空白だらけの人生


バタバタと部屋の中を走り回る音が響き渡り、当人が焦っているのは火を見るよりも明らかである。理由は至極簡単なもので、寝坊をしたからだ。
どうしても朝に弱い当人──斎藤凛はいくら目覚ましをかけてもちゃんと起きられた試しがない。さっさとシャワーを浴びてしまおう。朝ご飯は無理だな。そんなことを考えながらパジャマを投げ捨てるように脱げば、大きな傷跡を残す自分の体が鏡に写る。
その傷跡を見るといつも頭が痛んだ。今日もそれは変わらずズキンッと頭が痛み、軽い眩暈に襲われる。やってしまったと溜息を吐いて、凛は鏡から無理やり目線を逸らしてシャワーを浴びるのだった。

この傷跡を負ったのは一年前、らしい。らしいというのは凛はこの時のことをよく覚えていないからだ。
目が覚めた時には知らない天井が広がっていて、報せを受けた祖父と祖母が泣いて喜んでくれた。それをどこか他人事のように凛は見上げていたのが目を覚ましてからの最初の記憶。
医者が言うには凛は大きな事故に巻き込まれ半年間昏睡状態に陥っていたのだという。その際に両親も亡くしたのかと聞けば、両親は別の時に亡くなっていると祖母が辛そうに教えてくれた。
自分の両親の死のことなのに、凛は何も覚えていない。それどころか凛は最近のことが全く思い出せなかった。自分の名前も、祖父と祖母のことも、両親のことも覚えている。文字だって読めるし、簡単な勉強だって出来た。けれどそれだけだ。
凛はどのようにして事故に遭ったのか覚えていない。どうやら大学に通っていたらしいがそれも覚えておらず、昏睡状態の間に大学は退学させられていた。本来なら悲しむべきことかもしれないが、何も覚えていない大学に通う意味も見出せず、祖父母に余計なお金を使わせるくらいなら辞めたほうが良かったので結果オーライである。

その違和感に気付いたのはリハビリから帰る時だった。色々な患者の元に見舞いに来る友人の姿を見て、自分の見舞いに来るのは祖父と祖母だけである事に気付いた。
祖父と祖母が来てくれるだけでも幸せなことではあるが、自分には友人はいないのだろうか。ただの一人も?そんなことがあるのだろうか。あまり深く考えると悲しくなるため、凛は敢えて考えないことで自分の心を守ることにしたが、寂しかった。
事故の後遺症なのか、凛は昔のことを思い出そうとすると酷く頭が痛むようになった。それも尋常ではない痛み方である。
吐き気をも催し、酷い時は立っていられないほどにその痛みは凛を蝕む。中学の最初の頃までの記憶は鮮明に思い出せるのだが、それ以降の記憶は何も思い出せない。学校のこと、友人のこと。もしかしたら恋人もいたのかもしれない。そんなことを思い出そうとする度に頭が割れるように痛むのだが、思い出そうとしなければ頭痛はさほど酷くはない。何かを懐かしむ程度ならどうやら見逃してもらえるらしい。
そのため、凛はいつからか過去を思い出そうとすることを辞めた。今生きているのならそれでいい。そう切り替えてリハビリに励み、意識を取り戻してから半年後に凛は退院することとなった。

退院した時、凛は二十一歳だった。本来なら大学に通っている学生だったらしいが、今の凛は学生でもなく働いてもいないという、なんともいえない状態である。
祖父母は無理はしなくていいと言ってくれたが凛のほうが迷惑をかけるのが嫌だったのだ。幸い文字は読めるし知識として覚えているものもある。医者には部分的な記憶喪失と診断されたが、仕事を始めることは可能である程度の喪失だったのが幸いだ。
バイトでもしようかと思ったがこの歳になって祖父母に迷惑をかけ続けるのは気が引けたため、就職をしようと求人サイトを検索していると点けっぱなしのテレビに流れるCMに目を奪われた。

『街の平和を守る、環境防衛機関ボーダー!』

まるで戦隊モノのようなCMにアイドルグループのような美男美女が赤い服に身を包んでこれまた特撮モノの大型怪獣のようなモノと戦っている姿が写し出される。子供が見たら喜びそうなCMだな、と思うのと同時に久々に頭がズキリ、と痛んだ。そして、よく分からない焦燥感に襲われる。

