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「なんだ、今夜も光はいないのか」
ある夜。仙蔵が風呂から戻ると、部屋では文次郎が一人で帳簿計算をしていた。
「ああ…今夜も光は花と遊びたいんだと」
がーるずとーく、というやつか?
「ついに文次郎はフラれたか」
「フラれてなんかいねぇよ!」
「そうか?最近のお前達は"そういう"風に見えないが」
「……………」
言い返せずに黙り込む文次郎。仙蔵の言葉が事実だからだ。
「この1ヶ月は夜の方もご無沙汰みたいだしな」
「うるせぇ」
「花か?」
"花"という単語に、文次郎がピクリと反応した。
「浮気をするような奴は人間の風上にも置けないな」
「……そんなんじゃねぇよ」
文次郎は静かに答えた。
「女としてじゃなくて、人間として花が気になってるだけだ」
花が帰ってきてから、文次郎はずっと同じことを考えていた。
なぜ花は記憶喪失になったのか
突然姿を消して、10日間も何処で何をしていたのか
全身の火傷、命を落としてもおかしくない程の大怪我、短くなった髪…
それらは何を意味しているのか
花に、何があったのか?
「俺はただそれが知りたいだけだ」
花が姿を消す前に、何か前兆は無かったか
文次郎は記憶を遡る。
"前"の花に最後に会ったのはいつだ?
じっと押し黙って考える文次郎。窓の外には丸い月が見えた。
満月…
「!!」
そうだ、花に最後に会ったのは満月の夜だ。
あの夜も、今夜のような綺麗な満月だった。風呂から上がった俺は、月が綺麗で少し眺めた。
それで、部屋に光を待たせているから早く戻ろうとして…
花に、会った。
真夜中で周りには誰もいなくて、とても静かだったのを覚えている。
花は忍装束を着ていたから、俺は、鍛練に行くのだと思った。
「お、花か…なんだ?鍛練か?」
「うん」
花の声は少し小さく、それでも何かを覚悟したような強さがあった。
花の体に目をやると、腕や足には包帯が巻かれている。
怪我をしているのに鍛練とは…花は本当に無茶しやがる。
「怪我しねぇように気を付けろよ」
「うん。ありがと…」
花は微笑んだが、その目には悲しみが滲んでいた。それが少し気になったが、光が待っていることを思い出して俺は歩き出した。
早く行ってやらねぇと…
「文次郎!」
俺を呼び止めた花の声は、少し震えていた。
「ん?」
振り向くと、花の目が真っ直ぐに俺を見つめていた。
その瞳から、俺は目を離せなかった。
「あ、あの…1つ聞いてもいい…?」
花は遠慮がちに尋ねた。
「文次郎は、今……幸せ?」
想像もしていなかった問いに俺は少し驚いたが、
「おう」
笑顔で答えた。
幸せに決まっている
家族がいて、仲間がいて、大切な人がそばにいるのだから
文次郎の答えを聞くと、花は一瞬泣きそうな表情を見せた。
しかし…
「よかった」
花は、笑った。
とても悲しい笑顔だった。
「…!」
言葉少なく答え、花は行ってしまった。
文次郎は花の背中を見つめて固まっていた。
花のあんな顔を見たのは初めてだった。
そして、それが最後だった。
「(そうだ…あの夜が最後だった…そして次の日から花は姿を消した)」
どこに行ったのか
何をしていたのか
今となっては、何もわからない
『文次郎は、今……幸せ?』
その言葉の意味も、
『よかった』
あの悲しい笑顔の理由も
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