第1章 04
その日はしとしと雨からざざぶり雨に変わって、僕はただぼんやりと窓からその七変化の雨を見ていた。恵みの雨って人は言うけど、いったい何が恵みなんやろう。僕の心はとうの昔にカラカラに渇いて、干からびて、雨が降っても降っても潤い癒されることない。
少しづつ少しづつ近付いて来る恐怖の時間に、僕は身を潜め逃れようと足掻いては見るけど、それは確実に徐々に大きくなり僕をまるで餌だと言うように大きく飲み込む。
その日もいつもと変わらへん時間が始まって、僕は息を潜めるようにその時間がただ過ぎ去ることだけを心で祈り、花占いを何十回と繰り返していた。ヒモは僕が余りにおとなしいことが気に食わへんのか、いつも以上の激しい嵐に僕はとうとう耐えきられへんようになって、知らぬ知らぬのうちに叫び続ける。
喉がからからに渇いてヒューヒューとただ音が鳴るだけになった時、開くはずのないドアが開き、まるで全力疾走したあとのような形相をしたお母さんが立っていた。
「あんたっ、在有に何してん!」
お母さんはヒモを僕から引き剥がして僕を庇うように立ちはだかり、恐ろしい顔で怒鳴っている。華奢なその姿のどこにそんな力があるんだろうと僕は痛みも忘れて呆然とその顔を見る。
僕は現実なんか幻しなんかただ確かめたくて、手を伸ばして服を掴む。お母さんはまるで僕を安心させるかのように、その胸に強く強く抱き締めてくれた。僕は気が抜けたようにぐったりとし、安心しきってその胸に抱かれ、ただそのどす黒い嵐が去るのを待っていた。
『これでもう終わりや……』
漠然と、うつらうつらとまるでまどろむように考えていた時、
「っひ……」
一瞬この世のものと思えんような、だけど静かに息を飲み込んだような哀しい声を耳にした。それはあまりに突然の出来事で、僕は一体何がおこったんかすぐに理解できへんかった。
やがて僕を抱き締めるお母さんから真っ赤な血が溢れ出してることを理解し、僕は必死に縋りついた。
『……やっ……』
お母さんの向こうにわずかに包丁を手にしたヒモが見える。その包丁の持ち手までもが真っ赤に染まり、どれだけ深くお母さんの体内に刺し込まれたんかは一目瞭然やった。
「お、母……さ、ん?」
苦しそうな顔を一瞬無理して笑顔にしようとして、お母さんはゴボッっと嫌な音とともに口から血を吐いた。
「……あ、りあ……わ、すれんで……生まれて、きて……く、れて……あり、……が、と……」
お母さんは最後の力を振り絞って僕を守ろうとするかのように抱き締め直した。そして、それっきりピクリともしなかった。
「お、母さ……ん」
徐々に抜け落ちるお母さんの体温、僕は言葉を無くしたように、ヒューヒューと哀しい声にならない声を出すだけで、壊れてしまった人形のようにただ抱き締められていた。
もう何も考えられなかった。いつもの空想の花占いも、言葉にならないまま崩れ落ちるように一度にすべての花びらが硝子細工のように散り、消えていく。僕は哀しいを通り越して、ただ恐怖に何も感じなくなっていた。
『……怖い……』
その言葉だけが木霊するように頭にいつまでも響く。その僕の目の端にお母さん越しにヒモが何か叫びながら包丁を手から滑り落とし、奇妙な音を立てながら逃げ去るのが映った。その音が叫び声だとわかる頃に、僕は意識を手放した。精神が崩れ落ちる音とともに……
ふわふわとどこか現実とは違う別の世界を漂っているようやった。お母さんが優しく僕に笑いかけてくれる。穏やかな日々。
『あれは夢やったんやろか……』
そして不意に思う。
『今見ているコレが夢なんや』
と……。
どれくらいの時間が流れたか、僕が意識を取り戻した時部屋の中は静まり返り、僕はまだお母さんの腕の中にいた。冷たくなったその腕の中で僕は身動ぎ一つせず、ただ哀しいくらいにその存在を感じていた。
『なんで……』
こんなことになってしまった理由がどうしてもわからんくて途方に暮れる僕を
『おまえが悪い。おまえがもっと我慢してたら……』
と、責め立てる声がどこかから聞こえてくるようやった。知らんまに僕の頬を冷たい涙が流れていく。僕はそれを止めることもできず闇を彷徨い続ける。
僕がもっと我慢していたらこんなことにならへんかったのに……。
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