残酷な天秤

ガラス越しに生命維持装置を付けられて眠っている姿を見据える。何度か視えた未来と何の遜色もないその景色に迅はただ、無表情でその景色を眺めることしか出来なかった。

あの日。
小南を通して視えた未来はこれであった。ガラスの向こう側にいるのが小南か木崎か凛か。
それは定まっておらず、視る度に相手を変えていた。何故、生身になってしまったのか。トリオン体を解かない以上、深手を負うことはないというのに。そう結論付けた迅は三人に換装を解かないよう念を押した。
それでも。その未来が完璧に消えることはなかった。

木崎の報告によれば凛は換装を解かなかったらしい。そして、迅との約束通り異変を感じてすぐにベイルアウトをしたという。
換装体の見た目に損傷はなかったはずなのに、本部に戻ってきた凛の脇腹は敵の攻撃が貫通していて騒然としたとのこと。凛の帰還先が医務室に設定されていたためすぐに処置に入れたのが幸いし、一命は取り留めたとのことだが油断は出来ない。それは迅が誰よりも分かっていることであった。

「迅…!凛さんは…」

凛が深手を負ったあの日、迅の元に駆けつけた小南は開口一番そんなことを尋ねた。
迅は何も言えなかった。それだけで最悪を連想させるには十分で小南の顔がみるみる青ざめていく。ああ、勘違いをさせてはいけないと思い迅は笑顔を浮かべる。ちゃんと笑えていたかは、分からないけど。

「…半々だよ。まだ、分からない。ごめんな」

自分がどんな表情で、どんな声で喋っているのか迅には分からなかった。出来る限りいつも通りにしようと思っているのだけど、チラつく分岐に凛の葬式が視えてしまう。
今すぐにでもこの目を抉り取りたい衝動を抑えながら笑っていれば、木崎と烏丸が頭を下げてくる。

「迅、すまない…」
「迅さん、すみません…」
「なんで二人が謝るんだよ」

何も悪くないでしょ。と迅は続ける。
三人は何も悪くない。敢えて言うのなら換装体を通して本体を攻撃する、なんて反則みたいな攻撃をしてくるトリオン兵を読み逃した自分が悪いと迅は思っているくらいだ。
今までそんなトリオン兵には遭遇したことがなかったが、近界は広い。遊真に心当たりがないか聞いてみてもいいかもしれないと迅はなんとかガラスの向こう側から意識を逸らす。

「ほら、今日は疲れただろ?三人とも、ゆっくり休みなって」
「迅、あんた……」
「分かった。何かあればすぐに言ってくれ」
「ありがとうレイジさん。小南も京介も、ありがとな」

そう言い切れば三人とも何も言わずにこの場を後にした。
本当なら迅はこの後、今回の件に関して会議に出向いたり、街を歩いて他の脅威が迫っていないか視に行かなければならなかった。
しかし迅の足は動かない。ただ、ガラスに片手を添えて、眠っているだけのように見える恋人の姿を見ることしか出来ない。

「……いつまで、寝てんの。また、…怒られるよ」

朝に弱く、寝坊ばかりしていた恋人。しっかりしているくせにそういう弱点が可愛かった。
おれの嫌いな目を好きだと言ってくれるのが嬉しかった。サイドエフェクトのことを笑い飛ばしてくれて救われた。

(おれの、だいじなものは…)

ぽろ、と涙が溢れる。
泣くつもりはなかったが、意識して溢したのではない。どうしようもなく、悔しかった。
迅には心の底から大切な人が人生で三人いる。
一人は母親で、一人は師匠であった最上で、一人は今、まさに死の淵を彷徨っている凛だ。
母親を失った時、もう二度と大切な人を作らないと人との間に壁を作ったくせにいつの間にか最上が大切な人になっていた。
最上を失った時、自分の存在意義はボーダーに尽くすことであり大切な存在は判断を鈍らせると悟り、誰とでも一定の距離を保つようになったというのに、いつの間にかその距離を凛が詰めていた。
大切な人が出来ると怖くて堪らないけれど、それと同時に満たされた。満たされてしまった。自分が大切だと思う人は、必ずいなくなってしまうというのに。

