虹の彼方 01


「虹やっ」

 朝起きてカーテンを開けたら柔らかい陽光の先に大きな虹が掛かっていて、在有は思わず叫ぶ。昔、奏見と二人で暮らしていたことがある。二人きりで奏見と散歩していた時、今みたいに大きな虹が掛かっていて、奏見がぽつりと漏らした言葉がふと蘇る。

『あの虹の袂にね在有、階段がついててそれを登って虹の橋を渡ったら辰二さんとこへ行けるんよ』

 小さな在有は奏見のその言葉を信じて繋いでいた手を引っ張り早く行こうと催促したが、奏見はしゃがみ込んで在有の目線に合わせて、

「ごめんね在有。 でもまだ行けやんの」

と寂しそうに笑うだけ。それがあんまり哀しそうに見えたから、それっきり在有はそのことを口にはしなくなった。

 奏見のことを思い出すのは、初めてだった。在有の心に焼き付いているのは真っ赤で冷たい、だけど僅かな微笑みを浮かべて在有を抱きしめていた生気がない、壮絶な死に顔。

 奏見を思い出すことは開けたくない過去の蓋を自ら開けてしまうことに等 しく、だから在有は思い出さないようにしている。

「……お母、さん……」

 呟いたその言葉は、密のように甘く切なかった。窓の外にはまるで誘うかのように虹色の蝶がふわふわと飛び、在有は扉を開け思わず手を伸ばす。蝶は勢い余って落ちそうになる在有を窘めるように一度窓の縁に羽を休め、着いてこいと言うように高度を落とす。

「待ってて、すぐ行くから」

 在有の言葉に頷くようにふわふわ飛んでその場に留まる蝶を確認して、在有は大急ぎで服を着替え、慌ただしく部屋を飛び出した。それを見た蝶は在有を迎えるために玄関の方へ、一度旋回してから向かった。

 虹色の飛行線を空気中に煌めかせながら。





 ばたばたと駆ける在有の足音に桂也はびっくりして事務所のドアから顔を覗かせ、

「在有さんっ」

と叫んだ。その声は在有に届かないのか、振り返ることもせず一目散に玄関へと向かう彼を見て、桂也は携帯を掴んで後を追う。桂也はこんなに元気で活発な在有を見たことがなく、訳が分からずとにかく見失わないことに専念した。





 在有は玄関で一度止まり、空を見上げて先ほどの 虹色の蝶を探す。蝶はまるで在有を待っていたかのように旋回して

「着いておいで」

と言うように空を真っ直ぐ虹に向かって羽ばたく。

 虹色の蝶は走る在有に道のりは長いとばかりにスピードを緩め、追いかける桂也は在有に追いついた。

「在有さん」

「あっ、……桂也さん、ごめんなさい……」

「や、それはいいんですけど、どうしたんすか? 突然」

「虹が、掛かってて……」

「虹?」

「……あそこ……」

 在有は前の蝶のさらに向こうを指す。

「あっ、ほんまや! 俺、空見んの久しぶりやわ」

 桂也は嬉しそうに呟いた。

「あそこ、行きたくて……ごめん、なさい……」

「行きましょう」

 その言葉に在有は嬉しくなる。桂也と並んで歩く在有に、虹色の蝶はまるでよかったねと言うように上下する。

 どこまでも続く青い空と遠くに虹、弾む心と一緒に歩いてくれる人。

 在有は自分の顔が綻ぶ事を止めれなかった。





 桂也にはその蝶は見えていなかったけど。





「そういえば在有さん、メシ食ってないでしょ? お腹、すきません?」

「……う、ん、… …ちょっと……」

「あそこ、ファーストフードで悪いですけど、食べて行きます?」

「……で、も……」

「虹は逃げませんよ」

 桂也は悪戯めいた笑みを浮かべ在有を覗き込む。



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