「………?」

ピッ、と突然テレビが消えた。
振り向けばそこにはテレビのリモコンを持った祖父の姿があり、悲しげな表情で呟く。

「子供をこんな危険な目に遭わせるなんて、あっちゃいかん」

祖父はどこか怒っているようだった。
おじいちゃん、ボーダーと何かあったの?と問えば祖父はその質問には答えず、わしはボーダーは好かん。と吐き捨てられた。



祖父に少しの負い目はあったものの、凛はあの日からボーダーという組織が気になって仕方がなかった。
何故かは分からない。しかし異常に惹かれるのだ。検索をすればボーダーに関することは調べきれないほど色々な情報が手に入った。ネット上の情報など何が本当で何が嘘かは分からないが、ボーダーは良くも悪くも目立つ存在のようだ。
ボーダーのことを調べると凛は具合が悪くなることが多かった。思い出すつもりはなくとも、何か懐かしい気持ちになるからだ。なんとなく確信を持つ。自分が大怪我を負ったのはボーダーという組織に巻き込まれたからではないかと。そう考えれば祖父がボーダーを毛嫌いしていたのにも納得がいく。
しかし、凛はボーダーに対して怒りが湧くことも嫌悪感が湧くことはなく、むしろボーダーのことをもっと知りたいと思ってしまった。

祖父母に秘密でボーダーのエンジニア雇用に応募してみれば結果は不採用だった。ならばと研究員、販売員に応募してもどちらも不採用だった。
『未経験者大歓迎!驚愕!99%の採用率!?』なんて謳い文句を見て募集をかけていたというのに、凛は残り1%で不採用になったのだ。しかも書類審査の時点で。
残念だが現実なんてこんなものだろう。誰もが希望した場所で働けるわけがないのだ。ボーダーで働くことは諦めたものの、どうしてもボーダーの存在が気になった凛はボーダーの基地のある三門市で働くことを決めた。祖父母には猛反対されたが、結局は凛の意思を尊重してくれたおかげで凛は今、三門市の一般事務員として働いている。

三門市はテレビで見たような怪物が現れることが多く、そのせいもあってか警戒区域というものがある。端的に言えば怪物が出やすい場所だ。その近くは信じられないほど家賃が安く、祖父母からの援助を断った凛はそのアパートを借りることを即決した。何故か自分の通帳にはかなりの貯金があり、それは暫くは働かなくとも一人で暮らしていけるほどの額であった。両親が残してくれたのだろうか。思い出そうとすると頭が痛む気がしたので、そういうことにしておいて凛は両親に感謝した。
事務員として即採用されたのもアパートと同じような理由であり、多くの事務員が毎年辞めてこの三門市から去っていくらしい。何故そんな危険なところにわざわざそ引っ越してきてまで生活を送っているのか、正直凛は自分でもわかっていなかった。99%は受かると謳っていたボーダーの近くで働いてやるという変な意地だろうか。それとも。自分でも気付いていない何かがあったのだろうか。なんてね。

「あーつかれたぁ」

仕事を終え、近くの駅までは電車を使い、そこからは三十分かけて徒歩でアパートまで帰るのが凛の毎日である。本来なら最寄りの駅が五分の場所に凛のアパートはあるのだが、警戒区域が近いため廃駅になったらしい。家賃が安いわけだ。三十分なら毎日の運動にもなるし、と凛はさして気にもしていない。
ふと。辺りはすっかり暗くなっているというのに道端に不釣り合いな少女の姿が目に入る。キョロキョロと辺りを見回し、意を決したようにそのまま──

「おーい。そのまま行くと警戒区域に入っちゃうよ?」

凛の呼びかけに少女は大袈裟なほど肩を揺らして振り返る。両目には涙を溜めて、手には空っぽになったリードが握られている。それだけで十分過ぎるほど状況は察せられたが、凛は敢えて少女と目線を合わせるようにしゃがみ込み、どうしたの?と尋ねた。

