夜道と友人と


凛の毎日はあまり変わり映えのないものである。朝起きて、準備を終えて仕事に向かい、仕事を終え帰宅して、休息をとって寝る。簡易的に言えばこれで終了である。社会人なんてこんなものだろう、と思わなくもないが味気ないと感じることもある。そのため駅までの三十分の道のりと、休日の買い物が凛にとっての癒しでありストレス解消法であった。

学生時代の記憶を失ってしまった凛に友人と呼べる存在はいなかった。入院した時に誰も見舞いに来なかったのが答えだろう。あまり深く考えないようにはしている。悲しいので。
そして事故の時に紛失してしまったのか端末も新しいものになっており、今は祖父母と仕事先の相手の連絡先しか入っていない。仕事先の人達は皆良い人だが、年齢が一回り以上上である。若い子達は皆辞めて三門市から出て行ってしまったそうだ。
そのため休みの日は友人と遊ぶということもない。もう少しコミュニティを広げるのもありかもしれないが、まあまずはこの生活にもう少し慣れようと今日も仕事を終え電車を降りる。いつものように駅のベンチに腰を下ろし、仕事用の鞄とは別の小さな手提げから運動靴を取り出して履き替える。流石に三十分かかる道をヒールで歩くのは足に負担がかかるため、一日目の失敗を経てこのスタイルを確立したのである。
よし、と立ち上がり駅から出ていつも通りの道を歩こうとすると、後ろからトントンッと肩を叩かれる。

「ん?」

振り返るとそこには知らない男が立っていた。

「あの、これ…落としましたよ」
「え?」

男が差し出してきたのは見覚えのないハンカチだった。落としてしまったのかと確認するまでもなく自分のものではない。凛は首を横に振って男に返事をした。

「すみません。私のじゃないみたいです」
「本当ですか?」

思いがけない答えにえっ、と声が漏れてしまう。本当ですか、とは。本当も何も凛は確かに自分のものではないと言ったのに何故か男はハンカチを差し出したままである。日が暮れてしまっていることもあり、凛は不気味さを覚える。

「えっと、本当に私のじゃないです。失礼します」

そう言って頭を下げ、凛は逃げるようにして駅を後にした。少し怖かったな。こんな日は寄り道もせず真っ直ぐ帰ろうと早歩きで家へと向かう。駅から離れれば離れるほど、警戒区域の近い凛の家の周りには人の影は無くなっていく。大体十五分ほど歩けば残りの十五分は無人であることが多い。最初こそ行きは良いものの帰りは少し怖いな、と思っていたが今となっては慣れてしまい怖いと思うことはなくなっていた。──のだが。

凛が足を止めると、もう一つの足音も止まる。駅から十五分ほど歩いたため、いつものように人の気配はなかった。凛の後ろから以外は。ゆっくりと後ろを振り向くと、先程凛にハンカチを差し出していた男が足を止めて凛のことを見ている。にやにやと、正直言って気持ちの悪い笑顔を浮かべながら。
尾けられているのにはなんとなく気付いていたが、偶然同じ道を使っているのかもしれないと凛は自分に言い聞かせていた。しかし、凛が足を止めると凛のことを追い抜かすこともなく男も足を止めたことでそれが気のせいではないことに気付いた。
どうしよう。駅に引き返すにしても、男の横を通り抜けて行くのが怖い。幸い凛は運動靴を履いている。逃げよう。そう心に決めて走り出すと後ろの男も凛に続くように走り出した。

(こ、怖い…!)

全速力で走っているものの、凛は退院してからこんな風に走ったことはなく、男は余裕で凛の後をついて来た。これは、かなりまずいのでは。と思った矢先、足がもつれて盛大に転んでしまった。鞄が投げ出され、膝が痛む。ズボンだったのが幸いだったが、膝の部分が破れてしまうほど勢いよく転んでしまったようだ。後ろの足音はゆっくりになったものの止まらない。どうすれば、とパニックになってると凛の投げ出した鞄を拾い、そのまま立ち上がることの出来ない凛の前まで来てしゃがみ込む別の男の姿が目に入った。

「あーあー。派手に転んだね」
「あ、じ、迅…!」
「駅で待ってなかったのか?遅くなってごめんな」

迅の言葉の意味が分からず混乱していると、迅は小さな声でいいから、おれに合わせて。と言う。迅は後ろの男の存在にどうやら気付いてるみたいだ。それもそのはず、男は突然現れた迅の姿に混乱したように歩みを止めたのだから。
というか。迅、本当に突然現れなかった…?

