幸福


お腹が痛い。
朝から何度目になるか分からない言葉を凛は飽きもせずに呟く。いつもなら心配する言葉ではあるが今日だけは理由が分かり切っているうえにどうしようもないことなので、太刀川は電車に乗る前に買った暖かいお茶を凛に渡せば凛はそれを一口だけ口に含んだ。
はぁ、と俯く凛の背中を優しく摩ると凛は切なげに太刀川を見上げてくる。相変わらず可愛いなと自分の妻となる相手に見惚れていると凛はまたしても大きな溜息を吐いた。

「うぅ~…吐きそう……」
「大丈夫だって。ほら、忍田さんに報告した時だって結構あっさりしてたろ?」
「あっさりしてたかなぁ、あれ…?」

三年前。凛と太刀川は今覚えば随分可愛らしい約束を交わしていた。お互いが三年後、まだお互いのことを好きだったら結婚しようと。
太刀川には確信があった。何せ九年越しでも凛を好きになったのだから三年後もきっと自分は凛のことを好きだろうとなんの心配もしていなかったのだ。
それは凛も同じであった。凛は太刀川のことを嫌いになったことがない。幼い頃からずっと太刀川のことが人として好きだったのだ。そこに恋愛感情が加わっただけで、凛が太刀川を好きでなくなる日は来ないと凛もまた確信していた。

太刀川の大学生活は凛から見ても大変なものであった。太刀川の生活の主軸はボーダー活動であるため、大学はどうしても二の次になってしまう。この三年間、太刀川はボーダー隊員として遠征に出向くことも多く、そしてこちらにいる時は本部の防衛にも当然携わっていた。その働きぶりは大学に通いながらこなすにはなかなか忙しいものがあり、ボーダーと学生の両立は大変なんだな、と大学に通っていない凛は羨ましいような羨ましくないような複雑な思いに駆られた。
しかし太刀川には留年せずに卒業しなければならない理由が出来た。凛と結婚するためだ。惚気かと言われるかもしれないが、太刀川からしたら大真面目であった。
凛を三年以上待たせるのは嫌だった。一番の理由は凛を早く爺さんに会わせたかったからである。そして凛の家族にも忍田にもきちんと認めてもらうため留年するわけにはいかなかった。

恥も外聞も捨てて風間や諏訪に泣きつきながらも無事大学を卒業した太刀川はその日、凛にプロポーズをした。凛は泣いて喜んでくれた。太刀川自身も少し泣きそうだったのは秘密だ。
そしてまず最初に忍田に報告をしに行って、その日は日付が変わるまで帰ることが出来なかった。凛と結婚します。と太刀川が告げると戦闘体に換装した忍田と太刀川が突然ランク戦を始めたからである。状況が飲み込めずにその戦いを見守っていると、太刀川と誰よりも凌ぎを削り合っていた迅がこっそり教えてくれた。

「太刀川さん。忍田さんに勝ち越さないと凛との結婚を認めてもらえないんだって」
「えっ」
「結婚おめでとう。凛、太刀川さん」

綺麗な笑顔でそう言われ、凛は顔を真っ赤にしてお礼を言った。今思えば迅には色々なものが視えていたのだろう。凛と太刀川が結婚することを伝えたのはこの時点ではまだ忍田だけであったのにも関わらず祝言を伝えたり、今のところ負け越している太刀川が認めてもらえる未来もきっと先に視ていたのだ。
そして日付が変わって少しして、ついに太刀川が6-4で忍田に勝ち越すことに成功した。ブースから出てきた二人は清々しい笑顔で凛の元にやってきて、忍田もまた、迅と同じように二人の結婚を祝福してくれるのだった。

そして今、凛がお腹を痛める原因であるものを探し出してくれたのは鬼怒田だった。
鬼怒田は以前から凛にずっと言っていた言葉がある。どんな手を使ってでも両親に会わせてやる。これはまるで鬼怒田の口癖のようなものだった。
太刀川と結婚することになり、凛は鬼怒田にも勿論報告をしに行き、そして当然のように言われた。

「結婚をするのならちゃんとご両親に挨拶をしに行け、太刀川」
「もちろん」

そう言って渡されたのは地図と住所が書いてある紙であり、一体いつから見つけていたのか。その住所の下には凛の両親の名前が記されていた。…きっと、三年前。既に凛の両親の現在の住所を突き止めていたのだろう。凛が会いに行きたいと言ったらいつでも教えられるように。
鬼怒田は優しい。忍田もそうであったがこの二人は本当に凛のことを娘のように大切に扱ってくれた。それがどれだけ嬉しかったことか。

