煉獄先生を初めて見た時、時間が止まったような錯覚に陥った。
大きな体に大きな声。お父さんとは全然違って、煉獄先生を見かける度に胸がきゅう、と苦しくなる。毎朝煉獄先生が学校へ来る時間もなんとなく把握して、大嫌いだった早起きが得意になった。偶然を装って早朝に煉獄先生に出くわして挨拶をするようになったら生徒思いの煉獄先生はすぐに私のことを覚えてくれた。

「斎藤、今日も早いな!感心感心!」

わしゃわしゃ、と乱暴な手つきで頭を撫でてくれる無邪気な煉獄先生。大好き。本当に、心から大好きで。学校へ足を向けるのは煉獄先生に会いに来るためだと言っても過言ではなくなった。

歴史の授業は大好きだ。だけど私のノートはいつも真っ白。授業後に友達にお願いしてノートを写させてもらわなければ復習すら出来ない。だって、歴史の授業は煉獄先生が担当しているから。私は先生の声を聞いて、黒板に書く文字を目で追って、先生の背中に恋をする。多分、一日のうちで一番時間が流れるのが早いのが歴史の授業だ。

「斎藤はいつも俺の授業を熱心に聞いてくれているな!」

ある朝、いつも通り煉獄先生に挨拶をすると嬉しそうに先生がそんなことを言ってくる。

「はい!煉獄先生の授業が一番好きです!」
「それは嬉しいな!ありがとう、斎藤!」

眩しすぎるくらいの笑顔で煉獄先生は私に感謝を述べる。嬉しい、煉獄先生、私がちゃんと授業を真面目に受けていることを知っててくれたんだ。
その日から、授業中に煉獄先生と目が合うことが増えた気がする。目が合うと少しだけ嬉しそうに微笑んでくれる煉獄先生。なんとなく自分だけが煉獄先生の特別になったような気がして、凄く嬉しかった。

だけどいくら私だって分かっている。
煉獄先生は先生で、私は生徒。何かがあってしまえば煉獄先生の迷惑になってしまう。だから、この気持ちは誰にも言えないし、言うつもりだってない。朝、偶然登校時間が同じになる煉獄先生に挨拶をして、授業中は真面目に煉獄先生のことを見つめる。それだけで良かった。それだけで幸せだった。


──それだけが壊れたのは高校一年のバレンタインの日だった。


朝から男女ともに浮き足立った様子が見られる。いや、正確には一週間ほど前から校内に浮ついた空気が流れていたのは分かっていた。今日はバレンタインデー。女子が好意的に思っている男子にチョコを渡すというビッグイベントの日だ。好きな男子のいる女子はもじもじ、と。いつそれを意中の相手に渡そうか緊張している様子が伝わってくるし、男子は女子からチョコが貰えるのではないかと期待に満ち溢れている。

私は、本当に悩んだ。勿論煉獄先生にチョコを渡したかったけれど、私のチョコは「本命チョコ」だ。これを義理です、と嘘を吐いて渡すのは違う気がして。だからと言って本命だからと手作りチョコを作るという烏滸がましいことも出来なくて。結局はちょっと高めの市販のチョコを一つだけ買って持ってきてしまったのだが渡す勇気は出なくて今も鞄の中でそれは行き場を無くしたように転がっている。

「ねー、煉獄先生チョコ受け取ってくれなかったよ」

そんな時に聞こえてきたのは、クラスの女子の会話だった。

「私も受け取って貰えなかった!賄賂じゃないから〜!って笑いながら渡してもすまないが受け取れない!って」
「マジ?じゃあこのチョコ他に回そうかなぁ」

煉獄先生が、チョコを受け取らない。
そうか。なら、こんなに悩む必要もなかったかな。私は鞄に入ったままのチョコを今朝挨拶した時に渡さなくて良かったと少しだけ安心する。だけど、やはり気になってしまう。どうして煉獄先生は彼女達からチョコを受け取らなかったのだろう。生徒からそういうものは受け取れない、とかかな。煉獄先生真面目だから。

