動揺


この部屋で生活をするようになってから大分経った。丸一日この部屋で過ごすのは週に一度くらいで、大体は誰かしらに呼ばれて研究室やエンジニア室などに足を運ぶ毎日。人使いが荒いかと言えばそんなことは全然なく。むしろ衣食住を世話になっている身としては申し訳ないほど凛は言うなれば楽をさせてもらっていた。
部屋から連れ出されるのも大きな用事であることは少なく、きっと凛のことを気遣って部屋から連れ出す口実を作っているのも察しがつく。本当にこの国の人間はお人好しだと思う。自分もそんな国で生まれ育ったはずなのだが、九年間擦り込まれた感性はそう変わるものではない。与えてこられなかった九年間分の優しさを一気に浴びているようで、凛の心は揺れていた。自分はこの先、どうすべきかと。

──凛、こっちで生きたほうがいいよ。

おれのサイドエフェクトがそう言っていると、珍しいサイドエフェクトをその身に宿している迅に言われた言葉。彼がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。こんな変な嘘を吐く理由はないと思う。が、一応太刀川に確認してもいいかもしれない。凛としては迅のサイドエフェクトが本当でも嘘でも正直どちらでもいいというのが本音なのだが。

「ああ、それは本当だな」
「わお。私にバラしてもいいの?」
「迅が言ったなら俺が止めても意味ないだろ」

いつもよりも早い時間に部屋に訪れた太刀川と他愛のない話をして、隙を見計らって迅のサイドエフェクトのことを聞けば太刀川は即答する。太刀川が隠すことはないかと思ったけれど、彼らはもう少し迅のサイドエフェクトを大切に扱ったほうがいいと思う。未来予知のサイドエフェクトなんて、近界で誘拐されれば一生鎖で繋がれる人生を送ることになるのは間違いないほど希少価値があるのだから。心配だな。
うーん、と眉を顰める凛に太刀川は迅のサイドエフェクトが気になるのか?と聞いてくる。気になると言えば気になる。

「慶ちゃん、迅くんのことちゃんと守ってあげないとダメだよ」
「は?」
「誘拐されたら大変だよ。サイドエフェクト持ちは出来る限り人にはバラさないほうがいいと思う…ってまあ、この国なら大丈夫なのかなぁ」

サイドエフェクトというものを凛は近界で初めて知った。この国では馴染みのないものだったからだ。ボーダー、そしてトリオンという仕組みについて知っている者しかサイドエフェクトのことは信じないのかもしれない。それならそのほうがいい。あんな思い、迅にはしてほしくない。

「……くっ、ははは!」
「えっ、な、なに?」
「おま、……っ、迅にそれ言ったら俺、首跳ね飛ばされんぞ」

あー腹いてーと太刀川は目尻に涙を滲ませながら本気で笑っている。
凛としては割と本気で迅の心配をして出た言葉だったのだが、言われてみれば自分と同じ年頃の男に守られるのは迅も本意ではないだろう。それに、太刀川から見ても迅の実力は確かだと聞いていたため、杞憂だったかもしれないと、太刀川に釣られて笑いを漏らせば太刀川は楽しそうに笑ったまま凛の顔を覗き込んでくる。

「どうせ守るなら迅じゃなくておまえ守るわ」
「え?」
「あ~でもおまえもそういうの嫌がりそうだよな」

私弱くないしとか言うだろおまえ。と太刀川は楽しそうな表情のまま続けるが凛は面食らったような表情を作っていた。
守る、なんて。そんな言葉を言われたのはいつ振りだろう。いや、言われるだけならあったかもしれない。守ってやるから代わりにとか。俺の愛人になったら匿ってやるとか。その言葉の延長線上には必ず見返りを求められた。
だけど太刀川は見返りを求める感じはなく、まるで本心から言っているようで。調子が狂う。

「…慶ちゃん、いつもそういう風に女の子口説いてるんだ?」

もし相手が自分でなければ大成功だろう。
太刀川は良い男だと思う。良い男に成長したと、再会した時も思ったほどに。実力は確かであり、物腰も柔らかく、何よりこの男は優しい。さぞかし女に人気があるのだろう。確認しなくても分かる。
凛の言葉に太刀川は少しだけ目を丸くして、面白そうにその目を細めて先程とは少し違う笑みを浮かべた。

「へぇ。口説かれたと思ったのか、凛」

先程とは打って変わって太刀川は男の目を向けてくる。凛は太刀川が向けたこの目の意味を確かに知っていた。太刀川がこの目を自分に向けたのは初めてだったけれど。
この目をした相手を凛は殺してきたのだ。これは自分を好意的に思っている目だ。しかし、太刀川と彼らが違うのは邪な感情が含まれていないことだった。