「……なあ、おれが悪かったよ。ちゃんと、手放すからさ。だから」

どうか。凛をたすけて。

誰に謝罪をしているのか、誰に懇願しているのか、迅には分からない。
それでも縋らずにはいられない。神でも悪魔でも何でもいい。どうか、凛を殺さないでほしかった。





「迅、お前ずっとここにいるのか」
「ボス。…ごめん、会議。すっぽかしちゃったね」
「いいんだよ、んなのは。…どうだ、凛の様子は」

凛が大怪我を負ってから今日で丁度一週間が経った。凛を襲ったトリオン兵については未知のことが多く、上層部及び玉狛支部の面子以外には秘匿情報とされたため、現在の凛のことを知っているのはその面子と、医務室で凛を目撃した隊員だけである。そのため見舞いに訪れたのは玉狛の面子、忍田、偶然居合わせてしまった諏訪くらいである。
迅は毎日凛の元へと通った。最悪の未来が消えることを祈って。
流石に街の様子は見なければまずいと思い街に足は向けたが注意力は今までにないくらい散漫であり、ひとまず街に危機が迫ることがないことが視えたのが唯一の救いであった。会議に出る気にはなれず、林藤に溢したように欠席している始末である。

迅悠一という男は何よりもボーダーを優先する男であり、それは時に上層部を不安にさせるほどであった。私がないのだ、この男には。と、思っていた面子にとって迅がボーダーの会議よりも恋人の安否を取ったことには驚きと同時にどこか安堵を覚えていた。組織としては恋人を優先するのはあり得ないことだが、迅は己の感情を犠牲にする節があるからだ。
そのため今回ばかりは恋人の安否が確定するまでは目を瞑ろうというのが上層部の決定である。

「…うん。大丈夫。死ぬ未来はもう視えないよ」
「本当か!そりゃあ良かった…!」
「目が覚めるのは、結構先になりそう」

まだあんまよく視えないんだよね、と迅はどこか虚ろな目で続ける。その様子に林藤は違和感を覚える。

「嬉しくないのか?」
「え?」
「目が覚めるのは先かもしれないが、とりあえず峠は越えたんだろ。それにしてはお前…何でそんなに落ち込んでんだ」

林藤の言葉に迅は笑った。それは諦めたような笑顔だった。
迅、と林藤が声をかけようとすればそれは迅によって遮られる。

「ボス。お願いがあるんだけど」
「…なんだ?」
「ボスは、おれの味方でいてくれる?」

首を傾げながら、縋るように迅が言う。
味方になってほしいのならまずは何をするつもりかを言うべきだ。基本的に林藤は迅の、そして玉狛支部の味方ではあるが非人道的なことであったりすれば頷かないこともあるかもしれない。
生憎、玉狛支部の面子が真剣に願い出る時は林藤が困るようなことを提案してきたことがないため断ったことはないのだが。

「何を考えてるかは知らないが…」

今にも泣き出してしまいそうな表情の迅を見据える。図体ばかり大きくなったが林藤にとって迅はまだ子供だった。少しばかり責任感が強く、自己犠牲ばかり考えてしまう手のかかる子供なのだ。

「子供のお願い一つ聞けないようなら、俺は支部長なんてやってないぜ」

そう言えば迅はほっとしたように顔を綻ばせてありがとうと言う。
林藤は決めていた。迅が何を言おうと今回は全力で迅の味方になろうと。

たとえ。
その提案がどれだけこの子供を追い詰めることになると理解していても。





「迅、もう大丈夫なのか」
「忍田さん。ごめん、迷惑かけたよね」

凛の生存が確定したとの連絡を受け、忍田は胸を撫で下ろした。一隊員の安否はもちろん、彼女は迅の恋人であることを知っていたからだ。

迅は人懐っこいようでその実、人を寄せ付けない癖がある。彼の辿ってきた人生を考えばそのような処世術が身につくのは仕方がないことだったが、忍田はそんな迅のことを心配していた。
だからこそ迅に恋人が出来たと聞いた時は嬉しかった。本人に尋ねれば、長い付き合いだというのに初めて見せる表情で忍田の問いかけを肯定した。良かったな、迅。そう言えば迅は照れ臭そうに、されど嘘偽りのない笑顔でうん。と返してくれたのを忍田は今でも覚えている。
迅と凛は仲の良い恋人同士で、その関係も長いものとなっていた。人よりも気苦労の多い迅にとって、凛の側は唯一気の休まる場所であったのは問うまでもない。
本当に助かって良かった。心の底から安堵する忍田に、そして迅と林藤によって足を運んだ城戸の二人に迅はある提案を口にする。

「おれからの提案はただ一つ。斎藤凛隊員を記憶処理したのち、ボーダーから除籍してほしい」
「な、にを言っているんだ。迅…!?」

迅の提案に声を上げたのは忍田であったが、城戸もまた気持ちは同じものであった。
記憶処理。ボーダーにおける機密事項の一つであり、上層部三名以上の了承を得ればそれは実行可能となる。
迅が選んだのは城戸、忍田、林藤の三名であり、状況から察するに林藤の了承は得ているのだろう。しかし、忍田は素直に頷くのは出来ない。

