際に束ねた純白の斜光カーテンが、エアコンの送風にゆったりと揺れている。
 河川敷を眼下にして立つアパートの2階からは、鉄道橋を挟んで広がり続ける住宅の屋根屋根しか望めない。もちろんそこには四季の移ろいなどあるはずもない。

「雷ちゃん、何見てるの?」

 にも関わらず、そんな代わり映えのしない窓枠の外に顔を向ける雷市は、眩しそうに目を細めている。もしかしたら、眩しいように見えるのは主子の思い違いで、遠くにいるであろう誰かのことを睨んでいるのかもしれない。口元までも布団で隠し、ぼそぼそと漏れる言葉は呪いの呪文のようにも聞こえてくる。
 いま、雷市が苛立っているのは確かだった。

「寝ないと風邪は治らないよ。ねぇ、聞いてるの?」

 ベッド際に座る主子が身を乗り出して、雷市の顔を覗き込む。
 するとすぐさま、ひまわり柄のタオルケットを掴んで雷市は後頭部までも覆い隠す。

「なんで隠れちゃうの?」
「今日はすげー球投げるやつがいるって、ミッシーマが言ってた」
「だからなに?」
「試合、行きたかった……」

 くぐもった声が愚痴をこぼす。
 さきほどから口を開けば試合試合と雷市はそれしか言わない。どうしても練習試合に行きたい。風邪ひいてるから無理。そんな実りのない会話を二人は何度か繰り返していた。
 一週間前の約束を思い出しながら、主子は振り返る。
 掛け時計の下のカレンダーを見つめながら、ふとため息をついていた。
 今日、8月2週目の土曜日。
 日付よりひと回り大きく赤丸をつけたのは、主子ではなく雷市だった。下の余白には”主子が試合見にくる”と書かれている。小学生のように幼げな字体を見るたびに、仕事終わりの疲れ切った身体からは力が抜けて、しかし心だけは不思議と恢復してしまう。
 だから主子だって、今日を楽しみにして追われる仕事をこなしてきた。
 バッターボックスに立ったときだけ見ることのできる、頼りがいのある大きな背中が見たかった。バットを振り切って、飛んでいく白球を満足そうに眺める横顔も見たかった。

「試合に行けないのは当たり前なの。風邪ひいてるんだから大事な身体を休めなきゃ。ほら、お父さんも言ってたでしょ。”身体がバカになってたらなんも出来ない”って」
「……あのクソ親父」
「ほら、そういうこと言わない。冷えピタ買ってきたから、顔出して」

 と主子は有無を言わさずに、タオルケットを引き下ろす。それでも雷市は横向きになったまま微動だにしない。
 今日、何度目かの呆れた、という言葉を心の中で呟きながら、太陽に焼かれた男らしい首筋に手を伸べて熱をうかがう。すると、長いもみあげからのぞく雷市の耳が見る間に赤くなる。

「今朝よりは大分よくなったと思うんだけど、まだ少し熱いみたい」

 やがて頬にも赤みがさしてきた。ぬるくなってしまったシートを額から剥がしながら主子は思わず微笑んだ。こういう照れ屋なところはいつなんどきでも、まして風邪をひいていても変わらないらしい。

「あのね、雷ちゃん」

 これだけは言っておこうと思った。

「お父さんだって雷ちゃんのことすっごく心配してたよ」

 うそだ。俺を置いてったくせに。
 そう反発してきた雷市は、額に新しく貼られたシートのひややかさにきつく瞼を閉じて、再びタオルケットに閉じこもってしまった。


(主子さん、どうか雷市のことをよろしくお願いします)
 慇懃に頭を下げる姿は、まるで大切に育てた娘を嫁に出すようでもあった。
 なぜだか主子もつられて頭を下げると、両手にゴミ袋を引き下げた大家に何ごとかと目を見張られた。軽く事情を説明すると、ほどなくして主子の手にひらに乗せられたのは、3つの桃だった。
(これ、雷坊に食べさせてやって)
(いいんですか?)
(いいの。お大事に)
 ちゅくちゅくとした産毛が生える、でっぷりとした桃だった。
 もともと赤ん坊のころから病院とは無縁に育ってきたらしい。思い出してみれば病人である雷市よりも、父親のほうが顔色が悪かったような気もする。
 がっくりとこうべを垂れて階段を下って行く背中を見送りながら、親の責任を果たせぬその思いに主子は胸を痛めた。高熱に苦しむ息子を置いて仕事へと向かうのは、世の中の苦労を味わい尽くしてきた父親にとってもきっと辛く苦しいことであるに違い。みなの監督である前に、ひとりの父親であるのだから。