「鬼怒田さん、ありがとう。私…ちゃんと、両親に会いに行くね。生きてるよって、ちゃんと…自分の意思で」

凛の言葉に鬼怒田は少しだけ目を大きく開いて、それを優しげに細める。

「遅いわ、ばかもんが」

言葉とは裏腹にその声色はとても優しいもので、太刀川も凛も思わず笑ってしまうのだった。



そしてついにこの日が来た。凛の両親に結婚の挨拶をしに行く…というのはついでであり、本当の目的は凛の十二年ぶりの里帰りである。この三年間、太刀川と大きな喧嘩もなく仲良くしていた凛が近界に戻りたいと言うことは一度もなかった。
しかし、度々やっぱり両親に会わなきゃダメ?と太刀川に尋ねることはあった。その度に太刀川はどちらでも良いと返していた。凛が会いたくないのなら会わなければ良いし、会いたいのならちゃんと着いて行くと。そんな太刀川の返事に凛は毎回救われていた。どちらを選ぼうと太刀川が凛を責めることはないと十分過ぎるほど伝わったから。

凛は太刀川の両親にもちゃんと挨拶がしたかった。しかし太刀川は凛の両親に挨拶しないのなら別にいいとそれを断った。元々、凛の両親と太刀川の両親は仲が良かったのだから、凛と結婚することが分かれば間違いなく太刀川の両親から凛の両親へと伝わってしまう。凛が嫌ならやめとくと。どこまでも太刀川は凛の意思を尊重してくれた。
しかし凛は知っている。太刀川は一人っ子であることを。大事な一人息子の結婚話が自分のせいで出来ないなんて嫌だった。結局、いつまでも腹の括れない自分の我儘のせいで太刀川に多大な迷惑をかけていることが嫌になり、凛は正式に太刀川がプロポーズをしてくれたあの日、心の底から喜び、覚悟を決めた。

鬼怒田から預かった住所の家の前に着くと、そこには斎藤と、凛の名字と同じ表札が飾ってあった。間違いない。ここに、父と母がいる。
太刀川と繋いでいた手がカタカタと震えてしまう。腹痛はそれを越えて吐き気に変わっていた。会いたい。だけど、会うのが怖い。もし、娘だと分かってもらえなかったらどうしよう。もしかしたら新しい子を産んでいて、自分のことなどもうとっくの昔に忘れ去ってしまっていたらどうしよう。色々な不安が膨らむ中、震えている手を太刀川が優しく握る。それに反応して太刀川を見上げれば、太刀川はただ優しく凛のことを見つめてくれた。
何があってもこの男は、自分の夫となるこの男は凛の味方でいてくれる。その事実に安堵し、凛は震える手でインターホンを鳴らした。少しの静寂の後、インターホーン越しに懐かしい声が聞こえてきた。

『はい』

その声に心臓が大袈裟なくらい跳ねてしまう。だって。その声を知っているから。聞き間違えるはずがない。十二年も聞かなかったのに、その声は凛の鼓膜を痛いくらい揺らした。

「………ぁ、……」

声が出ない。呼吸すら上手く出来ないような気がした。凛が何も言えないでいると、インターホンの向こう側から『どちら様ですか?』と怪訝そうな声が聞こえてきた。このインターホンにはカメラもついている。向こうには凛と太刀川の姿が見えているはずだ。それも怖くて、つい俯いてしまう。インターホンの向こうで母が少し溜息を吐いた。切られてしまう。どうすることも出来ず俯く凛の手を太刀川が再度握った。

「急にすみません。太刀川です。太刀川慶。昔、爺さんに剣道を教えてもらってた…お久し振りです」

その言葉に少しの沈黙の後、『慶ちゃん?』と母は凛と同じように太刀川の名を呼んだ。どうやら母は太刀川のことを覚えていたようだ。

『久し振りね!もう十年以上前になるの、かし……ら………』

嬉しそうな母の声はやがて尻すぼみになり、突然ピッ、とインターホンを切られてしまった。母の突然の行動に凛と太刀川は顔を見合わせて首を傾げる。するとドアが勢いよく開いて、母は靴も履かずに裸足のまま凛へと一直線に走り、その両肩を痛いほど強く掴んだ。

「凛!?凛よね!?ねえ、そうなんでしょう!?」
「……! 私って、わかるの…?」
「当たり前でしょ!?いき、生きて、生きていたのね……!?ああぁ……!」

母は腰が抜けてしまったのか、両手で顔を覆いながらその場にへたり込んでしまう。凛も母に釣られるように座り込めば母は声を上げて泣き出してしまった。そんな母の声を聞きつけて、父も家から出てくると凛の姿を見つけて一目散に走り出した。

