ついに合宿の日となった。指定された宿泊施設はまるでホテルのような広さと豪華さがあり、所謂庶民の私なは縁遠いような場所だった。
選手達よりも一足先に来た私を迎えたのは、スーツを着た気品のある男性だった。
『ようこそ、青学のマネージャーだね。私は氷帝学園テニス部顧問の榊だ』
『初めまして、榊様ですね。わたくし、青春学園のマネージャーのみょうじなまえと申します』
『こちらこそ、君には他の学校の選手のサポートも頼むよ。我が氷帝の選手にも手伝わせよう』
『お心遣い心痛みますわ』
深く頭を下げれば自分の部屋まで案内される。必要最低限の荷物を持って再びロビーへ向かった。
ぼんやりと霞む視界の向こうには、幼い少女一人と少年が三人海辺で遊んでいた。真っ白なワンピースに真っ白な肌。声はぼんやりと覚えているけれど顔が思い出せない。
ーーー『……ちゃん!ほら、貝がらのペンダントだよ!』
ーーー『私に…?』
ーーー『……ちゃんにならきっと似合うよ!』
ーーー『…けど、わたし、可愛くないし…』
ーーー『そんなことないよ!すっごく可愛いよ!』
そうだ、彼女は周囲から嫌がらせを受けていて、ほっとけなくて助けてあげて…それで、何回か会っては遊んだっけ…?
ーーー『ありがとう、こじろうくん』
ふにゃりと口元が笑っているけれど、顔はやはり思い出せない。
波の打ち付ける音がだんだんと人の声に…あれ?
『…さん、…エさん…サエさん!』
飛び跳ねるように起き上がれば、意識はぼんやりとしているものの、ここがバスの中だと気付いた。外には目的地でもあったどでかいホテルがある。
『着いたぞ。起きろ』
まだ完全に覚醒していないが身体を起こして外に出る。入口には青学の制服を着た少女と派手なオレンジ頭の男が何やら話をしていた。
『あ、君かぁ噂の青学のマネージャーって。何でマネージャーになったの?っていうか超可愛いねー。ラッキーだなぁ。あ、後でメアド教えてくれる?俺のも教えるから。名前何て言うの?学年は?好みのタイプは?』
『…あの、どちらの学校の方でしょうか?』
『俺?山吹中部長の千石清純。よろしくね。あ、さっきの話の続きだけどさ、どんな場所でデートしたい?観覧車で二人っきりとかどう?けっこうオススメ』
『コラー!千石ーーー!』
『あでっ!』
少女が困ったような様子にも構わずマシンガントークを続ける千石の頭をべしん!と黒髪の男が勢いよく叩けば、きっぱりと部長は俺だ!と言った。
『部長の南さんですね。わたくし、青春学園一年のマネージャーで、みょうじなまえと申します』
挨拶を交わす二人にサエもほら、と言われて思い出した。
慌てて彼女の所へ駆け寄る。
『六角中部長の佐伯です』
『佐伯さん、ですね。わたくしは青春学園のマネージャーを務めさせていただいてます。みょうじなまえです。よろしくお願い致しますわ』
凛とした声と流れるような仕草の彼女に思わず見惚れる。
彼女が青学のマネージャーか。…不二にこの子に心当たりないかって聞かれたけど…駄目だ。思い出せない。
『…あの、何か…?』
『えっ!?あ、いや…』
じっと見つめていると先程の千石の時同様に眉を顰めた。何でもない、言いかけたが軽快な声に遮られた。
『あれー?まさか佐伯くんも惚れちゃったー?この子競争率高いねー』
『ち、ちがっ…!』
慌てて否定しようとした所で俺も、という一言に何か引っかかる。
『俺もってどういう…』
『四天宝寺の白石くん。彼も相当この子が気に入ったみたあべしっ!』
『千石!お前はまた…!』
困惑しながら瞬きをする彼女の目の前でまたしても南に叩かれている。千石は目を回した状態で南に連れて行かれた…。
『皆様が最後です。跡部さんがお待ちになっていますよ』
『俺たちが最後?』
『けっこうギリギリにバス乗ったからなのね〜』
『構いませんよ。先に皆様な部屋を案内しますので』
彼女はそう言いながら斜め前をゆっくり歩く。記録用のボードを片手に歩くその動きまで綺麗だと思った。