「今日は凛の家に行く約束だったもんな」
「え?あ、う、うん。そうだね」
「じゃあ行こうか。歩ける?抱っこするか?」
「い、いいよ!歩けるってば」

凛がそう返事をすると迅は優しく微笑んで手を差し出してくれる。その仕草にドキッ、としたものの今は惚けている場合でもないだろう。迅の手を取って立ち上がると、凛を尾けていた男は何も言わずに来た道を足早に帰って行った。
その事実に安堵の溜息を吐けば、迅はどこか凛と違った溜息を吐く。

「…あー、次来るのも確定か」
「確定?」
「こっちの話。ていうか凛、足本当に痛いでしょ。遠慮しないでいいよ。おんぶしよっか?」
「ありがと。でも大丈夫、歩けるよ。それよりも、もし良かったら家まで一緒に歩いてほしいな」

ちょっと怖くて。と言えば迅は少し眉を顰める。こんな時間に迅がここにいる理由なんて一つしかない。ここは警戒区域の近くなのだから、ボーダーの仕事か何かでたまたま通りかかったのだろう。迅が仕事で助かったとは思ったが、このまま家まで着いて来てもらっては迅の仕事に支障が出てしまうかもしれない。凛は自分の言葉を撤回しようとしたが、それよりも早く迅が口を開いた。

「じゃあ歩くの辛くなったらすぐ言いなよ」

そう言って迅は凛の隣へ立って帰らないの?と声をかけてくる。帰りたい、けど。

「いいの?」
「何が?」
「迅、仕事中じゃないの?」
「仕事?おれの仕事は二十二時から…」

そこまで言って何かに気付いたのか、迅はなるほど。と呟く。凛からすれば何がなるほど、なのかは分からず首を傾げると迅は優しく口角を上げる。

「いいよ。さっきの、怖かったな」
「…うん」

ありがとうとお礼を言って迅と残り十分ほどの道を歩く。膝は痛むものの、歩けないほどではない。もしスカートだったらもっと悲惨な状態になっていたかもしれなかったため、ズボンで通勤していて良かったと自分の判断を褒めた。

「あの男、知り合い?」
「ううん。今日初めて話しかけられて、なんか尾けられて…」
「やっぱり凛、引っ越したほうがいいよ。この辺は人気がなくて物騒だ」
「うーん、お金が貯まったら…?」

今の稼ぎと貯金では凛は三門市でずっと生活することは苦しかった。しかし迅の言うようにこの辺りは確かに人気が少ない。警戒区域の側であることは凛は何も気にしていなかったが、今日のようによく分からない男に尾けられては助けを求めるのも難しい。それこそ迅が通りかかってくれなければどうなっていたことか。考えるだけで怖いのが本音だ。

「ねえ、なんで凛はそこまでしてここに住んでるんだ?」
「え?ああ、私ね。実はボーダーが気になってて」
「…ボーダーが?」
「うん。でも採用試験は全部書類落ちしちゃって。それでも何か三門市でボーダーの力になれることはないかなって思ってこっちに来たんだ」

今のところはボーダーのために何も出来ていないため、果たしてこの選択は正しかったのかは分からない。それでも凛はボーダーの存在を自分の中から切り離せなかった。失くした記憶の中にもしかしたらボーダーの存在があるのかもしれないと思い、何回か思い出そうと試み頭痛に悩まされたのでそれもやめてしまった。
三門市に来てから、一般市民としてボーダーへの反応は良いものも悪いものも聞いてきた。ボーダーが褒められれば嬉しく、ボーダーが毛嫌いされていれば悲しかった。どうしてそう思うのかは分からない。でも、みんな一生懸命頑張ってるのにって──

「…いたたた、」
「足、痛む?」
「ううん、頭のほう。でももう治ったよ、大丈夫!」

凛は自分が多分ボーダーに何らかの関わりがあったと確信は持っていた。ボーダーのことを何か覚えていないかと考えれば酷い頭痛に襲われるからだ。もしかしたら記憶を失うきっかけになった事故はボーダーに巻き込まれたものだったのかもしれない。お爺ちゃんはボーダーのことを良く言わなかったから。それかもしかしたら、凛もボーダー隊員だったのかもしれない。
何にせよ、何も覚えていないのだ。思い出そうとすれば脳はそれを拒絶するように痛むのだから考えるだけ無駄だと悟り、過去よりも未来をどうするかと考えた結果、ボーダー関係の仕事には就けなかったため三門市で働くという選択をしたのだった。

