そんなきみは知らない





知らないアドレスから、たった2行のメール。



“夜、出て来れないか?
 サシで呑もう”


差出人の名前もなかったけれど、見当はついた。
名刺を渡してから一週間も経った、ある日の事だった。





会社から程近い場所で思い浮かんだ、バーの名前と地図を添付して

“6時に店で”

と、手早く返信した。








女の総合職は風当たりが強い。
セクハラだって日常茶飯事だけど、そんな事をいちいち嘆いていたらこの仕事は務まらない。



今日も今日とて、ずれたカツラの前髪を必死に直す駄洒落しか言わない部長と、ポマードで髪をぎとぎとに撫で付けた小言しか言わない課長を笑顔でいなして、素知らぬ顔で任務を遂行するだけだ。


お局のオバサマに厭味くさくお茶の煎れ方が悪いと叱られる派遣の女の子の、愚痴を聞くのもいつの間にか慣れてしまった。



愚痴と小言と駄洒落と厭味。
それらを聞き流す事がわたしの仕事なのかも知れない。
取引先への連絡よりも、神経を擦り減らすのはいつも、身内の相手をする時だ。








会社勤めの大概の人間がそうであるように、わたしにとってもアフター5は待ち遠しいものになった。
それでこそサラリーマンらしいと、先輩から褒められたけれど。
実際そんな事を褒められたって、ちっとも嬉しくない。




でも、久しぶりに仕事からの開放感以外で、心が弾む。
気付いたら楽しみになっていたらしい自分が、単純で可笑しい。



終業のベルと共に満面の笑みで退社の挨拶をして、狭いオフィスを飛び出した。







夕方のオフィス街は暑い。
ジャケットをバッグに仕舞い、髪を結い直す。
ブラウスの襟に巻き付けていたスカーフは、せめてもの飾りにと結った髪の根元に巻き直した。
アフター5のちょっとしたお洒落も上手くなった。
仕事用のメイクから、繁華街に映えるメイクへの手直しも手早く出来るようになった。






「わたしって、サラリーマンなのね」


思い返してみれば、なんだか笑えて。
グロスをベージュからピンクへ塗り直した唇の端が、勝手に笑った。














「もしかして待たせた?」

6時きっかりにバーに着いたら、既に翼がグラスを舐めていた。


「勝手に来てただけ」
「そう。マスター、ソルティードックとプロシュート頂戴」

躾の行き届いたバーテンダーに、ジャケットとバッグを預けて。
翼の隣の椅子に脚を組んで座った。



「仕事、お疲れ」
「ありがとう。なに呑んでるの?」
「ジャック・ダニエル」
「綺麗ね、琥珀色」
「ここで生ビールを頼む勇気はないからな」
「あら、ここのマスターは気さくだから、そんな事心配しなくても良いのに」
「遥香の前で、って事」
「ふうん、光栄だわ」




ポケットに入っていた煙草のソフトケースをカウンターに置く。
見計らったようにマッチを差し出してくれるマスターの気遣いが好きだ。



「煙草、吸うんだ?」
「スポーツ選手の前だから遠慮したいんだけど、一本だけ良いかしら?」
「気にしなくて良いよ」
「ありがとう」



指先で一本摘んで唇にくわえる。
バーのロゴが入ったマッチに片手だけで火を点ける。
仄暗い店内に灯る火が、ジャック・ダニエルに反射して揺らめいた。




「綺麗だな」
「え?」
「指が」
「そう?」




深く吸い込んだ煙をゆっくり細く吐き出す。
ああ、仕事が終わった後の煙草はなんて美味しいのか。
そんな事すら嬉しい自分が哀しかった。





「久しぶりに女を綺麗だと思った」
「もしかして口説かれてるのかしら」
「初めて会った時からそのつもりだけど」





カウンターに飾られたキャンドルの向こうに、真剣な眼差しの翼が見える。





(あんな獣みたいな眼のあなたは知らない)







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