『こちらから奥まではご自由にお使い下さい。五分後には七校の選手全員にロビーまで集まって貰いますので』
お待ちしております。深々と頭を下げて去って行く。その品のある動きに、また見惚れていた。
『なまえは働き者やなぁ。可愛くて一生懸命で礼儀正しくてそれでいて奥ゆかしい…(俺の)ええお嫁さんになれるで!結婚し』
『丁重にお断り致しますわ』
正直、うっとおしい。この人…四天宝寺の部長らしいけど、一体何なのよ。さっきからずっとこの調子。いつの間にか名前で呼んでいるし。表情、引きつってないかしら。
『みょうじ!六角の連中は?』
『先程部屋に案内しました。もうすぐこちらに来ると思います』
『よし、名簿のチェックをしてろ』
『はい』
跡部に急かされたお陰でやっとこの男から解放された。ただでさえ人数が多いのに一人に構っていられないもの。
『立海テニス部、副部長の真田だ』
『真田さん、ですね。失礼ですが部長の方は…』
『ああ、聞いてなかったか。部長は今、難病を患っている。現在入院中だ』
『…!失礼致しました』
『いや、聞く所によると、最近マネージャーになったのだろう?知らないのも無理はない』
真田と名乗った男は手塚部長のような貫禄があり、一言で言ってしまえば老け込んで見える。そんな印象だ。
『しかも皇帝なんて呼ばれちょるし、趣味や好物まで年寄り臭いからのう。老け込んで見えるのも無理無いぜよ』
『それは言い過…!?』
かしゃん。
肩がびくりと震えた。手に持っていたシャープペンを落とした音がやけに大きく聞こえる。
声の主はいつの間にかすぐ真横に立っており、耳打ちするかのように小声で呟いた。
『ほれ、そんなに驚くことじゃなかろう』
『申し訳ありません。考え事をしてたので…』
とりあえず謝罪をすれば、目の前の独特の喋り方をする銀髪の男を見上げる。
端正な顔立ちだが、それを歪めるようにクスクスと何が楽しいのか笑っていた。
『お前さん…嘘が下手やのう』
『…は?』
『白石のことは正直うっとおしい。跡部にはよう知らんが憎しみ籠った目で見とる。周りが鈍いだけじゃ』
『…何の、ことですか?』
なるべく無表情で告げたが、声が若干震えている。自分でもわかるくらいだから彼にもきっと見破られているだろう。
『ま、気が向いたら俺んとこ来んしゃい』
彼はいつの間にか記録用のボードの上に私が落としたシャープペンを置いていた。名簿の空白の所に名前が書いてある。
…いつの間に書いたのかしら。
『仁王、雅治…』
誰かに言うわけでもなく呟いた名前は空気に溶けたかのように誰にも聞かれなかった。
『みょうじさん、さっき仁王と何を話していたの?』
『大したことはありませんわ』
『そう?彼はコート上の詐欺師って言われているからね。気をつけたほうがいいよ?』
『お心遣い、心痛みますわ』
不二さんが困ったように苦笑するが私は口元だけの微笑を浮かべた。
『そうだ、みょうじさん、写真を撮らせて貰っていいかな?』
『写真…ですか?』
『うん、僕の趣味でね。一枚だけ撮りたいんだ』
どこに持っていたのか小型にデジタルカメラを片手にいいよね?と言われた。仕事があるから。大丈夫、一枚だけだから時間取らないよ。私は特別美人でもないし。そんなことないよ、可愛く撮るから。数分の口論の末、渋りながら一枚だけならと結局私が折れた。
『ほら、笑って。そんな無表情じゃ勿体無いよ。顔上げて目線もこっちに…』
注文が多い。こっちがなにも言わないからって…。時間取らないって言ったくせに。
『…あの、時間が押しているので…』
『はい、チーズ』
言いかけた言葉を遮ったと同時に、シャッター音が小さく鳴った。
『…不二さん、』
『ありがとう、現像できたらあげるから』
『いりませんわ』
呆れて何も言えなかった。
名前、名前、名前。
俺のたった一人の妹。探し出して、もう一度…やり直したい。名前、今度はもう傷つけないから、頼むからもう一度…。
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