平穏



暑い日差しの中、凛は膝を抱えて隠れるように日陰に座り込んでいた。その表情は浮かないもので、誰がどう見ても機嫌が悪いと分かるだろう。ほんのりと目尻を赤く染めて、自己嫌悪に陥った凛は膝に顔を埋める。
ミーンミンミンと蝉の声がやけに鼓膜を揺らした。今更どのような顔をして戻ればいいのか凛には分からなかった。ぐす、と鼻をすすると頭上から聞き覚えのありすぎる少年の声が響く。その声に顔を上げると少年は心配した様子など微塵もなく、手を出しながら満足気に笑って俺の勝ちだな。と言うのだった。





ごろん、と凛はベッドの上で寝返りを打つ。こんなにも時間を持て余すことが久々過ぎて、いつまで経っても慣れないのが本音であった。

この国に帰還してから一週間。凛が申し出た取引は二つ承諾された。
凛を知る者に凛の近況を知らせないことと、衣食住の面倒を見ること。その代わり凛は近界で得た知識を包み隠さず提供することを約束した。近界に置いてくる、という取引に関しては前向きに検討をすると言っていたが、気が変わればいつでも言ってほしいと念を押された。
凛は別に、自分の生まれたこの国が嫌いなわけではない。近界に本気で帰りたいかと言われればそういうわけでもなかった。ただ、この平穏な国は殺伐とした生活を送ってきた凛にとって居心地が悪いものであったのだ。
例えば。こんな風にゆっくりと起床することなど近界に誘拐されてから九年、一度もなかったのだ。一秒でも起床が遅れれば折檻され、深く眠りに付けば寝入っている隙に乱暴をされた。己の身は己で守るしかなかった。味方など一人もいなかったのだから。
そんな境遇で生き延びた体はこの穏やかな国になかなか順応せず、起床時間は今まで通り早く、夜の眠りは浅かった。だというのに身の危険はないというのだから調子が狂う。

ポンッと聞き慣れた音が部屋の中に響きライトが点灯する。この個室は来訪者が訪れるとこのように室内の者に知らせる。外側からロックを解除する術もあるようだが、この個室で生活している隊員も多いらしく基本は内側からしかロックは解除出来ないそうだ。
それでも、癖の抜けない凛は枕元に食事の際に出された簡易的なナイフを隠していたがどうやら今のところ使う機会はなさそうなほど、この基地内は安全であった。
ベッドから立ち上がりはーいと緩い返事をするとドアの外から俺~というこれまた緩い声が聞こえてくる。この部屋に訪れる人間は限られていて、その八割はその俺とやらなのだから凛は警戒することもなくロックを解除する。よく考えれば。こんなに簡単に他人を部屋に招き入れている時点で凛もこの国に絆され始めているのであったが、本人はまだそれに気付いていなかった。

「俺さんこんにちは~」
「はいこんにちは~」

我が物顔のように開かれた扉から声の主、太刀川慶が部屋の中へと入ってくる。この一週間、太刀川がこの部屋に訪れない日はなかった。一、二日目はさして気にしてはいなかったものの、三日目に差し掛かったあたりに凛は確信を持って監視?と聞けば太刀川はなはは、と笑った。
凛は確かに今、ボーダーと取引を交わしていて協力関係にもある。しかし全面的に信用されてるかと言われればそうではない。そして、それは凛も同じだった。
凛はボーダーを信用しているわけではなく利用している。自分が今、生きていくために必要な存在。謂わば四番目の飼い主と言ったところだろう。お互い利害関係でしかないため、凛にトリガーは渡されていなかった。いつも通り念の為、というやつであり凛もそれに意を唱えることはなかった。

この部屋にも慣れたであろう太刀川が小さな冷蔵庫に持ってきた飲み物を入れて、自分と凛の分の弁当を取り出す。凛はこの部屋から必要以上に出ることも推奨されていないため、それにも従っていた。そのため食事は太刀川か、忍田。そして迅という太刀川に少し似た食えない男が持ってくることが殆どであった。

「今日のお弁当なに~?」
「唐揚げ」
「うひぇ~太っちゃうじゃん」
「食わねーなら俺が食うけど?」
「食べまーす」

太刀川と向かい合うようにテーブルを挟み、いただきますと手を合わせる。そんな凛を太刀川はちょっと満足そうに見るのを凛は知っている。なに?と聞けばそういうとこも変わってねーのな。と言われたのでもう聞かないことにした。

