恋と呼ぶにはあまりにも
俺が苗字と嵐山の関係を知ったのは、ある夏の日だった。……いや、秋だったかもしれないし、冬だったかもしれない。春ではなかったような気がする。
大学で授業を受けて、その後本部基地に直行した。いつもなら
作戦室には先客が居た。隊員である苗字が居ることにはなんの問題もなかったが、嵐山という異分子が交じっていたことが問題だった。だからといって、他の隊の人間を作戦室に入れただけで咎める程心の狭い人間ではない。最も大きな問題は、二人が唇を重ねていたことだった。
「ここはラブホじゃねーぞ」
口を突いて出たのはそんな嫌味だった。嵐山は真っ赤になって慌てていたが、苗字はいつもの無表情で「ラブホでするようなことはしていません」と返してきた。
「……しようとしてただろーが」
大きく溜め息を吐いた。嵐山はぺこぺこと頭を下げているというのに、苗字は申し訳なさを滲ませすらしやがらない。もう良い、と言い捨てると、嵐山はそれでも「すみません」と何度か頭を下げながら、「俺、もう戻りますので……!」と作戦室を出ていく姿勢を見せた。俺としても、さすがに気まずさと不快感があるからそうしてくれた方が有り難かった。
じゃあまた後で、と嵐山は苗字に言う。うん、後でね。そう返す苗字の顔は、一年以上一緒に居るというのに初めて見た笑顔だった。正直面食らった。お前、笑うのか。
すみませんでした、ともう何度目かの謝罪をしながら、嵐山が作戦室から出ていった。ようやく落ち着いて、ロッカーに荷物を入れにいく。ソファに居る苗字の視線は、手元のスマートフォンに注がれていた。
「お前、あいつと付き合ってんのか」
「えぇ、まあ」
表情一つ変えずに言いやがる。俺は彼女と対面するソファに座り、「あのなあ」と話し掛ける。ふと、初めてこいつと戦闘以外の話をしようとしていることに気付いた。元々苗字に限らず、『互いのプライベートには踏み込まない』という約束を交わしている俺の部隊は、任務やランク戦以外の話をすることが極稀だった。
「やるなら場所を弁えろ。今回は俺だったから良かったが、他の奴が出くわしたら困るだろうが」
「私は困りません」
「お前が困らなくてもこっちが困るんだよ。……それに、嵐山も困るだろ」
あの男の名前を出すと、苗字はようやくこちらを向いた。烏の羽みたいに真っ黒な瞳が、俺をじっと見る。怖いくらいの無表情には、さっきの笑顔は影も残っていない。やはり見間違いだったんじゃなかろうか、という疑念すら生まれる。
「准が困る?」
「そりゃ困るだろ。さっきあんなに謝ってたの、見てなかったのか?」
「見てました。そうか、あれは困ってたのか……」
幼い子供に道徳を教えているような気分になる。あるいは意志を持たぬロボットへの教育。感情の話というのは、こんなにも難しいものなのか。
「私、准が困ることをしたいんです」
唐突に、苗字が自分の性癖じみた何かを暴露した。
「彼は多くの人間に幸せを配っているし、幸せを貰っている人間です。だから私は、他の人間が准に与えないものを与えたい」
俺は今何を聞かされてるんだ……? そんな疑問は当然生まれる。
「恋っていうには歪み過ぎてるだろ、それ」
気持ち悪いぞ、と口から零れ出てしまった。つい言葉にしてしまうくらいには気持ちが悪かった。恋と名付けるのはどうにも躊躇われる。俺が今まで経験してきたものも、見聞きしてきたものも、綺麗なものばかりではなかったとはいえ、そんな歪み方はしていなかった。目の前の女の恋は、どうにも寒気がするような気持ちの悪さがある。
そうですね、と苗字は肯定した。自分のことのはずなのに、まるで他人事のように。
「悠一にも同じことを言われました。私もそう思います」
悠一、とはつまり迅のことか。迅は他の隊員と滅多に話さない苗字が言葉を交わす、数少ない人間だ。嵐山よりもよっぽど、あいつと居るところを見掛けることの方が多い。どうやらあいつも、苗字と嵐山の関係を知っているらしい。
「私のこれは恋というよりも、信仰に近いのだと思います」
「宗教か」
「そうです。神を崇めるそれですよ」
母もこれほど客観的に自分の信仰を見ることが出来れば、何か変わったのだろうか。客観的に見ることが出来たって、こいつのように、それでも神を愛することをやめないのだろうか。
「宗教は身を滅ぼすぞ」
「まるで身を滅ぼした人を間近で見たような言い方ですね」
「……黙ってろ」
彼女は本当に黙り込んで、その後何も言わなかった。言いたいことを言い切ったようだった。
──今思えば、あれは俺とあいつが交わした、最初で最後の世間話だった。