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そわそわ、そわそわ。
好きって本当に落ち着かない。
一緒にいたいんだ。
―――HAPPY BIRTHDAY!
―――Joshua Lieben!
―――2014/01/31
突然鳴った携帯が知らせる、緊急事態。
「ええ?!お母さんが、ぎっくり腰?!」
久し振りに耳にする父の声を懐かしむ暇も無い。
深刻気に父から告げられた知らせに、茉莉は驚きを露にした。
「だってお父さん、来週から出張なんでしょ?それじゃあ、お母さんが一人になっちゃうじゃない。うん、うん……」
どうやら、家事の合間に母が腰を痛めたらしく、一人では全く身動きが取れないというのだ。
父は仕事の都合で3日後には他県に出張してしまう為、不自由な母を一人、家に残す事になる。
「うん、わかった。じゃあ、それまでには私も帰るから。……うん。ジョシュア様には今から話すよ」
父との通話を終えた茉莉は、「はぁ…」と息を重く吐いた。
そんな彼女の向かいでは、ジャンが心配気に眉を寄せている。
「何か、お母様に不慮の事態でも?」
「それが……洗濯物を干してた時に、どうやらぎっくり腰になっちゃったみたいで……。父も出張で2週間家を離れるし、トイレにも行けないお母さんを一人には出来ないから、家に戻って来てくれないかって……」
「そうでしたか。それは心配ですね。それで、茉莉様は……」
「はい。流石にそんな状態のお母さんを一人にする訳にもいかないし、暫く実家に戻ろうと思います」
「そうですね。お母様も茉莉様が傍に付いていてくれるとあれば安心でしょうし、その方が良ろしいかと」
「はい、でも……」
そう言い掛けて、茉莉が語尾を濁した。
気に掛かる事でもあるのか、茉莉の表情は心苦しそうだ。
彼女の視線が一度、ちらりと横目に卓上のカレンダーへと落ちるのを見逃さなかったジャンは、何かを察したのか、「ああ」と納得したように縦に頷いた。
「大丈夫ですよ。事情が事情です。ジョシュア様もお分かりになってくださいますよ」
「……はい」
かちゃり、
机の端に置かれた白磁のカップから、紅茶の温かな湯気が昇る。
ティーポットを片手ににっこりと微笑むジャンに、茉莉は紅茶の礼も含めて小さく笑みを返した。
ドレスヴァン史の書籍が山と積もる机の上で、茉莉が深く肩を落とす。
勿論、勉強の疲労から来るそれでは無い。
(今から2週間、実家に戻るとなると……ジョシュア様の誕生日と重なっちゃうんだよね)
書籍の向こう、卓上カレンダーに記された文字を見詰めて、茉莉は溜め息を吐いた。
1月31日。
その日を囲む赤い花丸と、「誕生日」という文字に。
そう、2週間後はジョシュアの誕生日なのだ。
(当日中にはドレスヴァンに帰って来れたとしても、何時になるかはお父さん次第だし……。ジョシュア様と一緒にお祝いが出来たらって思っていたけど、仕方無いよね……)
茉莉はこくんと紅茶を喉に流し込むと、改めて「はぁ…」と息を吐いた。
パタンと閉じた分厚い書籍の表紙は、まるで今の心情でもプラスされているかのように指に重く感じた。
そして、今後の予定をジャンに相談しつつ、暫しの小休止を挟んだ茉莉は、意を決して彼のいる執務室へと向かうのだった―――……。
「行ってきます」と、茉莉が城を後にしてから、早1週間が経っていた。
「ジョシュア様。生誕祭当日のスケジュールについてですが、一部変更がございます。先に予定されておりました船上パーティーですが、記者会見の繰り上げにより……」
タンッ!
パラ、タンッ!パラ……、
「ジョシュア様?」
「……」
タンッ!パラ、タンッ!パラ、タンッ!パラ、タンッ!パラ……、
「失礼します、ジョシュア様。今、よろしいでしょうか?」
「……」
タンッ!パラ、タンッ!パラ、タンッ!パラ、タンッ!パラ、タンッ!パラ、タンッ!パラ……!