「そのままの意味です。記憶処理の許可を。林藤支部長にはもう許可を貰ってるんで」
「林藤…!?どういうつもりなんだ!」

忍田の問いかけに林藤はすぐには答えず、煙草を口に咥え、それを大きく吸い込むと白い煙と共にゆっくりと吐き出す。

「斎藤凛という一人の隊員を尊重して未来予知を棒に振るか、斎藤凛という一人の隊員の記憶を犠牲に未来予知を強固なものにするか。二つに一つなら俺は後者を取りますよ」
「何…?」
「…どういうことだ、迅」

林藤の答えに、城戸は林藤ではなく迅に尋ねる。その城戸の行動が分かっていたのか、はたまた視えていたのか。迅は少しの動揺も見せずに城戸の問いかけに答える。

「凛が側にいる限り、おれは予知を最大限に使いこなせる自信がありません」
「…それは、何故?」
「優先順位に凛が割り込もうとするんですよ。城戸さんも忍田さんも知ってるでしょ。おれは何があってもボーダー第一に考えるようにしてきたって。それが最上さん達への報いだとも思っている。なのに。そんなもん全部無視して凛を優先しようとするおれが視える」

迅悠一は献身的な男だ。心の内は読めないものの、その行動はいつもボーダーに有益な状況を運んでくる。
それはもしかしたら、亡くした多くの仲間への贖罪からきているものかもしれない。城戸も、それこそ忍田自身も彼らのことを忘れたことはなく、彼らの犠牲を絶対に無駄にはしないという思いは常にあるのだから、未来が視えていたにも関わらず彼らを失う未来を進んだ迅には忍田達以上に思うところがあったのだろう。
そんな迅は今、確かに揺れてしまっている。皆で守って来たボーダーか、愛する者か。到底選ぶことなど出来るはずのない天秤を迅はずっと眺めていたのだろう。そして、そんな彼が出した答えが、これか。

「おれは城戸さんも忍田さんもボスも、ボーダーのみんなも大切だ。でも、凛は特別なんだ。特別な存在は、もう要らない。作らないって決めてたのにね」

そんな悲しいことを言うなと。喉まで出かかった言葉を忍田は飲み込んだ。迅の考えは痛いほど忍田にも分かるものであったからだ。
忍田の優先するものはボーダーであり、三門市民の平穏である。忍田もまた、自分の幸せなど二の次なのだ。そんな自分が迅を諭せるはずがない。それでも。やっと見つけた特別なものを手放そうとしている迅はあまりにも痛々しくて見れたものではない。
そんな忍田の心中などお構いなしに迅は言葉を続ける。

「凛を一番に選ぶおれも、凛を一番に選ばなかったおれも、おれには許せないんだ。いざという時に、この迷いは邪魔になる。なら、今。強制的におれから凛を切り離したい。これは、完全におれの私情です。おれはおれのために、そして未来予知というサイドエフェクトをボーダー第一に使うための提案です」

迅がそう言い切ると場に沈黙が落ちる。
迅の言い分は分かった。迅は、ボーダーのために自分の気持ちと凛の記憶を差し出すと言っている。この提案が通ってもボーダーにとって不利益はなく、むしろ迅のサイドエフェクトをボーダー最優先に使用すると決定付けるためボーダーにとっては得しかない申し出であった。
傷付くのも失うのも、当事者である二人だけなのだ。
忍田は何も言えない。ボーダー幹部として是を唱えるのか、一人の人間として否を唱えるのか。…とっくに結論は出ているのになかなか口には出せずにいると、先に口を開いたのは城戸であった。

「記憶処理は、その名の通り記憶を処理するものだ。封印するものではない。今までの事例で記憶処理を行った者が記憶を取り戻した例は一つもない。迅。記憶処理をしてしまえば彼女はもう、お前のことを思い出すことはない」
「理解しています」
「……分かった。私も了承しよう」
「ありがとう、城戸さん」

城戸の了承を得た迅はほっとしたように目を緩めて微笑む。そしてそのままその視線を忍田へと向けた。
困ったように笑う迅に、忍田自身の答えは決まっていたが、最終確認とばかりに忍田もまた、私情で迅に対して問いを投げかける。

