『はじめまして、みょうじなまえです。よろしくお願いします』
あれから。母が遺してくれた保険金と生前の稼ぎで暫くは暮らせそうだったため、私は母と暮らしていたアパートを解約し、新しい学校の近くに安く小さな、けれど一人暮らしには充分なアパートを借りた。
竜崎先生が気を遣ってくれて、今日から都内の青春学園に通うことになった。私立だが今の私に金銭的問題は無かった。
そして私は竜崎先生にテニス部マネージャーにと抜擢された。
マネージャーとしての仕事が忙しければ母のことを思い出す機会も自然に減るだろう。竜崎先生なりに気を遣ってくれたようだ。
私もなるべく母のことを考えたくないから名前を変えたと竜崎先生に言ったが、私はあの日から既に負け組のみょうじなまえになっていたのだ。
『みょうじにはテニス部のマネージャーとして、色々とあんた達レギュラーのサポートをして貰うよ』
ぺこり、深く頭を下げると、部員から拍手で迎えられた。
『部長の手塚だ。よろしく頼む』
『手塚部長、ですね。…覚えましたわ』
こちらこそ、差し出された手を握りしめる。男性特有のごつごつとした手は私よりもずっと大きかった。
『じゃあ、あたしはこの子に仕事を教えてくるから、全体の指揮は任せたよ手塚』
『では、失礼致しますわ』
先ほどと同じように頭を下げれば、竜崎先生に行くよ、と案内をされた。
『…大きい学校ですね』
『ああ。生徒も多くてね、同じ学年でも卒業まで互いに顔を知らない者もいるくらい、人数の多い学校だよ』
なるほど、母の頃もそうだったんだろうか。
『なるべくあんたの負担は減らすから、無茶するんじゃないよ』
『…はい、お心遣い心痛みます』
少しだけ目を伏せて述べれば、まず部室から案内するよ、と竜崎先生の言葉の直後に、誰か男性に呼び止められた気がする。
『おい、そこの女』
竜崎先生のことだろうか。
相手の顔も見ずに足を止め、呼ばれていますよ、そう言おうとした時。
すぐ隣にあったフェンスが悲鳴のような音を立てる。男の手がそこにあった。フェンスと男に挟まれて初めてその人の顔を見た。
日本人離れした耽美な顔立ちで、大抵の女性だったら目を奪われるだろう。
『俺様を無視するとはいい度胸だな』
『…申し訳ありません。どちら様でしょうか』
『俺様を知らないのか?』
『…わたくしは無知なものですから。お伺いしてもよろしいでしょうか?』
『ハッ、良く聞け。俺様が跡部景吾だ』
『あ…とべ…?』
私はあくまでも冷静に、どこかで目にしたその名前の記憶を辿った。
跡部…跡部って…そうだわ、確か跡部って…母の遺書にあった名前じゃない…!?

私は必死に動揺を隠し、目を合わせないように視線を反らせば、気付いた竜崎先生が彼をたしなめていた。

『これ跡部!!何をしとるか!!』
『それより、この女は?』
『…本日より青春学園のテニス部マネージャーとなりました。みょうじなまえと申します』
深々と頭を下げれば、竜崎先生に手を引かれ、彼と距離を作られた。
『…ほう。なら、これを渡しておこう』
彼が差し出した書類には、細かい日付けや場所が記されていた。
『練習試合の日程だ。手塚に渡しておけ』
『手塚部長にですね。畏まりましたわ』
ざっと目を通してから失礼致します、とその場を去ったが、部室に入るまで彼からの視線を感じたのは、気のせいではなかったようだ。


『さっきはすまなかったね、跡部の奴が…』
『いえ、気にしていませんから。竜崎先生が謝ることではありませんわ』
部室に入るなり竜崎先生からの謝罪の言葉に小さく首を振った。それよりもマネージャーの仕事を教えて下さい、と頼み込み本題に移った。
『まず、部員に渡すスポーツドリンクを作って貰うよ。それから、汗を拭うタオルも一緒にね。粉を溶かしておく間にタオルを用意して…』
竜崎先生に教えて貰いながら、私はここでの計画を少しずつ、実行に移し始めていた。
そう、少しずつでいい。マネージャーの仕事にしろ、部員からの信頼も、どんなに月日が流れようと、私は本来の目的を忘れない。




『皆様、休憩ですよ。今のうちに休んで下さい』
レギュラーの人達に一人一人ドリンクとタオルを渡していく。
『ありがとう、頑張っているね』
『いえ、大したことではありませんわ。では、わたくしはこれで…』
『あぁ、ちょっと待って』
茶髪の人に呼び止められ正面から向き合うと、私よりも頭一つぶんほど差のある彼を見上げる。彼は穏やかに微笑んだまま、立ち居振る舞い綺麗だね、とだけ告げてコートへと戻って行った。
何だったのかしら…?
『みょうじさん』
『え…』
考え込んでいると、身長の高い人が目の前にいた。いつからいたんだろうか…。ぎらりと光る眼鏡の奥の瞳は見えない。
『何か御用でしょうか?』
『レギュラーの顔と名前、その他のデータだ。役に立つだろう、使ってくれ』
『あ、ありがとうございます…助かりました』
まだレギュラーの顔と名前を把握してなかったので助かった。そのノートを受け取り、先ほどの茶髪の人物を探していると、途中で目の前の彼の言葉に手を止めた。
『不二周助。部内で二位の実力を持つ全国区レベルの天才プレーヤー。先ほどの会話からして君が不二のデータを最初に探す確率は85%だったからね』
『…丁寧なご説明ありがとうございますわ』
『良ければ君のデータも取らせて欲しいんだが』
『そうですわね、機会があれば、是非。ですが今日はまだやるべきことがあるので…』
『ああ、邪魔をしてしまったね。それじゃあ今度こちらで時間を作るよ』
『ええ、失礼致しますわ』
立ち去るのを確認してから改めてパラパラとノートを捲る。誕生日や血液型から、家族構成、父親の職業まで書いている。

…これは使えそうだ。

私はそのノートを仕舞うと、直ぐにマネージャーの仕事に戻った。




使用済みのタオルを適当に籠に詰めながら部室へと向かう。重さはそうでもないが嵩張るので視界を遮らないように少し低めの位置で抱えながら漸くたどり着いた。部室の洗濯機にタオルを放り込む。誰もいない部室に響く無機質な機械音が収まると、私は先ほど貰ったノートを鞄の中にそっと仕舞った。





『じゃあ、今日はこの辺りで仕事は終わりだ。後片付けは部員がするから、手塚とあたしと三人で今後のスケジュールを確認すればあんたの仕事も終わりだよ』
『はい、何から何まで、ありがとうございますわ』
『いや、お前には随分働いて貰っている。マネージャーとして、部員のことは頼んだぞ』
『はい。…あ、手塚部長、跡部様というお客様から、先ほど書類を頂きました』
『跡部か…わかった、読んでおこう』
『お願い致します』
自分の感情とは裏腹に、私は貼り付けた笑みを浮かべていた。




けれどね、こうなったのはあいつらのせいよ。…ええ、そうね。確かにお兄様は直接的には関係していないわ。けれど、同時に何もしてくれなかったのだから、私の復讐のシナリオに、ちゃんと巻き込んであげるわ。

どんな結末になろうと、私には復讐しか遺ってないの。

貴方との優しい思い出は、とっくの昔に壊れていたのよ。



そうでしょう?





…景吾お兄様?





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