執務室に響き渡るのは、等間隔に刻まれるリズム。
ジャンは内心で、「まるで打楽器のようだな」と呟いた。
音の正体はジョシュアだ。
彼は大量の書類を目まぐるしい速さで捲り、同じく目まぐるしい速さで次々と捺印を済ませていく。
このスピードにも関わらず、きちんと書類に目を通しているのだから、凄いとしか言い様がない。
しかし、その様子も少しばかり普段とは違うようだ。
「ジョシュア様。お伝えしたい用件がございまして、お聞き入れ願いたいのですが……」
「……」
3も4もある作業を同時に熟す器量があるジョシュアが、1の事のみでジャンの声を拾えないというのは珍しい。
呼び掛けにすら気付かず、一心不乱に書類に向き合うジョシュアに、ジャンは暫し頭を捻った。
だが、その理由も直ぐに理解した。
「ジョシュア様」
「……」
「ジョシュア様」
「……」
「おや、あんな所に茉莉様が……」
「……何?!」
あれだけ驚異的な速さで捺印のリズムを刻んでいたジョシュアが、書類を捲る指をピタリと止めた。
あまりに分かり易いジョシュアの反応に、ジャンも思わず肩を揺らしてしまう。
「……おい、ジャン」
「はい、すみません。どうやら私の見間違いのようです。茉莉様は今はご実家でしたね」
「お前、この俺をからかったのか?!」
「私がジョシュア様をからかうだなんて、滅相もございません」
悪気0のにっこりとした笑みを向けてくるジャンに、ジョシュアの機嫌は一気に不機嫌MAXだ。
ジョシュアはぎろりと一度ジャンを睨むと、直ぐに書類を捲る指先にリズムを取り戻した。
捺印の音を再び執務室に響かせるジョシュアに、ジャンは穏やかに語り掛ける。
「茉莉様がいらっしゃらないだけで別邸も静かになりますね。たった2週間とはいえ、メイド達も寂しいと嘆いておりましたよ」
「……ふん。あいつは何をしたって騒がしかったからな」
「こうも静かだと、何だか茉莉様がいらっしゃる前のドレスヴァン城に戻ってしまったようにも思いますね」
「ジャン。お前は執務室に無駄口を叩きに来たのか?用件を言え」
「いえ、先程からお伝えしておりますが……。では、改めて申し上げます。生誕祭当日のご予定に幾つか変更がございまして………」
やれやれ、そんな風に胸の内で笑顔を溢し、ジャンは報告を続けた。
用件と共に二〜三の会話を挟み、ジャンが執務室を後にしたのは、それから数分後。
以降、暫くタンッ、タンッとリズムを刻み続けて、漸く書類の最後の一枚に捺印を済ませたジョシュアは、革椅子をぎしりと軋ませながら宙を仰いだ。
「あいつが来る前の城に戻ったようだ……か」
背凭れに背中を預け、宙にぽつりと落としたのは、そんな独り言。
それは、先程ジャンが言った言葉を反復するものだ。
「確かに、こうも静かでは時計の音すら煩く感じるな……」
そう言ってジョシュアは椅子から立ち上がると、対面にある壁掛け時計を見詰めた。
時刻は22時。
時計は静かに秒針を進めている。
「時差は8時間……。今頃、あいつは起きる頃か」
……―――実際、
時計の音など、日頃気に留めた事も無い。
そもそも、彼女が邸内に居ようが居まいが、居住区域から遠く廊下の先にあるこの執務室まで、彼女が発する日常会話が聞こえて来る事は殆ど無かった。
だから、
彼女が居ないから城内が、この執務室が静かだと感じるのは、所詮気のせいでしかない。
「もしかして、まだ寝てるんじゃないだろうな……。修行の縛りが無い実家だからといって、起床時刻を破り、ぐうすかと寝ていたりは……」
それでも時計は煩く聞こえた。
チッチッと時を刻む秒針が、やけに耳に煩わしく引っ掛かった。
彼女の居ない生活を、それだけ心が寂しく思っている証拠だろう。
「王家の人間たる者、如何なる場合でも日々の生活を乱さぬよう、己を確と律するべき……。ふむ、確認するか」
たかが2週間、されど2週間。
彼女の居る生活に慣れてしまっていた感覚は、たった2週間離れ離れになるだけでも心を寂しくさせた。
当然、この鈍感な王子は自分が「心細い」等と感じているとは、未だ自覚もしていないだろうが―――…。
起床時刻がどうのこうのと、結局茉莉に連絡をしたいが為の切っ掛け欲しさの言い訳なのだろう。
何だかんだと理由を付けたかっただけだ。
ジョシュアは携帯を手に取ると、早速とばかりに発信マークを指で押した。
……〜♪
「……ん?電話?こんな朝早くに一体誰が……お父さんかな?」
朝の6時。
早朝から着信を告げる携帯に疑問を抱き、茉莉は画面に表示された発信者を確認した。
「え……ジョシュア様?!」
相手がジョシュアだとわかった途端、茉莉は慌てて手櫛で髪を整えた。
電話なのだから身形に構う必要は無いのだが、無意識の内に背筋まで正して正座している。
愛しい人からの着信に、弛む頬を抑えられない。
茉莉は空咳を吐いて喉を整えると、急いで通話に出た。
「はい。もしもし……ジョシュア様?」
『遅い!』
「は……ええ?」
『電話に出るのに何故時間が掛かるんだ。さては、まだ寝ていたんじゃないだろうな?』
「すみません。携帯を取るまでに時間が掛かってしまっただけで……。それに寝てないです。起きてましたよ」
『携帯を携帯せずに携帯電話だとお前は言うのか?まぁ、起きていたならいい。起床時刻をきちんと守れているか、それを確認したかった』
「はぁ……」
―――てっきり、
「おはよう」とか、「久し振りだな」とか。
そんな甘い挨拶を期待していた茉莉だったが、相手はあのジョシュアだ。
まさか開口一番に叱責を受けるとはと肩を落としはしたが、それも彼らしいと言えば実に彼らしい。
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