あの日以来、みちるから電話が掛かってくることが増えた。
いつも決まって、闘いの日々にも慣れてきた、と電話の向こうで微笑む気配が痛々しい。
いっそのこと『敵』と闘うことが辛いと、怖くて堪らないのだと、弱音を吐いてくれたら良いのにと思うほど、みちるはただの一度だって愚痴を吐いたことがない。
私は優しい言葉の一つもかけてやれず、それどころか更なる闘いへみちるを導かなければならない宿命を放棄することも叶わない。
ごめんね、みちる。
零れそうな言葉を必死に噛み殺して、どうにか呑み込んでいる。
本当に辛いのは、私じゃない。
闘えもしない私が、運命を憂うのは筋が違う。
みちるを泣かせてもやれない私が、独りだけ甘えて泣く道理なんかない。








「はるか」
「ん?」
「お祖父様が神崎グループ主催の船上パーティーに、はるかは来るのか、と心待ちにしていらっしゃるわよ」
「ああ、前にお祖父様に招待されたパーティーか。スケジュールは空けてあるよ」
「そう。…ありがとう」
「なんだか元気がないな」
「あら、そうかしら。そんなことより、パーティーにはイギリスのテーラーで新調したタキシードを着てね。あのタキシードに似合うドレスを誂えたから」
「もしかして空色のドレスかい?」
「あら、知ってたの?」
「僕が着替えに行ったら、ルイーズが沙羅のクロークを調えていてね。その時に沙羅が新しく誂えたんだって教えてくれたよ」
「はるかに内緒にして、当日驚かせようと思っていたのに。もう、ルイーズったらおしゃべりなんだから」
「ルイーズを叱らないでやってくれよ。僕が勝手に沙羅のクロークに入って見つけたんだから」
「そんなことでいちいち叱らないけど。本当にはるかはルイーズに甘いわねぇ」
「そりゃあ、美人だからね」






空色のドレス。
空色のタキシード。
お祖父様の船上パーティー。
近付いて来る、黒い週末。
沈黙なんて、来なければ良い。













「沙羅さん、ごきげんよう。素敵な船上パーティーですわね」
「瞳子叔母様。ごきげんよう」
「今日ははるかさんもいらっしゃってますの?」
「ええ、のちほど改めて二人でご挨拶させて頂きます。今日は藤花流から叔母様と佳也子お姉様がいらしてると伺いました」
「ええ。神崎会長には、日頃から藤花流の後援会長としてご尽力頂いているご縁がありますもの。神崎グループ理事の沙羅さんはご存知なのではなくて?」
「ええ、勿論。今日は佳也子お姉様が舞をご披露してくださると聞きましたけれど」
「次期家元の御披露目を兼ねて舞わせて頂きます。佳也子は折角の神崎グループのパーティーですから、沙羅さんと相舞いが出来ると楽しみに思っておりましたのよ」
「私ごときの舞など、皆さまのお目汚しでございましょう。次期お家元の佳也子お姉様と並ぶのも、烏滸がましい限りでございますもの」
「そんなことは断じてありませんよ。燿子お姉様がご存命なら、次期家元は佳也子ではなく沙羅さんでしたのよ。そのお歳で名取にまでなられた実力がおありなのにご謙遜なさるのは、かえって嫌味に聞こえますわ」
「確かにお母様は私が藤花流を継ぐことを望んでいらっしゃいましたし、舞うことは私にとっては一番の楽しみでございます。けれど、私は神崎グループを継ぎたいと願って理事になりました。藤花流は瞳子叔母様がお家元を継がれて、佳也子お姉様も後継者と決まりました。けれど、神崎のお祖父様は一人息子のお父様を亡くされて、後継者はもう私の他には誰もおりません」
「気丈でいらっしゃるのね。ご両親を亡くされて沙羅さんもお辛かったでしょうに」
「いいえ、叔母様。私は幸せですわ。神崎の家にはお祖父様もお祖母様もいらっしゃいますし、はるかも傍にいてくれます。辛いことなど、何もありません」
「沙羅さんがお元気そうで安心いたしました。落ち着かれたら、またお稽古しにいらして下さいませね。藤娘のお稽古が途中ですから」
「必ず伺います。ご指導よろしくお願い申し上げます、お家元」
「お待ちしております。ごきげんよう、沙羅さん」
「ごきげんよう、瞳子叔母様」




両親の死後、私の後見人になってくれた神崎の祖父母に、何度も藤峰本家で私を引き取りたいと申し出てくれた、母と面差しが瓜二つの叔母。
家元だった母の跡を継いで家元になったけど、『沙羅さんが継ぐまでの中継ぎのつもりでお引き受けします』と頑なに言い張った優しい、ひと。
母が私に遺した藤峰本家と藤花流に関わる財産を含む総てを放棄し、叔母と従姉の佳也子に譲渡することで相続問題を無理矢理に落着させた。
私がはるかと生きる限り、子孫は残せないだろう。
その選択の何一つ後悔はしていないけど、世襲制度を固く守って続いて来た藤花流を、私の代で途絶えさせてしまうことは先人たちに申し訳なくて出来ない。
幸い佳也子には実力があり、人柄も大らかで人望も厚い。
婿養子を承諾してくれた梨園の次男という日舞にも明るい婚約者がいて、結婚も間近だと聞く。
私が継がなければならない必然性は、どこにもない。
神崎のお祖父様は、神崎家の後継ぎなんか出来なくて良い。どうしても子供が欲しかったら、はるかと二人で養子を迎えたら良い。沙羅とはるかが幸せなら、旧華族神崎家直系の血が絶えようともそれで良い。
そう言って笑ってくれた。
だから、お祖父様が創り上げて護ってきた神崎グループを、継ごうと決めた。
神崎本家の当主も、いずれお祖父様から譲り受けると肚を括った。









「沙羅」
「はるか。ご挨拶回りは終わったの?」
「ああ。お祖父様に引っ張り回されて、一通り済ませて来たよ」
「ごめんなさいね。私が神崎グループの理事なんか引き受けたばっかりに、はるかまで窮屈な思いをさせているわ」
「神崎グループは僕のパトロンでもあるんだ。このくらいの事はさせてくれよ」
「ありがとう、はるか」
「それより今日は一段と綺麗だ」
「まあ、はるかったら」
「本当だよ。まるでお姫様みたい」
「はるかだって立派な貴公子よ。惚れ惚れしてしまうわ」
「そうかな」
「私たち、お似合いのカップルね」
「君と来たら…」
「ふふ。流石は私のパートナーだって、皆さん仰って下さってるのよ。こんなに嬉しいことってないわ」
「君が嬉しいなら、僕も嬉しいよ」
「ありがとう、はるか」







深海色のドレスを身に纏う、細い体が近付いて来る。
足取り軽やかに、音もなく。
唇が弧を描き、毅然とした態度で、運命と共に近寄って来る。
もう、拒むことは赦されない。
闘いからはるかを遠ざけることは、もう…






「沙羅姉様、天王はるかさん。ごきげんよう」








みちるの凪いだ微笑みが、闇色の沈黙を引き連れる死神のように、見えた。






黒い週末




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