「凛、ボーダーには関わらないほうがいい」

そんな凛の決意を迅は否定する。

「迅は、ボーダーなのに?」
「うん。おれはボーダーだよ。だから断言出来る。凛はボーダーに関わらずに、三門市から出て暮らしたほうがいいよ」

迅は意地悪ではなく、きっと善意で言っているのだろう。今の仕事に就く時も、面接で同じようなことを言われた。私が言うのもなんですが、わざわざ三門市で働くのは危険が伴いますよ。すぐに辞めてしまい、元の場所へ帰っていく人も多いんです、と。
警戒区域の側に住んでいる凛はこの街が常に戦っていることを知っている。それは朝でも昼でも夜でも。時間は決まっておらず、突然地鳴りや警報と共に始まる。好き好んでこの町に引っ越し、人気もなく戦いが側で行われている場所に住む凛は異様だとは理解している。が。

「やだ」

凛は迅の言葉を一刀両断した。
そんな凛の言葉に迅は目を丸くした後、ふはっと吹き出す。

「ははっ、……嫌なの?」 
「嫌だよ。だってそしたら迅と会えなくなるじゃん」

理由はそれだけではないのだが、今となっては最重要の一つの理由となったのはこれである。
凛の言葉に笑みを浮かべていた迅は、これまた信じられないと言った表情を浮かべる。迅は案外表情豊かなんだな、と思っていると迅は少し黙り込んでしまったので凛は少し気まずくなり、それに三門市は結構住みやすいし。とか、やっぱり家賃が破格なのも助かるんだよね。とか、言い訳のように続ける。
そんな凛の言葉は聞こえていなかったかのように、迅は随分と遅れた返事を口にする。

「………おれと会いたいの?」

その言葉にドキッと心臓が鳴る。
確かに凛はそう取れることを迅に言った。まるで告白でもしたような自分の言葉に今更ながら恥ずかしくなりこほん、と咳払いをして本心を口にする。

「恥ずかしながら、私、友達一人もいない…っていうか覚えてないんだよね。だからこうやって喋れるのは迅だけだもん。今日も会えて嬉しかった」

こんな風に一緒に歩いて帰ったり、一緒にオムライスを食べたり、他愛のない話をしたり。そんなことが出来る相手は凛にとって迅だけであった。職場の人も皆良い人達で恵まれているとは思っている。それでも、友人のような関係を築けているのは迅だけなのだ。
何より、迅と一緒にいるのは楽しい。怖い目にも遭ったけれど、それのおかげで今日こうして迅に会えたのは不幸中の幸いだと思えるほどには凛は迅と過ごす時間を気に入っていた。迅からすれば巻き込まれて迷惑だったかもしれないけど。

「………おれも、」

ぼそり、と迅が何かを呟く。
風の音であまりよく聞こえなかった言葉に首を傾げれば迅は目を細めて凛と視線を合わせた。

「なんでもない。はい、家に着いたよ」
「本当だ。今日は迅が一緒に歩いてくれたからあっという間だったな~」
「足、ちゃんと手当てしなよ。じゃあ、おれは行くから」

アパート前に到着し、迅は手を振ってこの場を後にしようとする。もう少し一緒にいたいな。そんな本音はこれ以上迷惑をかけるのも嫌だという思いに隠され、凛は迅の背中にこの場に似つかわしくないほどの声量で感謝の言葉を投げかける。

「迅、ありがとう!」

凛の声の大きさに迅は肩を震わし、一度振り返ると声大きいよ。と楽しそうに笑って今度こそ振り返らずにこの場を後にした。
その迅の笑顔をすごく好きだと思ったのと同時に、すごく切ない気持ちになり凛は鼻の奥がツン、と痛むのを半ば強引に無視した。

だって。
頭がすごく痛む気がしたから。



「慣れないトリガーはあんま使うもんじゃないな」

これを使いこなしている風間隊や他の隊員はすごいなと。迅は今日起こった出来事を無理矢理頭の隅にやるように呟くのだった。


prev * 5/12 * next
back
×
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -