最終章 伍


「若様、お加減はいかがでしょう?」

私の顔色を伺うように世話役の男が言葉を発する。全てが不愉快だ。ままならない体も、私を遠巻きにする態度も。
私は枕元にあった桶を思い切り男に投げつけると桶は男の頭に当たり、中に入っていた水を男は被ることとなった。
次の日からその男は私の元には現れなくなり、違う世話役が私の元に訪れ誰もが長く保つことはなかった。
──この女以外は。


「若様!本日より若様のお世話をさせて頂くことになりました!よろしくお願い致します!」

その女は鬱陶しい笑顔を浮かべて、病人を相手には相応しくない声量で私に挨拶をした。
あまりにも不快だ。私はいつものように水の入った桶を女に投げつけるとそれは女に当たり女は頭から水を被った。

「あ痛ぁ!?若様!桶は投げるものじゃないですよ!」
「……は?」

桶はですねぇ、お水を運んだり洗濯物を運んだり凄く便利なものなんですよ。と女は私を軽蔑することもなく部屋に訪れた時と変わらない笑顔で私に話をかけ続ける。
女が私の側に座ると女から滴る水で布団が濡れ、それに対して女は大袈裟に声を上げた。

「ああ!申し訳ありません!若様のお布団を濡らしてしまって…!」
「目障りだ。消えろ」
「いえ!若様のお世話をさせて頂くまで消えません!」

この女は他の奴らとは違い、少しのことでは動じないようだ。癪に触る。ならば消えたくなるほどの罵詈雑言を並べようと私は口を開いた。

「目障りだ、と言ったのが聞こえないのか。お前のような醜女、私の視界に入るだけで不愉快だ。何故笑う?私を蔑んでいるのか?私が病弱なのがそんなに面白いのか?私が可哀想だと言うのなら私のために死んでみせろ」

今まで私が思ったことを口にすれば男でも女でも次の日から部屋に現れることはなかった。所詮、金の為だけに私の世話を選んだ者達であり、その程度なのだ。この女もすぐに部屋を出て行くだろう。そして明日からはまた違う世話役が姿を現し、また姿を消す。それが私の毎日だった。

「若様。私は若様のお世話役に任命されて嬉しいのです。若様がどのような時に笑うのかは私には分かりかねますが、私は嬉しい時や楽しい時に笑います。醜女なのは生まれつき故、申し訳ありません!」

女は私の言葉に悲観することも、激怒することもなく言葉を続ける。それは信じられない光景だった。

「私は若様のことを可哀想とは思っておりませんが、若様のためならこの命はいくらでも差し出します。その前に、若様のお世話をさせて頂いても宜しいでしょうか?」

私に向けて、こんな笑顔を向けた人間が今までで……いや、今思えば生涯でこの女以外にいただろうか。
この日から女は私の世話役になったのだった。


この女は兎に角愚図だった。
よく転び、部屋の至る所に体をぶつけ、故意ではなく自ら持ってきた桶の水を転んだ弾みに頭から被ったこともある。その度に私に口汚く罵られても女はいつも笑っていた。女は嬉しい時や楽しい時に自分は笑うと言っていたが、頭から水を被って楽しんでいるのならどこか頭がおかしいのだろう。

「だって、若様も楽しそうにしてくださるから」

女は時々訳の分からないことを言う。

「私が楽しいだと?お前が勝手に痴態を晒してるだけだろう」
「あはは!本当ですよねぇ、私もそう思います」

そう言いながら、女はやはり楽しそうに笑っている。私はそんな日々を信じられないことに悪くないと感じていた。


「若様、今日はいいお天気ですよ」

女が襖を開けると、眩しい日差しが部屋の中に入ってくる。生まれてから一度も私は日の下を走ったことがない。私は、物心ついた時から常に床に伏せていたのだ。──その眩しさが憎らしい。

「閉めろ!」
「え?」
「愚図が!さっさと閉めろと言っている!」

私が怒鳴ると女はすぐに襖を閉めた。
癪に触る。何故私に太陽を見せる?お前は日の下を走り回れるかもしれないが、私には出来ない。私を馬鹿にしてるのだ。やはりこの女は目障りだ!

「若様」
「五月蝿い!床に伏せている私はそんなに惨めか!?お前も所詮、今までの奴等と同じで私を馬鹿にしているな!?売女が!」
「若様、お日様は若様の敵ではございません」

女が私のすぐ側に腰を降ろす。
衝動のまま女の頬を殴り付ければ女の口の端から一筋の血が流れた。頬を腫らしながら、それでも女はいつものように私に微笑むことをやめない。

「若様。若様はきっと良くなります。その時は私と一緒にお日様の下を歩きましょう」
「…何を言っている?」
「これは願いです。若様と日の下を歩いて、心の底から楽しいと笑ってくださる若様を夢見るだけで私はこんなにも満たされます」

女が私の手を両手で握る。
かさかさに乾燥していて、愛らしくも何ともない手だ。女としてこの女に価値はない。
そんな女は、いつしか私にとっての唯一になっていたことに気付いたのは失った後だった。


***


私の体を治すと言って薬を投与し続けていた医者を私はこの手で殺した。医者が来ている時は外していた女だが、なかなか帰らない医者を迎えに来た女は顔を真っ青にしていた。「若様、大丈夫です。私は若様の味方です」と女は私にそう言ったのだ。その意味はすぐに分かった。
医者を殺し、癇癪を起こす私をついに始末しようと屋敷の者達が考えているのだと。
力があれば私を蔑ろにし、始末しようとさえ企てている奴等を皆殺しにしてしまいたい。そんな私の願いは思わぬ形で叶うこととなった。

医者を殺して間もなくして、私の体に変化が起こった。
病気も治り、力が溢れる。その事実に歓喜した私は今まで私を蔑ろにした屋敷のものを皆殺しにした。激昂する者、腰を抜かす者、許しを乞う者。全員を一夜のうちに殺し尽くした。

屋敷に残った者で私に逆らう者はいなくなった。
それからも癪に触れればすぐ殺し、食らい。私は力をどんどん増していった。怖いものなどもうない。私は自由になったのだ!
そんな私に女は言ったのだ。

「若様。そのような生き方は間違いです」

女から、初めて私を否定する言葉が放たれた。
いつも「若様」と。笑っていた女が笑っていない。何故だ?私がこんなにも自由になったというのに、何故お前はそんな悲しそうな顔をする?

「若様、私の願いは──」

女が言葉を言い切る前に私は女の腹を貫いた。
女は即死だった。何故、何故お前が、私を否定した?
願い?願いが何だと言うのだ?お前は何を願った?

『その時は私と一緒にお日様の下を歩きましょう』

女の声がこだまする。そして気付いた。私は、日の下を未だ歩けていない。それは本能で理解していたのだ。──日光に当たれば死ぬのだと。

「私は、私は…間違っていない……」

お前が生きていたとしても、私はお前と日の下を歩くことは出来なかったのだ。私は何も間違っていない。絶命した女に俺は言った。「私は、間違っていない」と。女から返事が返ってくることは当然なかった。私はいつの日からか、それを証明したくて堪らなかったのだ。

間違っていたと認めてしまったら、自分がたった今犯した過ちを許すことが出来なかったから。

そして私は太陽を求めた





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