シンフォニック 03
黒い子猫が自分は猫と言う名前らしいと認識する頃に、誰ともなしに
「そういえば……、こいつの名前は?」
と囁かれるようになった。全く、子猫にしてみればはた迷惑な話しである。しかも、誰も面と向かって在有に助言するつもりはないらしい。まるでそれは禁句とばかりに示し合わせたように口を噤む。
「そういえば、在有、猫の名前決まったんか?」
誰もが口に出来ないことをさらりと尋ねたのは、久々に在有が起きている時間に帰ってきた辰二だった。
「あ? ねこ、じゃないんか?」
軍嗣の台詞に在有はにこにこ頷き、その場にいた組員は脱力した。
「あのなぁ……」
辰二は思わず溜め息吐いた。揃いも揃って、という心境である。
「猫、って言うんは固有名詞やろ。 ものぐさなことしてやんで名前ちゃんと考えたれ。 名前は大事やからな」
軍嗣のめんどくさそうな顔と、在有のよくわかってない顔を見て再度溜め息つきながら、
「ほらっ」
と在有に小さい包みを渡す。在有はキョ トンとしながら、
「あ、りが、と……」
と受け取り、
「開けて、いい?」
と尋ねた。頷いた辰二を確認して包みを開けた在有は、きな粉のまぶした和菓子を見て嬉しそうに美味しそうと呟いた。
「……これ、食べて、いい?」
「ああ」
辰二の返事を聞いて早速一つつまんで口にする。
「おいしい……」
在有の呟きに興味が沸いたのか、子猫は身軽にぴょんと在有の膝に飛び乗り、一生懸命その小さな体を伸ばしてテーブルによじ登ろうと試みる。
「あかんよ」
そんな子猫に在有は優しく言い聞かせて抱き上げ
「きな粉、ちょっと舐める?」
と小首を傾げて尋ね、きな粉を一摘み手のひらにのせ差し出す。
にゃあ
と鳴いてペロリと舐めるともう興味はなくなったのか、在有の手から出ようともがく。
「きな粉……」
にゃあ……
手から逃れた子猫は、呼ばれたと思ったのか振り返る。嫌いやった? と続けようとしていた在有は、もう一度
「きなこ」
と言ってみた。
子猫はやはりにゃあと鳴いて、それはさながら返事をしているよう。在有はぱぁっ と満面に笑みを浮かべて興奮したように
「きなこ、って言ったら、返事したっ」
と辰二と軍嗣に告げる。
「名前、きなこにする」
在有が
「きなこ」
と呼べば、子猫がにゃあと鳴く。
それをみて辰二は諦めたのか、
「いんちゃうか」
と呟き、軍嗣はそんな父親に苦笑した。
その場に居合わせた若い組員数名が絶対‘ねこ’の‘こ’と‘きなこ’の‘こ’が同じやからそこに反応してるだけやと思ったことは、ひとまず内緒の話し。
かくして黒い子猫はきなこという名前になった。
「あ、こいつオスやわ」
足元にじゃれついた子猫を抱き上げて軍嗣が呟いたその言葉は、誰の耳にも届くことはなかった。
それからというもの在有ときなこはいつもべったりと一緒で、一人と一匹はとても仲良く、見ているだけでほのぼのとした空気に包まれる。
暖かくほわほわしたその空気は、居心地がよかった。
それは庭先に現れる三匹の猫にきなこの興味が移るまでよく見られた光景で、そのうち、きなこが日中はその三匹と遊びに行くようになり、在有もまた、以前のように散歩へ出掛けるようになった。
すべてがいつ も通りに戻った時に起こる‘普通じゃない’ことに、案外人間は鈍感なものかもしれない。
だから軍嗣はきなこに少しばかり嫉妬していた。
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