 主子は切な父親の気持ちの分まで、雷市のそばに寄り添い、ひたむきに看病を続けた。子供のころ、風邪をひいて布団に寝ているだけの自分に、母親がしてくれたことをひとつずつ、ひとつずつ思い出しながら――。
 そんな主子の思いが伝わったのか、荒んでいた呼吸はそのうちに落ち着きを取り戻していった。
 回復に向かう身体の前でほっと一息つくと、身に染みてきたのは、むかし雷市と同じように体調を崩したとき、自分を熱心に看病をしてくれた母のやさしい温もりだった。
 

「雷ちゃん、大家さんに貰った桃食べる? これ、山形の桃だって。きっと甘くておいしいよ」
「…………」
「私がたべちゃおっかなー? 3つもあるのになー」

 雷市はあれからずっと顔を見せないでいる。
 切ったばかりのつややかな桃を乗せた皿をローテーブルに置くと、主子はベッドの際に腰を下ろして、タオルケットに覆われる雷市に手を伸ばした。
 ちょうど頭部をつつくと、雷市が顔を覗かせた。怒ったような悲しいような表情が、主子を見つめ返す。

「桃、おいしいよ?」

 いらない、というふうに雷市は首を振る。意地を張っているのだと、主子は思った。
 風邪をひいて、楽しみにしていた試合に出れなくなった。けれども父親はそんな自分を置いて、試合に行った。もちろん監督なのだから息子がどうであれ、向かわなくてはならない。そんな大人の事情を雷市はきっと知っている。だからこそ、自分よりも野球の監督を選んだ父親のことを妬んでいるのかもしれない。身体は大人に近づいているけれど、心はまだまだ子供だ。

「雷ちゃん、大丈夫だよ。明日にはきっと熱も下がって、元気になってる」
 
 だって、雷ちゃん強いもん。
 汗ばむ前髪をくしけずりながらその言葉を口にしていた。よほどの確信は無かったけれど、それでも雷市にとって、それは無二の薬となったようだった。
 雷市は主子を見上げた。

「……本当か?」

 かすれた声に期待がまじっている。

「本当。轟家の子は強いってお父さん言ってたよ。だから今はゆっくりと寝て、身体にパワーためなきゃね」
 
 まるでそれが雷市のけだるい身体から熱や苛立ちを追い払う呪文であるかのように、彼は安心したふうに瞼を閉じて、主子が促すまでもなく静かに寝息をたてはじめた。切らしてしまった冷却シートを買いに行く前、眠れないからと傍で寝かしつけていったのが嘘みたいだ。
 寝たいのに寝れない。ぐずるように手を掴んできたのは、もしかしたらただ傍にいて欲しかっただけなのかもしれない。
 主子のしなやかな手が黒髪を撫でつけていく。雷市はその温もりに身を委ねている。
 裏を返せば例えようのないおバカになってしまうけれど、疑うことを知らない素直な所が雷市の一番の良いところで、主子が一番に好きなところでもあった。
 嘘をつけない質で、ごまかそうにもそれが表に出てしまう癖があって。見栄を張りたいと思ったことが無く、そもそも見栄という言葉すら知らないかもしれない。
 生きていくことに計算なんて使わず、直感だけで進んでいく。
 ひどいほどに恥ずかしがり屋で、けれども気持ちだけはストレートに表現してしまう。 思い返してみれば抱きしめることはあっても、抱きしめられたことはなかった。そのはずなのに、主子は雷市の静々として不器用な愛情表現にたびたび驚かされてきた。
 きっと雷市の周りにいる人間たちも、そんな愛らしい彼の魅力に気づいているに違いない。

「さて、雷ちゃんも寝てくれたし私もご飯食べようかな」

 ベッドから腰を上げて皿を持ちあげると、白桃のみずみずしいにおいにつられてお腹の虫が鳴った。そのままキッチンへ向かおうとして、主子はふと忘れ物に気づき、足を止める。身をひるがえすと、目の前のガラス窓から差し込む黄昏に、目を細める。気付かぬうちにもう夕刻だった。きっともうすぐ雷市の父親も帰宅することだろう。

 ベッドの際に腰を下ろして、
「おやすみ、雷ちゃん」
 主子の願いが、雷市の黒髪にひっそりと落とされた。
 その願いがなんであったのか、彼女と雷市だけが知っている。

改稿(2015/03/29) 初稿(2014/07/29)
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