嫉妬



凛はボーダーで生活するに当たってエンジニア、そして研究部に呼ばれることが一番多かった。エンジニアにはこの構造を見たことあるか、トリガーに記載されている文字が読めるかどうかとよく聞かれ、研究部はその延長のように近界で使われていた言葉や文字を聞かれることが多かった。
九年もの間、近界で生きてきた凛は流石に文字や言葉は理解することができ、それはボーダーに大いに喜ばれた。衣食住を世話になってる身としては役に立てて良かったと内心ほっとした。使い道があるうちは無碍にされることはないだろう。…この国の人間は、向こうのように損得だけで凛を切り捨てるようなことをしない気もしなくはないが、慢心は良くない。

カタカタ、と。凛が話したことやエンジニアからの報告をまとめるためのキーボードの音が部屋に響く。凛はその音をソファーに寝っ転がりながら聞いているとカタッ、と音が止んだ。

「まだ会いに行くつもりはないのか」

その言葉に目線を向ければ声の主、鬼怒田と目が合う。凛が何も言わずににこりと笑えば鬼怒田は半ば諦めたように溜息を吐いた。
鬼怒田とのこの問答は今に始まったことではない。それこそ最初に尋問された時から、鬼怒田は凛のことを気にしていた。

不運にも近界に誘拐された少女。そして、奇跡的に帰還を果たしたというのに家族に生存を知らせない凛を鬼怒田は善しとしなかったが、凛の意思を尊重してはくれた。
しかし会う度に気は変わったか?とか。会いに行く気はないのか。と聞いてくるため凛はのらりくらりとそれを躱していた。鬼怒田の言葉に強制力はなく、ただただ凛のことを重んじて尋ねているとことは分かっていたため、凛も鬼怒田の気持ちを無碍にすることは出来ず躱すことしか出来なかったのだ。

「無理強いはせん。だが、後悔はせんようにな」
「鬼怒田さんは、奥さんと娘さんに会わないの?」

鬼怒田には別れた妻と娘がいるらしい。漏らしたのは太刀川であり、鬼怒田もそれを察して太刀川の奴め、余計なことを。とぼやいていたがどうやら本当らしい。凛に家族と会えと言うのならば、鬼怒田も同じではないのだろうか。それこそ、娘は凛よりも歳下だと言うのだ。いくら思春期といえど父が側にいないのは寂しいはずだ。
凛のそんな言葉に、鬼怒田は凛から視線を逸らしてどこか寂しげに呟く。

「わしはわしから二人を突き離したからな。それこそ合わせる顔がない」

鬼怒田はきっと優しい人なのだろう。いや、凛に対する態度からそれは分かっていたことなのだが。
理由は定かではないが、別れを切り出したのは鬼怒田からなのかもしれないと凛は思った。人の家の事情など知ったことではないが、その表情に寂しさこそ感じるものの憎悪はない。今でも二人のことを想っている表情だ。凛が両親に会いたくないのと同じように、鬼怒田にも二人を突き離さなければならない理由があったのだろう。
鬼怒田はもしかしたら、家族に会いたいのかもしれない。でも、会えないのだろう。だからこそ、自分が選べない道を選べと凛に言うのだ。その想いを託すように。

「優しいね、鬼怒田さん。いつも私のこと気にしてくれてる」
「やかましい。…もし、気が変わったらわしでも城戸司令でも、誰でもいいから上の者に言うといい。どんな手を使っても両親に会わせてやる」

それは間違いなく善意からの言葉だった。
鬼怒田は言葉こそ優しくないものが多いが、その本質は純粋に優しく、凛のことを見かければいつも気にかけてくれた。まるで娘に接するように。
鬼怒田は良い父親なのだと思う。しかし妻と娘を突き離してしまったのは事実であり、全てを捨ててでもやらなければならないことがあったのだろう。目の下に作った隈から、それがこの組織に関するものなのだということは察することは出来たが凛は敢えて口にはしなかった。
凛には鬼怒田ような壮大な理由と覚悟もなく、ただただ嫌だからという私情で両親との再会を拒んでいる。鬼怒田と話しているとそんな自分の私情がちっぽけなものに感じられたが、どうしても腹を括ることが出来ずに黙っていると鬼怒田は紙パックのジュースを凛に渡して今日はここまでだ。また頼む。と話を切り上げた。
言葉通り、鬼怒田はいつも無理強いはしない。その優しさに甘えて、そして凛はいつもその話題から最終的には逃げるのだった。