「凛!?凛なのか!?」
「お父さん、お母さん……」
「良かった……!本当に、よく、帰ってきてくれた…!」

そう言って父は凛と泣き崩れている母を痛いくらいに抱きしめた。その姿に、この国に初めて帰還した時の鬼怒田の言葉が思い出された。

── 親はな、子供が生きていてくれるだけで嬉しいんだ。間違っても死んでたほうが良かったなんて言うんじゃない。絶対に喜ぶに決まっておる。

あの頃の凛はそんな綺麗事を言われても、と若干の苛立ちと、それと同時に少しだけ鬼怒田の言葉に希望を抱いてしまった。もしかしたら、自分の両親も鬼怒田のように思ってくれるのかもしれないと。しかし、拒絶されるかもしれないと思うと恐ろしく、こちらに帰ってきたにも関わらず、三年間両親に会いに行くことは結局出来なかった。
会いたくなかった。そんな気持ち、嘘でしかないことに凛はやっと気付けた。だって、母と父と再会出来たのがこんなにも嬉しいのだから。
二度と会えないと諦めていた。もうこの国には帰れないと覚悟していた。まさか、こんな日が来るなんて思ってもいなかった。凛も母と同じようにまるで子供に戻ったように…いや、十二年前からの再会を果たし、あの頃に戻ったように大泣きをするのだった。





「慶ちゃん」
「お、こっちきたのか」

両親と再会した凛に対し、太刀川は積もる話もあるだろうと言って別の部屋で一人待つことを提案した。凛も凛の両親も太刀川は恩人であるのだから遠慮しなくていいと言ったが、太刀川は遠慮なんてしていないと笑って結局気を利かせてくれたのだ。太刀川のそういうところも凛は好きだった。
暫く両親と話をした凛が太刀川の待つ部屋へと移動すると、太刀川は優しく笑ってくれるので太刀川に寄りかかるようにその横へと腰を下ろした。

「うん。…正直、何を話していいのか、まだよく分からなくて」
「はっはっは、好きなこと話せばいいだろ」
「うん。だから結局慶ちゃんのことばっか喋っちゃった」

凛の言葉に太刀川はへぇ。と嬉しそうに破顔する。キスしたいな。そう思ったのはお互いであったが、ちらりと懐かしい顔を見てどちらともなく笑った。

「爺さんに見せつけたら怒られるかもな」
「慶ちゃん絶対に竹刀で叩かれるね」
「俺だけ?」
「私叩かれたことないもん」

凛の言葉に確かに、と太刀川はやっぱり楽しそうに笑った。
太刀川はどこで待つかと聞かれた時、爺さんのところと即答した。祖父の仏壇が置かれている部屋には祖父がずっと使用していた竹刀、そして稽古着が飾られており懐かしい気持ちが思い起こさる。太刀川も同じなのだろう。十二年振りにやっと再会できた祖父に太刀川も嬉しそうにしているのが見て取れる。

「じゃあ改めて。爺さん、久し振り」
「…お爺ちゃん、ただいま」

そう言って、凛も太刀川も仏壇へと手を合わせる。飾られていた写真は凛と太刀川が知っているままの祖父の姿だった。懐かしい。寂しくないかと言われれば嘘になるが、それ以上に祖父にまた会いに来ることが出来て凛は嬉しかった。
太刀川と祖父と竹刀を振ることが大好きだった。…いや、凛は何より、太刀川と祖父が大好きだったのだ。例え、竹刀を振るってなかったとしても凛は二人と過ごす時間が大好きで、宝物だった。

またその時間を過ごせるなんて思っていなかった。

「俺、強くなったぜ。今なら本気の爺さんにも負けないかも」
「あ、そんなこと言ったらお爺ちゃんにボコボコにされるよ?」
「結局爺さんには勝ち逃げされたからな~」
「ふふ、お爺ちゃん強いでしょ」

凛の言葉に太刀川は懐かしそうに微笑む。凛はいつもこうだった。太刀川には敵わないくせに、そんな太刀川が祖父に敵わないと見るや否やまるで自分のことのように誇らしげに笑うのだ。太刀川はそれが悔しくて、だけど楽しかった。
凛の祖父は本当に強かった。今なら良い勝負が出来るだろうという自信はあるが、結局一度も勝てなかったという思いが太刀川の中では強くあり、凛の祖父と忍田は太刀川にとって強く憧れの師匠であることは間違いなかった。

「でも、慶ちゃんも強いよ。二人とも強くて、格好良くて、……大好きだよ、本当に」

大好きだった祖父。大好きな太刀川。二人に真っ直ぐな思いを伝えると、太刀川に優しく名前を呼ばれた。なに?と問えばその唇に太刀川の唇が重ねられる。数秒重ねるだけのキスをして、太刀川は満足そうに唇を離した。

「爺さん。俺、凛と結婚する。幸せにするから安心しろよな」
「……慶ちゃん」

太刀川が祖父にそう伝えると、凛の脳裏に昔のことが蘇った。



「慶。おまえ、もしかして凛のことが好きとか言わんよな?」
「なんで?別に好きだけど」
「わしより弱いやつのところに凛は嫁にはやらんぞ!」
「なんだよそれ。嫁とかは全然興味ないって」