「んー、美味しい!ボーダーってご飯美味しくない?」
「美味いよなぁ。俺はうどんが好きなんだけど」
「えー、じゃあ持ってきてようどん」
「ここに来る前にのびちゃうだろ」

太刀川との会話はいつもこんなものである。まさに中身のない、普通の会話。祖父を交えて話していた時と何ら変わりのない会話をする自分達は、されどあの頃とは変わってしまっていたことに凛は若干の寂しさも覚え、見て見ぬ振りをした。
太刀川の持ってきた弁当を半分ほど食べたところで凛は箸を置きふぅ、と満足気に息を吐く。凛は食が細い。元々はよく食べるほうであったが近界では満足に食事を摂れる機会のほうが少なかったため、必然的に体が少量の食料でも満足出来るよう適応したのだろう。いつも通り食べきれなかった弁当を前にごちそうさまでしたと言えば、太刀川はおー。と返事をして凛の残した弁当を完食する。

「よく食べるね、慶ちゃん」
「そうか?むしろ凛はそれで足りるのかよ」
「足りる足りる。ていうか、私この一週間で太ったことない?」

この一週間、凛がしていたことはご飯を食べて、日柄ぼーっとして、たまにエンジニアに呼ばれて、寝る。その繰り返しであり体が鈍って仕方がなかった。気のせいでなければ体が重くなった気がしなくもない。そんな凛の言葉に太刀川はそうかぁ?と首を傾げる。

「あんま気になんねーけど。腹に肉ついたのか?」
「んッ、あ」

突然脇腹を触られて思わず上擦った声が漏れてしまう。あ、やってしまったと思った時には既に遅く。太刀川の手から逃れるように身を捩った体勢で太刀川のほうに視線を投げるとなかなか面白い顔をしている。まずい。吹き出してしまいそうだ。

「慶ちゃんのえっちー」
「いやいや。えっちなのおまえな。なんつー声出すんだよ。驚いただろ」
「慶ちゃんが急に触るからでしょ」
「確かに。でも下心はないぞ」

そんなことは言われなくても分かっている。凛は少なからず驚いていたのだから。下心もなにも、そういう目的でなく凛の体に触れた男は本当に久し振りだった。近界では気のせいかと思った触れ合いは全て乱暴に繋がるものであったのだから。
太刀川は本当に、ただ凛の腹肉を確認するためだけに凛に触れたのだ。その行為には驚くほど嫌悪感は湧かなかったが、自分の反応は気持ちの悪いものであった。……とはいえ。

「……ぷっ」
「…なんだよ」
「え、慶ちゃんちょっと焦ってる?あはは、冗談だよ冗談。くすぐったかっただけ」

太刀川は凛の反応に少なからず動揺していた。いくら太刀川といえど男の相手をしてきた凛には筒抜けだ。
体ばかり大きくなったかと思ったけれど、ちゃんと太刀川も男なのだ。これ以上揶揄うのも良くないと思い揶揄ってごめんね?と首を傾げれば太刀川は呆れたように溜息を吐いた。

「でもさ、実際体鈍ってしょうがないんだよね。運動とか出来ないのかな」
「そっか。おまえトリガー渡されてないもんな」
「うん。なんか良いアイデアない?」

うーんと太刀川は顎に手を添えて眉間に皺を寄せる。おまえ強いもんなぁ、とよくわからない確認をしてくるのでまあそれなりに。と答えれば太刀川はよしっと何か思いついたように立ち上がる。

「凛、夜遅くまで起きてられるほう?」
「え?余裕だけど」
「じゃあ今夜。えーっと…今夜でいいな。夜迎えに来るから起きてろよ」
「あれ、もう帰っちゃうの?」

太刀川は監視のためもあるがいつもはもう少し長く部屋に滞在することが多かった。一人では暇なため、太刀川が訪れることは純粋に嬉しく、そして帰って行ってしまうことはつまらなかった。
ちぇ、と口を尖らせれば太刀川はそんな凛の表情に出た出た、と嬉しそうに破顔させる。また昔の凛と照らし合わせているのだ。わざわざ言及するのも面倒くさくてふい、と顔を背ければ太刀川は逆効果でしかない言葉で宥めようとしてくる。

