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部屋は形だけでなく、今も尚温もりや匂いを残している。
耳を澄ませば笑い声も、
優しい子守唄も、
思い出に残るそれら全てが今にも聞こえてきそうで、ロベルトは一人、そっと瞳を閉じた。
「母さん……」
緩やかな時間。
喧騒とは掛け離れた、ゆるりとした時が部屋に流れる。
その部屋が持つ独特の時間軸にロベルトが身を委ねていたなら、背後から不意に名前を呼ばれた。
「やはり、ここに居たのか」
「……父さん」
振り返ったなら、其処には「父親」の姿があった。
威厳はそのままに、国王と言う肩書きを両肩から降ろした、子を持つ一人の父親としての姿だ。
「お前なら、きっと母さんの部屋に居るんじゃないかと思えてね」
「……父さん、俺……」
「ああ。……ゆっくり聞こう」
其処は亡き王妃、母の部屋。
国王は窓辺に立つロベルトの対面に腰を掛けると、椅子の背凭れに深く背中を預けた。
会話を切り出すまで、国王は十分に間を置いた。
沈黙は長い。
一分あるか無いかの僅かな間ですら、長く、長く感じる。
「……今度は逃げないで、ちゃんと話を聞くよ。だから、全てを教えて欲しい」
意外にも、先手を切ったのはロベルトだった。
母の部屋に来た事が彼の心を落ち着かせたのかもしれない。
ロベルトの瞳は先程までの動揺したそれではなく、今は真っ直ぐに父の顔を捉えている。
場所を変えた事は結果として良かったのだろう。
否、何も良いとは言えないが、それでもロベルトが聞く耳を持ってくれただけでも国王は良かった。
「ロベルト。父さんと母さんと……三人で話をしよう。こっちに来て、お前も座りなさい」
他の誰かに、何かに先を越されてしまうよりは、父である自分の口から伝えねばならない事がある。
国王自身ですら聞いて間もない話だ。
息子を前に、心の整理が完璧に付いているとは十分にも言えない。
それでも、国王はロベルトにこれまでの経緯を話すべく、静かに口を開いた。
「いいかい、ロベルト。お前は………」
真実を、
国王はロベルトに、全てを話した。
アルタリア時間、早朝。
誰しもが目と耳とを疑った王子の生い立ちについてのニュースは、瞬く間に世界中を駆け巡った。
家事をする傍らで、
通勤途中の街の其処彼処で、
起き抜けに点けたテレビの先で、公園で広げた新聞の中で。
人々は「真実」を知る事となった。
「おいおい……嘘だろ?」
「こいつは、とんでもない事になったもんだ……」
「待てよ、それじゃあ本物のロベルト王子が別に居るって事か?」
「ああ。何でも生まれて此の方、自分の身分を隠してお育ちになられたらしい……」
「なんだって?それじゃあ、本当の王子がひっそりと庶民に紛れて育ってたって事かい?」
人々の話題は「ロベルト」についての議論で忽ち持ち切りとなった。
実在するか知れない本当のロベルトに、世界が関心を抱くのは風のように速かった。
また、それと同時に―――……。
「そんな……それじゃあ、本当の王子様なのに今までずっと日陰の身だったって事よね?」
「やだ、可哀想……」
世論は大きく傾いた。
現在のロベルトが実は身代わりだった事への衝撃も凄まじかったが、「ロベルト」への同情がそれを上回るのもまた、風のように速かった。
シンデレラストーリー宛らに、一般人に紛れて育った「本当の王子様」に世界が胸を痛めた。
世論は悲劇の王子よりも、
感動的な王子の誕生を期待し始めていた。
Beautiful――――.6
―――――Roberto Button
一方、その頃。
茉莉もまた、アルベルトから全ての経緯を説明されていた。
茉莉の両手の中にはティーカップが一つ。
カップの中の紅茶は一口も付けられる事なく、とっくに湯気を失くして冷めてしまっている。
替わりの紅茶を注ごうとするアルベルトを、茉莉はやんわりと断った。
今の茉莉には紅茶を一口、喉に流し入れる余裕すらも無い。
「そんな……ロベルトが……」
言葉を失う茉莉に、沈痛な面持ちでアルベルトは先を続けた。
「恐らく、今回マスコミや新聞各社にロベルト様の件を漏洩したのはベラルーシ様でしょう。先程は裏付けこそ取り損ねましたが、王家の内部に精通した者で、尚且つロベルト様の事を知っている者となると、極一部に限られます。告発文の送り主はベラルーシ様に間違いないかと思います」
アルベルトの口から語られる事実を一度に聞き入れるには、茉莉の頭は長く時間を要した。
愛しい人、その人を根底から覆す内容は、頭に入れたいとは思っても心が動揺して直ぐには受け入れられない。
それでも彼についての真実ならば、逃げずに全てを受け入れたい。
茉莉はアルベルトの話を聞きながら、必死に冷静であろうと努めた。
「でも、どうしてそんな……何故、ベラルーシ様は今になって……?」
素朴な疑問を口にする茉莉に、アルベルトは一拍の間を空けて返した。
アルベルトも当然、茉莉の問いに対する答えを知っている訳では無い。