そんな祖父と太刀川の話をこっそり聞いていた当時の凛はその日はすこぶる機嫌が悪かった。別に太刀川が自分のことをお嫁さんにしてくれなくても構わないというのに、何故かフラれたような気がして面白くなったのだ。
凛はやっぱり、ずっと太刀川が好きだったのかもしれない。そうでもなければ人が頑張って作ったチョコを普通。と称した男のために腕を磨いて毎年手作りチョコを渡して反応を見たり、用事があろうと太刀川が祖父の元に訪れれば太刀川を何よりも優先したりはしないだろう。全く。自分の恋心に気付けない昔の鈍感な自分に呆れてしまう。
そして、あんなことを太刀川に聞いていた祖父は凛よりも先に凛の恋心に気付いていたのかもしれない。どこまでも祖父には敵わないものだと笑みが漏れると、それと同時に太刀川の珍しい声が響いた。

「いてっ!」
「え?」

どうしたのかと思えば、仏壇の横に立てかけてあった竹刀が太刀川に向けて倒れてきたのだ。固定してあるわけではないため、そんなこともあるのかもしれない。しかし部屋は締め切られていて風などはなく、地震だって起こったわけではなかった。なのに祖父の竹刀は太刀川に向かって倒れてきた。

「……ぷっ、あははっ!」
「はは!ったく。また一本取られたな。爺さん」

そう言って太刀川は自分に倒れてきた竹刀を拾い上げると、優しい手つきで祖父の仏壇の横へと返してこれからは俺が守るって。と照れくさいことを祖父に誓う。
太刀川からの報告だけでは祖父は心配なのかもしれないと思い、凛は太刀川の横に移動して祖父の竹刀に優しく触れた。

「お爺ちゃん。私、慶ちゃんと結婚する。慶ちゃんのこと……愛しているから」

凛の言葉に太刀川は嬉しそうに破顔する。きっと凛も同じ表情をしていた。
祖父の道場で出会った凛と太刀川。それこそ、祖父が剣道を教えていなければ出会うこともなかったであろう。凛と太刀川が出会えたのは間違いなく祖父のおかげだった。
そんな太刀川は祖父の最愛の孫である凛を近界から助け出し、そして今は幸せを与えている。凛の顔を見れば聞かずとも分かることであった。

それから竹刀が倒れてくることはもうなかった。





ピピピッ、という聞きなれた機械音に意識が浮上したものの、まだこの微睡の中にいたいという気持ちが勝ちその音を無視していると太刀川の腕の中で眠っていた相手がもぞもぞと動いてその機械音を止める。そいつはそのまま起き上がるとふぁ~と可愛らしい欠伸をしながら体を伸ばし、ベッドから降りようとするので太刀川は逃すまいと後ろから抱きついた。

「ん~?おはよう慶ちゃん。朝ごはん作るから離して~」
「…凛がいないと……さむい…」
「寒い、じゃなくて起きるの。今日九時から会議でしょ?あんまゆっくり出来ないよ~」

そう言いながら、凛は太刀川の頭を撫でる。その左手の薬指に光るものを満足気に眺めて、確かに遅刻したらまずいと思い太刀川は温もりを残すベッドに名残惜しさを残しつつ上体を起こす。ふと。自分の左手の薬指にも凛とお揃いのものが嵌っていることを確認して盛大ににやけてしまう。

「嬉しそうな顔」
「マジで嬉しいからな」

太刀川があまりにも嬉しそうな顔でそう伝えてくるので凛は私もだよ。と頬を染めて嬉しそうに笑った。そしてどちらともなく唇を重ねた。もう慣れきってしまったものだが飽きることはない。
この気持ちは三年前に思いが通じ合ってから変わることはなく、きっとこの先も変わることがないのだろうと凛は根拠のない自信に微笑む。

太刀川と再会した時、あまりにも変わっていなかった太刀川と変わってしまった自分との対比に凛は苦しんだ。しかし、変わらないものは確かにあった。自分は太刀川のことがずっと好きで、聞けば太刀川もずっと凛のことを好きでいてくれたのだと言う。それだけで十分だった。
この先きっと、凛も太刀川も変わっていくことはあるだろう。それでも、太刀川が隣にいてくれる。それだけが変わらなければ凛は他には何もいらなかった。

「あ~」
「どうした?」
「幸せだなって思って」

凛の言葉に太刀川はふはっ、と吹き出して俺も。と嬉しそうに破顔する。その笑顔に凛は信じられないほどの多幸感を抱く。
今日も明日もその先も。凛は太刀川慶のことを愛している。
自分にも確かに変わらないものが出来たと凛は満足気に微笑むのだった。














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