狐の嫁入り 本文
さらさらと降る小雨は傘を挿していても体にまとわりつくようで、在有は所在なげに中庭に立っていた。
つと思い出すのは数年前に亡くなった母の言葉。それは微かな記憶の中で覚えている、不思議にも綺麗な言葉だった。
母と二人で初めて暮らす町は、まるで二人の存在を消し去るかのような大らかさで、たった二人しか居ないような孤独な箱で、それでもまだそれなりに幸せだった。
その日、嫌になるくらい晴れていて、まるで無音の深い深い闇に囚われているようだった。
母としっかりと手を繋いだ在有は、今でもその時を鮮明に覚えている。
まるで二人を包み込むかのように太陽が照っているのに、突然降り出した小雨。
「……狐の嫁入りやね」
その言葉は小さい在有に呪文のように記憶された。
「……きつねの、よめいり……て、なあに?」
母はにっこり笑って、
「狐のお嫁さんが、嫁いで行くんを在有に見られないようにするために、晴れてるのに雨を降らせるんよ。 だから、在有、ほら、ちょっと道の端に寄っとこうね」
と、在有を抱 き上げて端に寄ったその時の母の手の力の籠もり方が忘れられない。
その母の言葉を長いこと思い出すこともなかったのに、このまとわりつくような雨が在有の記憶を揺さぶる。
あれはきっと母の叶わぬ願いが込められていたのだと、不意に気付く。父の元を離れた母の後悔の言葉だったのではないかと。こっそりと、誰にも咎められずに戻りたかったのではないかと。
それなのに自分だけがここに戻り、自分だけがこの庭に立っている。
(ほんとは僕よりお母さんがここに立ってたかったやろな……)
唐突に思ったことは、在有の心を深く傷つける。あの冷たくなっていく母の手の感触に、身を震わせる。
ほろほろと涙を無意識に流して、どれだけの時が経ったか。不意に在有を包む暖かく大きな手。この手も知っている。
「……ぉ、にいちゃん」
「在有、中入ろ。 こんなに冷えて、風邪ひくぞ」
「……お母さん……」
「ん? 奏見さん? 在有がここにおること、安心して見守ってくれてる」
「ほんま……?」
思い詰めた声が雨に消える。
「ああ、ほんまや 」
力強い軍嗣の声に少し安心して、肩を抱かれて部屋へ導かれる。
“在有”
にっこり母が笑ったような気がした。
終
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