しそうに眺めていましたとさっ☆ミ


(2015/05/23)
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