「…迅、本当に良いのか?お前は…凛が、好きなんだろう…?」
「うん。好きだよ」

真っ直ぐな肯定に忍田の良心が痛む。きっと城戸も林藤も同じなのだろう。
人を好きになるということは簡単なことではない。好きになろうと思ってもなれるものでもなく、そして好きになってしまえば簡単にその思いを断ち切ることも出来ない。
恋とは奇跡だ。そして自分の好きな相手もまた、自分のことを好きになってくれるなんて奇跡でしかない。そんな尊い想いに、迅は自ら終止符を打とうとしている。

「だから、おれは凛が生きててくれればいい。一番に選ぶことの出来ないおれなんかより、凛を一番に選んでくれる人と、……幸せに生きててくれればいいんだ」
「……迅」

忍田は自分が恋煩いに聡い方でないことを理解している。そんな忍田にも、流石に分かってしまう。

「お前は、嘘が下手だな」

忍田の言葉に迅は泣きそうな笑顔を浮かべた。
おれが幸せにするよ。おれは凛を一番に選ぶよ。そう言えたらどれだけ幸せだったのだろう。そう言わせない道を選んだのは、選ばせたのは果たして誰なのだろう。
誰よりも凛の記憶から消えたくない男が凛の記憶処理を提案をしている。どれほどの覚悟と喪失感が迅の中を巡っているのか、忍田には計り知ることは出来ない。それならば、忍田に出来ることはただ一つ。

「…分かった。私も了承する」

忍田の了承を得て、凛の記憶処理が秘密裏に行われることが決定となった。
迅はありがとうございますと三人に頭を下げた。忍田達は何も返せなかった。
私達のために、ボーダーのために犠牲になってくれてありがとうと。そんな事実を口に出来るほど非情になることはどうしても出来なかった。





迅は手にしたトリガーを起動出来ないまま、見飽きるほど見た寝顔を食い入るように見つめる。
自発呼吸も出来るようになり、呼吸を補佐する器具も外されている。身体中に多くの機器は身につけている姿は痛ましいものの、凛が目を覚ます未来は確定していた。
規則正しく上下する胸に安堵する。凛は生きている。死ななかった。生きていてくれて、ありがとう。そう心で呟いて、トリガーを構え、そしてそれを再び下ろしてしまう。

迅が手にしているトリガーは記憶処理を行うものである。このトリガーを起動して処理をしてしまえば凛はボーダーのことも迅のことも一切忘れ去る。そしてその分岐の先、迅が再び現れる未来は視えない。ということは、記憶を処理してしまえば正真正銘凛とはお別れとなるのだ。自身のサイドエフェクトがそう告げているので間違いないだろう。
自分で言い出したことであり、自分で押し通した意見であるものの迅はどうしても最後の一歩がなかなか踏み出せなかった。忘れられたくない。離れたくない。ずっと一緒にいたい。それが誰にも漏らすことのなかった迅の偽らざる本音なのだ。

だが、それ以上に。この先自身が選んだ未来によって凛を見捨ててしまう可能性があることが迅は怖かった。そして、逆にボーダーを見捨ててしまう可能性もゼロではないことも恐ろしかった。
人はそんなに多く大切なもの、というものを持つことは出来ないと迅は思っている。人一人が守れるものなど一つが限界なのだ。その一つすら守れなかったことだってあるというのに。
迅にはボーダーを見捨てることは出来ない。だからと言って凛を見殺しにすることもごめんだった。生きててくれればそれでいい。幸せになってくれればそれでいい。忍田には嘘が下手だと言われてしまったが、この気持ちに嘘はない。その相手が自分でないことだけは、到底受け入れられる未来ではなかったけれど仕方がないのだろう。

だって。
迅は己の意思で凛を手放すのだから。

ごそごそと。
ベッドの内側から力の入らない凛の手を引っ張り出して両手で包み込む。握り返してくることはなかったけれど、ちゃんと血が通ってある凛の手は暖かかった。

「好きだよ、凛。たぶん、おれはもう恋はしない。それくらい、凛が大好きだった」

恋をした。
ずっと嫌いだったおれの目を、好きだと言ってくれた凛。
罪悪感に押し潰されそうなおれの懺悔を笑い飛ばしてくれた凛。
どんな時でも、迅の思いもしない言葉をぶつけて迅の心を救ってくれた凛。
間違いなく、これは恋だった。愛していた。今この瞬間、斎藤凛はこの世の何よりも迅にとって大切で特別な存在であった。

「さよなら、凛」

そう言って凛の唇に迅は己の唇を重ねる。反応もなく、かさついていてる唇は迅の思い出の中の凛のものとそれでも何も変わらなかった。
トリガー、起動。
そう言ってトリガーを起動して、凛に視線を向ければ凛は一筋の涙を溢していた。



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