「ちょっと準備があるんだよ。また夜くるから拗ねんなって」
「拗ねてませーん」
「はいはい。じゃ、またな~」

手をひらひらと振って太刀川は部屋から出て行ってしまった。つまんないな。またしても一人きりにされた部屋で凛は体をベッドに預ける。そういえば。一人がつまらないと思うのなんて変な感じがしたのだ。近界では一人の方が楽だったのに。
そんな考えに凛は目を閉じる。どうでもいいかと。太刀川はまた夜来ると言っていた。どうせやることもないのだ。凛は両目を閉じて、夜に備えて有り余った体力を更に回復させるよう無理矢理眠りに落ちるのだった。





太刀川が再び凛の部屋に訪れたのは宣言通り夜になってからであった。昼間と同じようにポンッと音が鳴りライトが点灯し、ドアの外からはこれまた昼間と同じように俺~という緩い声が聞こえてきたため、凛はドアのロックを解除した。

「夜這いですか~?」
「それもありだな。でも残念。もっといいことだ」

太刀川は口角を上げて楽しそうにしている。ちらりと時計に目をやると時刻は二十三時を過ぎたところだった。

「いいこと?」
「おう。ま、ついてこいって」

そう言って太刀川はくるりと踵を返す。凛は思わずえっ、と声を漏らした。
確かに凛はこの部屋から出ることは推奨はされてはいなかったが出来ないことではなかった。エンジニアに呼ばれた時や、忍田に呼ばれた時など、取引を行う時は彼らに続いて基地内を歩かせてもらっているのだから。申し出れば凛も自由にこの基地の中を歩き回る許可は出たかもしれない。
現に忍田には提案されていた。軟禁をしているようで申し訳ない。基地内ならば自由が効くよう取り計らおうかと。凛はその申し出に首を振った。面倒事を増やしたくなかったからだ。凛が歩き回るようになって不備が生じた時、疑われるのは自分だろう。そんな危険を冒すよりも、ボーダーで世話になってるうちは大人しくして、さっさと近界に帰ろうと考えていたのだ。

しかし太刀川はそんな凛について来いという。その声色に強引さはない。部屋の中から自分の意思で出ろと言っているのだ。一体どこに行くつもりなのか。上層部の面子に話は通っているのか。凛がこのドアから先に進むのを躊躇っていると太刀川は振り返って首を傾げる。

「どうした?」
「部屋から出ていいの?慶ちゃんの判断で?」
「あー…凛は出たくねーの?」

凛はどちらかと言えば部屋から出たくはなかった。しかし、太刀川の誘いに興味が湧いていることも事実であった。昼間、太刀川は準備があると言ってこの部屋を後にしたのだ。その準備とやらの正体が純粋に気になる。

「出たい」

そう答えると太刀川は満足そうに笑って手を差し出してくる。それは遠い昔。太刀川にボロ負けをして拗ねた凛が道場端で隠れていた時のことを思い返させる。

祖父に言われて凛を探しに来たであろう太刀川は凛を見つけると今みたいに満足そうに笑って手を差し出してきた。俺の勝ちだな。探しに来たくせにそんな言葉を投げかけてくる太刀川の手を凛はあの頃の出来る限りの力で握り返して道場の中に戻ったのだ。
そんな綺麗な思い出に凛は軽く首を振った。馬鹿馬鹿しい。太刀川はきっとあんなこと覚えていない。ただ、思いついたからやっているだけの行動に違いない。何だかそれが面白くなくて凛は口を尖らせながらもその手を取るとぶはっ、と太刀川が吹き出した。

「あん時と同じ顔」

変わんねーのな。と太刀川が愉快そうに言うのが癪に触り、すぐに手を離すと怒んなって。と反省の色など全く見せずに太刀川は笑って凛の前を歩き出すので、凛もそれに続くことにした。
太刀川はもしかしたらあの日のことを覚えていたのだろうか。自分だけが覚えていたわけではなかったのだろうか。尋ねる勇気はなく、想像でしかない。ただそれだけのことが少し。ほんとに少しだけ嬉しかったのを凛は結局口には出せず胸にしまい込んだ。

どこに向かっているかは分からなかったが道中、太刀川がこの行動の許可を忍田に取ってあると凛に伝えたため、凛も何の憂いもなしに太刀川の横を歩くことになった。準備とはこのことだったのだろうか。そういう大切なことは出来れば最初に言ってほしい。
相変わらずな太刀川に凛は恨めしげに溜息を吐くと、そんなもの全く意に返さない太刀川はなはは、と緩く笑うのだった。






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