三番目のボスに飼われた時、試しにと言ってボスは凛を抱いた。凛はまたかとうんざりしていた。二番目の飼い主のところで性接待を行うことに疲れ果てた凛は、自分に確かに欲情しているボスを利用することに決め、ボス以外に抱かれたくないと媚びれば気を良くしたボスは凛が使えるうちはその申し出を許してくれた。力を持つ男であったため、凛に無理矢理関係を迫る輩は殺したのち、彼の力で闇に葬ることが出来た。
レヴォンで活動する輩でボスを知らない者はおらず、そのボスのお気に入りとして凛のことも徐々に知られていくことになった。凛を襲おうとした者は問答無用で殺していたため、凛に手を出そうとする者はいなくなり、レヴォンでの生活は幾分楽なものになった。ただ、人間としての良心は捨て去らなければいけなかったけど。
そんなものを残していたところで、強姦され、調教され、踏み躙られてきたのだ。捨ててしまったほうが自分の身も心も守れた。

そんな自分の考えに凛は乾いた声を漏らす。太刀川がその目を向けた瞬間、凛は太刀川もボスのように利用出来てしまうと過ってしまったからだ。
結局、自分はこのようにしか生きられないのかもしれない。自分に良くしてくれる人を、損得感情でしか見れない、浅ましい女。
迅はこっちで生きたほうがいいと言ってくれたけれど、この優しい国では捨てたはずの良心が痛むのだ。優しくされればされるほど、それを利用しようと考える思考回路に反吐が出る。

「だーめ。お仕事モード入っちゃうでしょ。私、慶ちゃんとはビジネスで付き合いたくないの」
「なんだそれ。そんなモード入んなよ」
「残念~こういう雰囲気は利用しかしてこなかったんで」

太刀川がどういう意図でその目を自分に向けたのかは分からない。嫌われてはいないと思う。だけど、そこまで自惚れることも出来ない。
凛は太刀川とそういう関係になりたくなかった。必要に迫られれば誰とでもそういう関係にはなれた。それでも、太刀川とだけは嫌だった。だから、その目を向けるのはやめてほしい。その目は自分なんかではなく、それこそ月見のような綺麗な人に向けるべきなのだから。

「なら俺が覆してやるよ」
「なにを?」
「利用しかしてこなかったんだろ。そんな損得感情抜きでこういう雰囲気にしてやる」

太刀川の予想外の言葉に凛はぽかん、と口を開けて少しの間何も言えずにいた。
太刀川は、何を言っているのだろう。というか、こういう雰囲気に再びなりたいと本気で思っているのだろうか。普通、幼馴染とこんな変な雰囲気になったら気まずいものだろう。だから凛は敢えて明るく拒否したというのに、何故か太刀川は楽しそうなのだ。新しい目標が出来た時に見せる昔と変わらない少し悪い笑顔を浮かべて。
本当に、敵わない。

「あっはは!も~相変わらずだなぁ。じゃあ楽しみにしてるね」
「おう、楽しみにしとけ」

凛は所謂こういう雰囲気が嫌いだ。その先にはあの行為が待っていることが常だったから。
身の毛もよだつようなあの雰囲気を、太刀川は覆せる日が本当に来るのだろうか。期待はしないでおこうと目を伏せると、太刀川はさてと。と持ってきていた紙袋からタッパーを取り出す。

「小腹も空いたし、これ食おうぜ~」
「…え!これ、もしかしておばさんの手作り?」
「はっはっは、おまえこれ好きだったもんな。頼んで作ってもらったんだよ」

太刀川が持ってきたタッパーの中にはきなこ餅が入っている。どうやら太刀川の母の手作りらしいそれに凛は目を輝かせた。太刀川が言った通り、凛はこれが大好物だったからだ。
それこそ、昔は太刀川の持ってきたこのきなこ餅の個数を賭けて稽古に励んだこともあるほどに。大体は太刀川が勝ち越すのだが、祖父の一声で結局は同じ数を食べさせてもらっていたという微笑ましい光景も思い返され凛は頬が自然に緩んでしまう。そんな凛の様子を太刀川もまた満足そうに見つめ、食べようぜと促してきた。
一口頬張ると、絶妙な甘さが口いっぱいに広がる。懐かしい味に凛はつい声を上げてしまう。

「美味しい!」
「俺も久々に食ったけどうまいな~」
「最近はおばさんに作ってもらってないの?」
「あー、俺大学生になってから一人暮らし始めたからな」

太刀川の言葉になるほど、と凛は相槌を打つ。一緒に暮らしていないのなら確かに以前よりは食べる頻度は減るだろう。太刀川が一人暮らし、という言葉にも凛は時の流れを感じた。しかし、太刀川の母の作るきなこ餅は記憶の中のままで、変わらないものも確かにあるんだなと嬉しくなってしまう。
ふと。凛にある疑問が浮かびそのまま口にする。

「あれ。それなら、わざわざ実家に帰って作ってもらったの?」
「おー。昨日連絡はしておいたけどな」
「慶ちゃんが食べたかったから?」
「まあそれもあるけど。おまえに食べさせたかったのが本命」