この基地は似たような構造で出来ているものの、凛は一度歩いた道を忘れることはなかった。これも近界で取得せざる負えなかった特技であるが、日常的に使えるものであったため良い特技だと自負している。
うろうろと基地内を彷徨っているところが見つかっても迷っちゃった。と言えば見逃されることが殆どであるため、凛はこの基地内でよく迷子になっていた。もちろん故意だが咎められたことはなく、相変わらず人の良い組織だなとこの境遇に甘え、凛は迷子を繰り返していた。
気の向くまま歩いていると見知った姿を発見する。驚かしてやろうかと悪戯の虫が鳴き、凛はゆっくりとその男の背後に回って、そして驚かそうと思った瞬間。その男は凛のほうへと振り返った。

「わ、わぁ!?」
「お?珍しいな、出歩いてんの」

驚かそうと思った凛のほうが太刀川の反応に驚いてしまうという痴態を繰り広げ、凛が少し恥ずかしそうに眉を顰めれば太刀川はそんなことは気にせずに暇ならランク戦でもやるか?と凛を誘ってくる。
太刀川はトリオン体での戦闘が好きらしく、その実力はこの組織の中でも上から数えたほうが早いほどだと冬島に教えてもらった。凛はこれでも近界で仕事を難なくこなせる実力を誇っていたというのに太刀川には敵わなかったが冬島の言葉で合点がいった。太刀川の実力はそれこそ近界でも当然のように通用するのだろう。

「慶ちゃんは時間あるの?」
「夜防衛任務だから、それまでおまえのとこ行こうかと思ってたとこ」
「へぇ~じゃあランク戦…」
「あら、太刀川くん」

名前を呼ばれた太刀川が振り返るとそこには初めて見る女の姿があった。

「こんなところにいたの。忍田本部長が…」

女は太刀川のすぐ側にいた凛に気付いて一度話を切り、凛へと軽く会釈をして微笑む。凛もそれに習うように会釈をするとふふ、と優しげな声が聞こえてきた。

「初めまして。私は月見蓮。お取り込み中だったかしら」
「あ、いえ。はじめまして。斎藤、凛です」

凛に気を使ってくれたのだろう。太刀川との会話を一旦やめて自己紹介をしてくれた月見に凛は全然大丈夫です、どうぞ。と伝えれば月見はそう?と言って太刀川と話を始めた。
素直に凄く綺麗な人だと思った。それと同時にその名前の響きに凛は聞き覚えがあった。月見の制服、と。それは太刀川の幼馴染みの名前だ。
月見は赤いカーディガンに品の良いスカート、その両方を見事に着こなしている。凛は小学生の頃に誘拐されてしまったため、制服というものを着たことがなかった。しかし、自分が月見のようにあの制服を着こなすのは無理だろう。それほどまでに、気品を感じさせる制服は彼女によく似合っていた。

(……ふぅん)

気品を感じさせるのは制服だけではない。むしろ、月見自身から感じるものであった。
太刀川と話している月見は美しく、声も穏やかで、姿勢だって良いし、なんなら良い匂いもする。彼女を表す言葉は綺麗、が最も的を射ているだろう。
凛と月見が同じ部分は太刀川の幼馴染み、という一点だけ。同じという言葉を用いるのすら烏滸がましく思えて凛は小さく首を振る。
ふと。凛は太刀川にはこういう落ち着いた美人が似合うのではないかと勘繰ってしまう。彼女なら幼い頃からの太刀川のことだってよく知っているわけだし、あまり先のことを考えない太刀川には手綱を握れるような器量の人が似合うと思ってしまった。

そう。
間違いなく自分とは正反対のような人が。

「凛?」

太刀川に名前を呼ばれてハッと考え事をしていた凛は反応に遅れてしまう。それでも変な素振りはせずになに?と聞けば太刀川は苦い顔をしてがしがしと頭を掻く。

「悪い。忍田さんからの頼まれ事忘れてたわ…」

太刀川は申し訳なさそうに、というよりはランク戦をやる気だったのか口を尖らせながらそう伝えてくる。
どうやら月見は忍田に言われて太刀川を探していたようだ。忍田からも信頼されている彼女はきっと優秀な人なのだろう。

「あ。私も鬼怒田さんに呼ばれてたんだった」

咄嗟に凛もそんな嘘を吐いてしまう。
鬼怒田に呼ばれていたのは本当だ。しかしその要件はもう終わってしまい、その後に太刀川と合流したのだから今ここで太刀川に言うことではなかったが、なんとなく。強がりというか。
凛としても何故こんな意味のない嘘を吐いたのかはよく分からなかったが、一人取り残されるのがどこか面白くなくてつい口から出てしまったのだ。