「ポ、ポロが……走って行っちゃって…」
「ポロ?」
「い、犬……私の、私の家族で……、うわぁあん!」

凛に話したことで緊張の糸が切れたのか少女は大泣きしてしまう。そっかぁ、と凛は少女の頭を撫でて立ち上がり、時刻を確認すれば十九時になろうとしていた。辺りは暗い。怪物以前に少女がこんなところで一人でいる方が心配だ。
警戒区域の側は普段は人が寄りつかないため治安はそこまで悪くないが、人が寄りつかないのだから誘拐などに巻き込まれる可能性だって全然あるのだから。それならば怪物に遭遇しないことを祈ってポロとやらを探してしまったほうが話は早い。

「じゃあ、お姉ちゃんと一緒に探そっか」
「え、……いいの…?」
「うん、いいよ。ポロと一緒に帰ろう」

そう言って手を差し出せば少女は嬉しそうに微笑んで凛の手をとるのだった。





「ポロ!」

警戒区域内を進んで行った先に一匹の犬の姿を見つけ、少女が駆けていく。少女に気付いた犬も少女へと向かい、感動の再会とやらを果たすことに成功した。
良かった、と思ったもののポロは好奇心旺盛なのか、警戒区域の中を大分進んだ先にいたのだ。早く戻らなければまずいだろう。

「見つかって良かったね」
「うん!お姉ちゃん、本当にありがとう…!」
「いえいえ。じゃ、帰ろうか」

リードをしっかりとポロに付け、リードを持つ手とは反対の手で少女は凛の手を握る。ポロが見つかったことにより上機嫌で鼻歌まで歌っている少女のかわいらしさと能天気さについ頬が緩んでしまう。
凛が迷うことなく来た道を戻り始めると少女は高揚した様子で純粋な疑問を投げかけてくる。

「お姉ちゃん、ここに来たことがあるの?」
「ん?どうして?」
「だって、こっちのほうがいいよって。まるで自分のおうちみたいに言ってたから」
「あー……どうだろう?」

少女の言葉に凛の頭が少しだけ痛む。少女が言ったように、凛は何故かこの警戒区域内の道に見覚えがあったのだ。
こっちの道は入り組んでいるから。こっちの道は瓦礫の処理が間に合ってないんだよね。確かにそんなことを言いながら少女の手を引いた。どうしてそんなことを知っているのだろう。失われた記憶の中に、警戒区域内のことがあるのだろうか。

そんな考えを巡らせていると突然地面が揺れ出す。地震だ。そう思った凛は少女を庇うようにしゃがみ込む。あまり大きな地震でなければいいのだが。そう思い地震が収まるのを待ちながらふと空を見上げると、空には黒い大きなものが広がっていた。その黒いものを凝視しているとあの日、テレビで見た特撮モノの怪物が出てくるのが目に写る。あれは──

「きゃああああ!!」

その怪物に気付いた少女が叫び声を上げる。そして、少女の叫び声に気付いた怪物は迷うことなく凛と少女に向かって物凄い勢いで迫って来た。ズキンッと頭が痛む。こんな時に、と眉を顰め、凛は少女を庇うように抱き込む。少女を守らなければと無意識の行動だった。
怪物の腕なのか触手なのかよく分からないものが凛に向かって振り下ろされ、痛みを覚悟して目を固く瞑れば凄まじい轟音と揺れを感じ、体が傷まないことに恐る恐る目を開けば、先程まで凛達を襲おうとしていた怪物が真っ二つになっていた。

「な、なに……?」
「お姉ちゃん!大丈夫!?」

大泣きをしながら少女が凛の腕に縋り付いてくる。どうやら少女も無事らしいが何が起こったのか全く分からない。
と。恐らくこの怪物を真っ二つにしたであろう男が凛と少女の元へと歩いてくる。助けてくれたのは、この人だろうか。…ボーダーだろうか。

「…………おまえ、な、んで…」
「え?」

男の視線は凛に注がれている。印象的な綺麗な青い目を酷く歪ませ、信じられないと言わんばかりに悲しそうな表情を浮かべている。それと同時に今までで一番の頭痛に襲われ、凛は頭を両手で押さえてその場に蹲ってしまう。ぐぅ、そんな獣みたいな声が漏れる。ズキンズキンッと痛みは止まるどころか増していく。まるで脳みそに直接釘を打ち付けられているみたいに、信じられない痛みが凛を襲う。
薄れゆく意識の中、少女のお姉ちゃん!と叫ぶ声。そして何故か。自分の名前を呼ぶ懐かしい男の声を聞いた気がして、凛はそのまま意識を失うのであった。



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