「それって煉獄先生本命いるんじゃね?」

女子達の会話を聞いていた男子達が面白半分にそんなことを言い出す。

「確かに!煉獄先生一途そうだしね!」
「えー!なんかショック!」
「煉獄先生って歳上好きそうじゃね?」
「いやいや!案外大学生とかかもよ?」

クラスメイトが口々に盛り上がる中、私の気持ちはどんどん盛り下がっていく。そんなこと、考えたことがなかった。いや、考えようとしていなかっただけなのかもしれない。煉獄先生は私達とは違って大人で、それこそ恋人がいたっておかしくない。私は学校での先生は知っているけど、それ以外の先生のことは何一つ知らないのだとこの時気付いてしまった。


「煉獄先生、好きです」

だからもう、止まれなかった。
自分の気持ちを隠し通すなんて結局は無理で、誰かのものになってしまうのなら自分のものになってほしいという至極勝手な考えで私は下校しようとする煉獄先生を捕まえて思いを伝えた。
煉獄先生は少しだけ驚いたような顔をした後、真剣な顔で私の目を真っ直ぐと見つめる。

「斎藤、ありがとう。俺も斎藤のことは大切な生徒だと思ってる!」

きっとそれは歴史教師、煉獄杏寿郎先生としての模範解答。でも私が聞きたいのは先生からの言葉ではなく煉獄杏寿郎さんという歳上の恋焦がれた相手からの返事で。

「私は、先生のことを一人の男として好きなんです」

先生、と口にしながらも男として好き。と伝えるのはある意味矛盾しているのかもしれない。だって先生は生徒の思いには応えられないと知っているのに、男の部分に返事をしてほしいと訴えかけているのだから。

「斎藤」

煉獄先生がとても落ち着いた顔をしている。ああ、振られるんだな。と察することは容易に出来た。さようなら私の初恋。ツン、と鼻の奥に痛みが走った。

「君のそれは、憧れだ」
「……え?」

私の気持ちを受け入れるわけでもなく、断るわけでもなく。煉獄先生はそんな言葉を私に投げかける。

「君にとって俺は歳上で、先生だ。きっと斎藤にとって俺は眩しく見えたのだろう。だが、それは一過性のものに過ぎない」

私の恋心は憧れからくるもので、煉獄先生は私の気持ちをただの一過性の勘違いだと言う。
なんだ、それ。私は鞄から煉獄先生のことを思って買ったチョコを箱ごと取り出して思い切り煉獄先生に投げつける。煉獄先生はとても驚いた顔をしていて、先生に当たって地面に落ちた箱はぐちゃぐちゃになっていた。

「煉獄先生」

両目から涙が流れ落ちる。止めなければ、とは思わなかった。これは私の心が流しているのだから。その目にしっかり焼き付けてください。

「分かりました。煉獄先生がそう言うのなら、この気持ちは憧れなんでしょうね。私にとって煉獄先生は一番の先生なんですから」
「斎藤──」
「さよなら煉獄先生。それ、捨てておいてください」

そう言って私は全力で走った。足が縺れても、息が上がっても、何も考えたくないから兎に角足を動かし続けた。

はぁはぁ、と。体力の限界を感じて足を止めるといつの間にか辺りは暗くなっていて冷えた汗が体を刺すように襲ってくる。それと同時に大分冷えた頭で煉獄先生の言葉を思い出すけれど、やっぱりあんまりじゃないかなぁと私は悪態をついた。

「受け取れないならさ、せめて捨ててくださいよ」

憧れだ、なんて曖昧に濁すくらいならごめんと切り捨てられたほうがどれだけ良かったか。あんな風に言われたら憧れなら良いんですか?と馬鹿みたいに縋り付くことを考えてしまうんだから。

でも、もしかしたら。煉獄先生の言う通りだったのかな。煉獄先生はしっかりしていて大人だから、いつの間にか憧れを恋心と勘違いしていたのかもしれない。煉獄先生を思うと嬉しくて苦しくて。そんなことを考えてしまうのも彼に憧れを抱いていたから。──そう考えるのが先生にとって一番都合が良いのなら。

私は自分の恋心に「憧れ」という名前を付けて呼ぶことにした。








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