「そうなのか?あー…防衛任務終わるの結構遅くなるな…」
「ランク戦はお預けだね」
「うっ…まあそれもだけど。おまえ、飯は?」

太刀川に言われて昼食がまだだったことを思い出す。特に腹は空いていなかったため問題はなかったが、変に太刀川に気を使わせるのも良くないだろう。

「もう食べたよ」
「一人で?」
「えーっと、鬼怒田さんと」
「…ふーん」

凛の言葉に太刀川は曖昧な相槌を打つ。まじまじと顔を凝視されるので再びなに?と言えば太刀川はふっ、笑って別に。と言う。
相変わらず太刀川は分かりにくい。例えばランク戦を承諾した時は凄く楽しそうにしたりと、分かりやすい時も確かにあるのだけど基本的に太刀川の本心は分かりにくい。
それこそ何故今、そんなに楽しそうに笑っているのか凛には全然分からなかった。

「ごめんなさいね、斎藤さん。太刀川くんを借りても大丈夫かしら…?」

それまで黙って太刀川と凛のやり取りを見ていた月見が腕時計に目をやった後、申し訳なさそうに凛に尋ねてくる。
そもそも、太刀川は凛のものではない。確かに面倒を見てもらっている自覚はあるし感謝もしているが、何よりもボーダーの。そして太刀川自身の都合を優先するのは当たり前だと思っている。その心に嘘はない。本当にないのに、少しだけ胸がきゅ、としたことに凛は自分の傲慢さに呆れ果てた。
そんな自分を心の中で叱咤し、いつものように害のない笑顔を浮かべて凛は明るい声色で返事をする。

「全然大丈夫です!慶ちゃ…太刀川くんをよろしくお願いします~」



じゃ、私も失礼しますね。そう言ってなんだか嘘臭い笑顔を浮かべた凛は太刀川と月見を残してこの場を後にした。
太刀川には疑問があった。城戸や忍田という上層部の面子に凛は本心が分かりにくいと最初の頃に言われたことだ。
確かに上層部を前にした凛に対しては猫被ってんな、と太刀川は思っていたが太刀川にとって凛はなんというか。

「分かりやす…」

なんだ太刀川くんって。初めて言われた。
それに見え見えの嘘まで吐くし、凛は相当参っているらしい。鬼怒田に呼ばれているのは本当かもしれないが、あの様子だと昼食を食べたというのはおそらく嘘だろう。
相変わらず変なところで意地を張る性格も、嘘をつく時の脇の甘さも変わっていない。あいつは自分のことを変わった変わったというくせに、根本の部分が何も変わってないことに本当に気付いていないのだろうか。太刀川はそんな凛のことを気に入っているため教える気はないのだが。

ったく。と言いながら太刀川は端末を取り出す。午前中にランク戦をやった相手にメッセージを送ろうとすれば、先にあちらからメッセージが送られてきた。このタイミングでこんなことを送ってくるということはどうやらあいつには視えていたのだろう。
口元に笑みを浮かべてそのメッセージに返信をして端末を仕舞えば、月見もふふっと楽しそうに笑う。

「本当、分かりやすいわね」

凛の様子がおかしくなったのは間違いなく太刀川のもう一人の幼馴染み──月見蓮が姿を現してからだった。
以前、月見の。否、月見の制服の話であったのだが、その話をした時も凛は今回と同じような反応をした。どういう感情であれ、凛は間違いなく月見に対して。

「いや、月見。おまえ間違いなく勘違いされてんぞ?いいのかよ」
「別に構わないわよ。事実無根だもの」
「…おまえ難しい言葉使うよな」
「あら、ごめんなさい。分かりやすく言うなら絶対ありえない、ってとこかしら」

ね?と楽しそうに首を傾げる月見に太刀川は吹き出した。
太刀川自身は全く気にしないのだが、今までその一刀両断っぷりでどれだけの男を泣かせたことか。そんな月見の返答に太刀川は気を良くしたように笑う。

「ははっ、そりゃそうだ」
「私より太刀川くんのほうが困るでしょう?」

早く誤解を解いてあげなさい、可哀想よ。と余裕のある笑みを浮かべるもう一人の幼馴染みに太刀川は色んな意味で敵わないなと肩をすくめるのだった。








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