序章





「響野天神、蓬莱屋さんから逢状かかりましてんけど」

階下から男衆が声を張り上げる。
負けじと支度途中の響野天神も、声を張り上げた。

「どなたでっしゃろ」
「桂先生やそうどす」





夕暮れ刻の置屋は慌ただしい。
支度を終えた響野天神は、周りの慌ただしさを意に介さずゆったりと階下へと向かった。

「ほならおかあさん。蓬莱屋さんまでいて参じます」

式台で女将に挨拶をして、新品の駒下駄に素足を突っ込んだ。

















「船曳屋の響野天神どす」

響野天神が蓬莱屋の座敷に到着していた時には、既に酒宴が始まっていた。顔なじみの桂が響野を笑顔で手招きする。

「天神、すまない。勝手に始めてしまったよ」
「ほなら失礼して、お酌させてもろうてよろしおすか?」
「今日の主賓はあの緋村だ。一番に酌をしてくれ」
「へえ。桂先生のご命令でしたら、逆らえまへんなぁ」


微笑んで桂が指を差した、赤髪の侍の元へ膝でにじり寄る。


「どうぞ、ご一献」
「かたじけない」
「緋村はんも桂先生と同じなんどすか?」
「同じ、とは」
「倒幕の志士やあらへんのどすか?」
「志士なのかは判らないが、民の安寧の為に刀を振るっている」
「へぇ、道理で肝の座ったお眼をしたはるわけやなぁ」
「天神だってそうではないか」
「わてどすか?」
「見たところお若いが、覚悟を決めた眼をしておられる」
「そないな事あらへん。緋村はんの買い被りどす。わてはそないに強いおなごやあらしまへんえ」

上座では桂がにやりと笑っている。

「緋村、この天神はそこらの女とはわけが違うんだ。すぐに太夫に上がる器だよ」
「桂先生はほんまにいけずやわ」
「いけずなもんか」
「ほな、わてが太夫に上がったらどないしはります?」

徳利を手にして、婉然と口許に笑みを湛えていた。

「な、緋村。天神は美しいだろう」
「今更何言うても手遅れどすえ、桂先生」
「天神が太夫に上がったら、いの一番に祝いに来るさ」
「期待せんでお待ちしてます」


桂とその一派の酒宴に呼ばれるのは、初めてではない。
ただ、初めて現れた緋村と名乗る赤髪の若い男の存在が気になった。


「緋村はんは、おいくつですのん?」
「十五になるが」
「そやったら、わてのふたっつお兄さんどすなぁ」
「まだ十三なのか」
「見えしまへんか?」
「十六、七だと思っていた」
「おなごの歳なんか、あってないようなもんどす。それより今日は緋村はんをお持て成しする会なんどすか?」
「持て成すと言う程でもない。折角京にいるのだから、一度くらい島原傾城を拝んでおけと桂先生に連れて来られただけだ」
「そんなら天神のわてやのうて、太夫の方が良かったんと違います?」
「そんな事はない。今日は十二分に楽しませて貰った」
「そうどすか。それならようおすけど。わてが太夫上がりしたらまた呼んでおくれやす」
「その時に生きていればな」
「なんや面白い事言わはるんやなぁ、緋村はんは」





このたった一度の邂逅の後、緋村を始め長州勢は皆、戦に命を燃やす事になる。




















「こったい、響野太夫」
「へえ」
「御所から逢状かかってまっせ」
「今日はみかどのお召しやったな」
「そうどす。太夫上がりのお祝いやし、景気良うぼちぼち道中参りまひょか」



合計で十貫はあろう、着物と三枚重ねの島原結びの帯をゆすって、弱冠十六歳で太夫に上がったばかりの響野が微笑んだ。



「えらいもんやなぁ、響野こったい」

玄関で見送る女将が、独り言ちた。
『こったい』とは、『こちらの太夫』が訛ったものだ。

「旦那さんに五百両からの支度金を出してもろうて太夫上がりさして貰うのんが普通やのに。あの子は五百両もの大金を自分で出して、自分を太夫上がりさせてしもた」


皆がするように男に抱かれてまで、太夫上がりをしたいとは思わなかった。
島原傾城としての意地と誇りが、それを許さなかった。
特定の旦那を持つ気すら、響野にはなかった。
誰にも縛られてはいけない、それこそが響野としての矜持だからだ。
幸か不幸か、置屋の裏口に棄てられた少女にはなんのしがらみもなかった。家族の記憶すらない代わりに、家族の借金を背負う事もない。


響野が自らの力で太夫上がりした事は、島原全体の誇りだった。
自力で正五位の格式を手にし、禁色の赤い衿を返している響野太夫が、何よりも誇りだった。



その期待と誇りを胸に、響野太夫は初めての道中に望む。









『響野』と錦糸で縫い取られた帯を揺らして、禿が声を張り上げた。



「曳舟屋ァ、響野太夫、御所まで道中罷り越しまするう」


真正面を見据え、香木で誂えた三本歯の高下駄を素足に履いて、内八文字を描いて美しくゆったり歩む姿は、長く広く島原中に語り継がれる事になる。



が、御所に向かう道中真っ只中の響野太夫には知る由もない。












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