これ好きだったもんな。と太刀川は息を吸うように凛が嬉しくなるようなことを言ってくる。
やっと空気が戻ったというのに、太刀川が変なことを言うせいでむず痒く、返答に困り間を持たせるようにきなこ餅を頬張れば太刀川はふっ、と笑う。

「……なに」
「いや?」

にやにやと。なんだか意地の悪い笑みを浮かべながら太刀川は凛のことを見つめてくる。居心地が悪いのに、そこまで嫌ではない変な空気だ。
太刀川の笑顔の意味を追求すればするほど凛 に不利になる気がしたため追求することを諦め、きなこ餅に集中すれば太刀川もうめー、と人の気も知らずにきなこ餅を頬張っていく。その口元がだらしなくきなこで汚れていることに凛は笑みを溢した。

「慶ちゃん、口の周りきなこだらけだよ」
「まじ?あー、髭にもついてんな」
「もー、じっとしてて」

そう言って立ち上がり、凛は太刀川の横に腰を下ろしてティッシュで太刀川の口元を拭う。
太刀川が言った通り髭にもかなりきなこがついてしまっている。後で顔を洗ったほうが早いかもしれない。そう提案しようと思い、慶ちゃんと声をかけようとすれば凛の唇に太刀川の唇が重ねられた。

(え)

数秒後に唇は離され、太刀川は何事もなかったかのようにおまえ相変わらず世話焼きだな~なんて声をかけてくる。
なに、いまの。
太刀川の行動の意味が分からなくて固まっている凛と太刀川の目がパチリと合う。その瞬間、信じられないほど心臓が跳ねた気がして、思わず後ずさった拍子に机の上に乗っていたタッパーを落としてしまい、床にきなこが散らばってしまった。

「あー!!や、やばい!!」
「え、あ。ご、ごめん!」

太刀川の珍しい慌て振りに床に目をやるものの、床はなかなか悲惨な状況だ。タッパーの底に溜まっていたきなこが全て床に散らばってしまったのだから叫びたくもなるだろう。
ドッドッ、といまだにうるさい心臓をなんとか無視して、どうしようかな。と呟けばポンッと部屋にお馴染みの音が響く。ドアの外から聞こえてきたのは忍田の声であり、凛は忍田に頼んで掃除機を借りようと思いドアに向かえば後ろから太刀川に思い切り抱きつかれてしまった。

「ひゃあ!?な、なに!」
「まて!ダメだ、開けるな、頼む!」
「い、いや…忍田さん待ってるし…ひぁッ!慶ちゃん、くすぐった…!」
「慶?慶がいるのか?」
「いません!」
「いるじゃないか!何をしているんだ!?凛、無事か!?」

早く開けるんだ!と何やら鬼気迫る忍田の言葉に凛がドアのロックを解除すれば忍田の目の前に広がったのは凛に後ろから抱きつく太刀川の姿であり、慶!と叫ばれれば太刀川は凛から身を離し姿勢を正した。
太刀川が離れたことにほっとすれば、忍田はそんな凛を見て驚いたような声を上げる。

「凛、大丈夫か!?」
「え。ぜ、全然大丈夫ですけど…?」
「顔が真っ赤だぞ!熱があるかもしれない。もし具合が悪ければ医務室に、」
「ぶはっ!」

忍田の本気の心配に姿勢を正した太刀川が堪えきれんとばかりに吹き出す。何がおかしいんだ、慶。と割と低めの声で言われれば太刀川はいや、医務室には俺が連れて行きますよ。なんて。きっと凛の顔の赤い理由に心当たりのありすぎる張本人が言うのだから勘弁してほしかった。
キスなんて初めてじゃない。それこそあんな子供のようなキスではなく激しいものだって強要されたし、セックスだってしてきた。
なのに、思考が止まるほど驚いたのも、いまだに心臓が鳴り止まないのも、忍田に心配されるほど顔が熱いのも初めてだった。こんな、処女でもないのに。

「…?部屋が随分汚れて…これは、砂か?」
「あ、そうだ。ごめんなさい忍田さん。きなこを床に溢してしまって…」
「………きなこ?」
「凛、今すぐ医務室行こう。な?な!?」
「え。でも掃除機借り」
「慶」

今までと打って変わってにこりと忍田は綺麗な笑顔を浮かべ、太刀川は珍しく顔色を悪くする。曰く、太刀川は基地内にきなこを溢しすぎたという前科があり、そのせいで基地内できなこを食べることを禁止されていたそうだ。
太刀川は自分のためにきなこ餅を持ってきてくれたんです。と庇うものの、持ってきた理由は納得出来るが先に確認を取れとぐうの音も出ない正論を告げられ、忍田の怒りが太刀川に落ちたのは言うまでもない。

そういえば。迅は明日怒られるよ、と言っていたが誰が誰に怒られるとは教えてくれなかった。
きっと彼のサイドエフェクトが告げていたのはこの光景だろう。凄いサイドエフェクトだな、と凛は一人頷くのであった。






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