一連の経緯を振り返りながら、自身の見解が正しいかを探るように、アルベルトは思案しながら茉莉に返答した。
「憶測ですが……ロベルト様が26歳になられ、茉莉様をお迎えする事を正式に公表されたからではないでしょうか」
「私との婚約がきっかけ……っていう事ですか?」
「本当のロベルト様である、あの青年をこの機に公表してしまえば、ロベルト様の王位継承権は剥奪され、且つ、国王様の実弟のエンツォ様に王位が渡る前に彼に継承権は渡ります。……ですが、それもあの青年が既に婚姻しているか、もしくは婚約者が居ればの話にはなりますが」
「そうですよね……。あの人も26歳な訳ですし、王位継承の条件は同じですもんね……」
更に、ドレスヴァンがネルヴァンとの冷戦を終え、友好条約を結んだ事。
そのネルヴァンやアドバブール王国等の近隣諸国を含め、近年6か国間の協定が良好で強固なものとして安定した持続を見せている事等も、今回の漏洩のタイミングにあったのではないかとアルベルトは補足した。
(ベラルーシ様はロベルトのお祖父様から本当の孫である"あの人"を託されていた訳だから、このままロベルトに王位を継がせる訳にはいかないと思って、それで阻止する為に事実を公にしたって事だよね……。でも、何処か……)
―――「でも、何処か」。
後に続く言葉さえ無いが、茉莉は妙な引っ掛かりを覚えていた。
(そうだとしても、ベラルーシ様は何でこんな発表の仕方を選んだんだろう?もっと他に幾らでも方法はあったと思うのに、こんな……)
腑に落ちないとでも言わんばかりの表情を浮かべる茉莉に、アルベルトも同調しているような顔を見せる。
「茉莉様もお気付きになられたようですが……ベラルーシ様が満を持して彼の正体を明かしたのだとするならば、何も最初にマスコミを通じる必要は無かったでしょう。先ずは内密に国王様に告げた後で、一度議会を通しても良かった筈です」
「……私もそう思います」
「何故、ベラルーシ様は敢えてマスコミにリークする形をとり、事を余計に大きくするような真似で先手を切ったのか。ベラルーシ様が漏洩元である事など調べれば直ぐに足が付く事は、当然ベラルーシ様自身もお分かりの筈です」
「はい……」
「先に世間に大々的に公表する事で、ベラルーシ様は世論を味方にするつもりだったのか、または……」
ふと、そこでアルベルトの声が発声を止めた。
何か思案しているのか、途端に口を閉ざしたアルベルトに茉莉は「?」と首を傾げる。
「アルベルトさん?どうかしましたか?」
「まさか……いや、そんな事は……」
「……あの?」
アルベルトの顔が見る見る間に険しく、真剣なそれとなっていく。
彼の頭の中では今、一体何の予測が立っていると言うのだろう。
茉莉は言い知れぬ不安を感じて、胸をドクリと波打たせた。
「……これについても、飽くまで私の憶測に過ぎない話ですが……」
アルベルトの眉間に深い皺が走る。
憶測だと前以て念を押しはしているものの、彼の険しく歪んだ表情は何かを察したかに見えた。
まるで、今回の騒動の裏に隠された、本質に辿り着いたかのように。
「ベラルーシ様は最初から国王様の意思等はどうでも良かった。先に世間を騒がせる事で国王様も議会も、彼を王位継承者として認めざるを得なくなると分かっていたからです」
「はい。それは分かるんですけど、それが……?」
「問題は、国王様の意思はどうでも良かったという事についてです。謀反として捕らえられるかも知れないのに、ベラルーシ様は強行手段に出た。つまり、如何なる手段に出ても自分が捕らえられる事は無いと分かっていた……」
「あの、それって……?」
首を斜めに傾げたままの茉莉に、アルベルトが口にした憶測。
それは、茉莉の心を激しく揺さ振り掛けるものだった。
「彼が王子となれば、育ての親であるベラルーシ様を決して見捨てる真似はしないでしょう。寧ろ、優位な立場として自分の側に置く筈です。そうなれば、ベラルーシ様は王子の後見人として、今よりも強い立場を手に入れる。そうなった上で、考えられるのはただ一つ」
「それは……」
「国王様を直ぐにでも退かせ、自分の意のままに育てたであろう彼を国王の座に就かせる……。これは、ベラルーシ様による王制の乗っ取り、即ち……」
波打たせた胸が、大きな不穏を前に嫌な音を立てて、揺れた。
それは、ジョシュアがジャンに然も冗談だと、物の例えで口にした言葉だ。
「……クーデターです」
その日の夜。
茉莉は一人、アルタリア城の中庭を歩いていた。
「これじゃあ、流石に前庭にも行けないよね……」
夜になり、ヘリコプターこそ上空の旋回を止めたものの、城の周囲には今もまだ大勢の報道陣が押し寄せたままだった。
中には何やらプラカードを掲げた団体や、頻りにロベルトの名を連呼している人々も混じっている。
彼等がロベルトについて訴えを起こしているのか、もしくは「ロベルト」について訴えているのか、今の茉莉にはどうでもいい事のように思えた。
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