第1章 06
黒守はさすがに緊張していた。
食事の後、話しは通っていたのだろう、いや、今思えば通っていたどころか全てが整えられ、後は黒守の意志一つだったのだろう。慌ただしく翔はどこかに連絡し、善は急げとばかりに翔の運転するベンツに乗り込み、辿り着いたのはここ、神薙煕一郎の本宅である。心の準備も何もあったものではない。どんな人間なのか、いやその前にどんな顔なのかもわからない人達に、緊張するなと言う方がおかしい。
何かを考える間もなく、意外に普通の和室に通され、所在なげに待っている。くるりと和室全体を見渡して見るが、見れば見るほどに、普通の八畳間である。ご大層にある床の間には、水墨の濃淡の切々とした静けさの漂う掛け軸が一枚と、端の方に遠慮深げに比較的小さな白い花の挿った竹の花入れ。
寂しいような温かいような、不思議な空間である。
しばらくそうして床の間を眺めていると、翔と伴って少し年配の夫婦が入ってきて、黒守は慌て正座した。その、ぴんと張り詰めた空気が、正座をしなければ行けないように感じたのである。
「あらあら、そんなに緊張せんでもいいんよ」
緊張が極度に達しようかと言う黒守にふわりと笑って場を和らげたのは煕一郎の妻、神薙の姐である晴陽であった。
名前の通りの穏やかな笑顔の人。
それが、黒守の晴陽に対する第一印象である。
隣に立つ、隠しようもないオーラを纏う男が居なければ、黒守もほっと一息吐くところなのだが、如何せんその男から洩れる圧倒的な威圧感を前にしては、一息吐くこともできない。
黒守は本能的に恐怖を感じていた。
「まあまあ、煕一郎さん、そんなに怖い顔してたらせっかくのお話が台無しになってしまいますよ」
その空気を破ったのは、やはり晴陽で、不意に煕一郎の顔に人の良さそうな表情が浮かんだ。
「いや、すまんすまん、ついついな」
そんな言葉に丸め込まれまいと、黒守は固い表情を崩さない。そうでもしないと飲み込まれてしまいそうな気すらする。
「神薙煕一郎や」
そんな黒守にはお構いなしで、煕一郎は頭を下げた。
「妻の晴陽です」
対照的に、晴陽はにこやかだ。
「黒守、です」
自分の名前に不快感を覚えるかも知れないと、小さく呟いた黒守に、晴陽がにっこりと笑いかけてくれ、その時、ああ、これで賽は投げられた、後戻りはできない、としっかり感じた。
新しい父母。そして、今までと変わらない自分と、兄の翔。
賽は、投げられた。
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