30
次の日から、花は呼び捨てで人の名前を呼ぶようになった。
そのせいかどうかはわからないが、花も俺たちに対して"心の壁"が無くなったのか、よく笑うようになった。
"前"の花が戻ってきたような気さえ、した。
それでも…
「えっ、潮江くんと光ちゃんって付き合ってるの!?」
俺のことは、まだそう呼んでいる。
「あ、言ってなかった?」
「うん、今初めて聞いた」
花が帰ってきてから最初の休日。朝食の席で、花は驚いた顔をして、俺と光を交互に見た。
「まあ…たしかに仲良しだなー、とは思ってたけど」
「似合わないでしょ、まさに美女と野獣」
「誰が野獣だ!」
「それで二人はこれから町に行くんだね」
朝食を食べ終えると光も同時だったようで、俺と光は食堂を後にした。
「町には何があるの?」
花には"町に行った記憶"が無い。
「いろいろあるぞー!団子屋さんとか、甘味処とか、美味しいうどん屋さんとか!」
「全部食べ物じゃねぇか」
「呉服屋さんとか簪屋さんもあるよ。今度花も行く?」
「うん、行きたい!」
花は顔を輝かせた。
「簪といえば…」
それまでずっと黙っていた仙蔵が、花の首もとを指差して言った。
「花、その髪留めが何か知っているか?」
青いトンボ玉のような髪留めが、花の首もとで輝いている。細い糸を通して、ネックレスのように首から下げていた。
「ああ、これは……私が兵庫水軍の人たちに助けられたときに握っていたもので…水軍の人たちが、"前"の私は髪が長かったからこの髪留めで髪を二つに結んでた、って言ってたの。もう一つは失くなっちゃったみたい」
花は淡々と話す。その目に、悲しみの色は無かった。
「それは、入学祝いに文次郎がお前にプレゼントしたものらしいぞ」
「潮江くんが?どうして?」
「さぁな…ただ、あの頃の文次郎は…花のことを……」
「ん?」
「いや」
仙蔵は目を伏せた。
花は、何かを考えるようにじっと髪留めを見つめていた。
***
夕方
「あ、潮江くん。おかえり」
ちょうど文次郎と仙蔵の部屋の前で、花は私服姿の文次郎と会った。
「あれ、光ちゃんは?」
「今部屋に戻ってったぞ」
「そっか。あのね、帰ってきたばっかりで悪いんだけど、長次が早く本返せ、だって」
文次郎の未返却の本を回収するのは、もはや花の仕事になっていた。花は文次郎から本を受け取る。
「……なあ、花」
「なに?」
文次郎は、前から思っていたことを聞いてみることにした。
「あー、その…なんで俺のことだけ、苗字で呼ぶんだ?」
花は一瞬きょとんとしたが、
「潮江くんには、恋人がいるから」
穏やかな顔で花は答えた。
「光ちゃんがいるから…だから、軽々しく名前で呼ぶのはちょっと気が引けるというか」
恋人がいるから、か…
「そうか」
「あっ、でも嫌なら名前で呼ぶけど」
「いや…今のままでいい」
「うん」
花は微笑んだ。その首から、青い髪留めは消えていた。
「(外したのか…)」
廊下を歩いていく花の背中を見て、文次郎は少し切なさを感じた。
「(あいつの背中って、)」
あんなに、小さかったか…?
「(わからねぇ…)」
背中を向けていたのは俺の方だから
花を追いかけることは、なかったから
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