I resign.



「私ね、結婚するの」

 俺達は二十五になった。苗字は大学卒業後、院に進んだ。心理学を専攻しているそうだ。修士課程を修了し、今は博士課程に身を置いている。定期的に、論文を書くのに疲れて死んだような声の電話が掛かってくる。王子は苗字に甘いから偉いねbotになるが、俺は大体聞き流している。
 俺と王子は相変わらずボーダーでせっせと街を守っている。王子は戦闘員として今も隊員を引っ張っている。トリオン器官の成長は止まったが、それでもまだしばらくは前線に立ち続けるつもりらしい。俺は三年前から裏方に回った。今は営業部の一員だ。
 苗字は毎年、年末年始に帰省していた。彼女の帰省に合わせて、毎回三人での飲み会を開いた。会わなかった一年の近況報告がある程度済んだ頃、苗字はそういえば、と思い出したように告げた。結婚するの、と。
 俺は思わず、隣に座る王子の顔色を確認してしまった。

「そうか、それはめでたいね」

 予想に反し、王子は穏やかな表情だった。おめでとう、と祝福を告げる。いつか、彼女の大学合格を祝ったのと同じようなトーンで。王子があまりにも涼しい顔をしているものだから、何故か俺の方がショックを受けた。

「相手は?」
「同じサークルに所属してた先輩。素敵な人よ」
「きみが選ぶなら素敵な人に決まっているだろうね。式は挙げるのかい?」
「まだ悩んでるんだけど、家族だけ呼んで小さな式を挙げようかって話をしてる」

 ビールのグラスを空けた苗字が、メニューを開く。「何か頼む?」メニューを閉じ、彼女が俺達に窺う。まだグラスにモスコミュールが残っている王子は首を横に振り、ジンフィズを飲み干した俺はシャンディガフを頼んだ。ワイヤレスチャイムを押し、オーダーを取りにきた店員に苗字は酒とつまみを頼む。

「その人と、ずっと付き合うてたんか」

 やっと言葉が出た。後から思えば、少し声に刺があった。それでも苗字は気に留めることなく、一、二、と指折り数えて「もう五年、かな」と答えた。

「知らんかったわ、おまえに彼氏居るの」
「わざわざ伝えることでもないかと思って……」

 隣でくすりと笑う声がした。苗字から王子に視線を移すと、目が合った王子が「嫉妬かい? みずかみんぐ」と揶揄うように言う。「ちゃうわ、アホか」ただでさえ関西人特有の早口なのに、いつも以上に口が回るのが早くなって、必死さが溢れてしまう。やってもうた、と気付いた時には遅い。王子も苗字もニヤニヤしながら俺を見ている。どうにも居心地が悪い。影浦のサイドエフェクトってこんな感じだろうか。急にあいつが不憫に思えてきた。

「お待たせしました〜」

 丁度良いタイミングで店員が運んできてくれたシャンディガフを、ごくりと呷るように飲む。

「……幸せにして貰えよ」
「して貰うんじゃなくて、二人で幸せになるんだよ」

 苗字は俺の知らない誰かを思い浮かべながら微笑む。俺はそれが、何故か酷く寂しい。なんやねん、一人で勝手に大人になるなや。


*


「マジか、寝よったぞこいつ」

 三杯目のグラスを空けた頃、王子は机に突っ伏してすやすやと穏やかな寝息を立て始めた。

「まあまあ、ちょっと寝かせてあげようよ」

 グラスを空けた苗字は、再びメニューを手に取る。全然飲めません、みたいな大人しそうな顔して、俺達の中で誰よりも良く飲む奴だ。全員が成人して初めて三人で飲んだ日、次々と空になるグラスにちょっと引いたのを昨日のことのように思い出せる。

「水上も何か飲む?」
「まだえぇわ」

 苗字は店員を呼び、梅酒の熱燗を頼む。なかなか渋い。店員の背中を見送って、苗字は水の入ったグラスに付いた水滴を人差し指で掬った。苦笑いを零す。「ずっと水上のこと好きでいてあげられなくてごめんね」と。唐突で、だけれどなんとなくそういう流れになりそうな予感もあったから、俺はただ水を呷って、酒で荒れ始めた喉を潤す。続きを促すように、苗字に視線を遣った。

「気付いてたでしょう? 私が水上のこと好きなの」
「……まあな」

 嘘を吐いて誤魔化すような場面でもない。もう過去の話だ。頷くと、落ちてきた髪を耳に掛けながら苗字は微笑んだ。昔から思っていたのだが、こいつのこの表情は王子のそれと少し似ている。

「別に謝るようなことちゃうやろ。十年近く同じ人間を好きでいる方が異常や」
「それはそうだけど、水上が言うと説得力がないねぇ」

 酒が運ばれてくる。店員はついでに、俺が使っていた灰皿を交換してくれた。「どういう意味や」やや声を尖らせて問い掛けてみるものの、苗字の口角は綺麗な三日月を描くだけ。聞かなくても分かるでしょう、とでも言いたげに。

「あの頃の私達、本当に危ういバランスで成り立ってたと思うの」

 箱から新しい煙草を取り出し、火を点ける。

「……まあ、それはそうやな」

 当時、同じことを感じていた。自分達があのバランスで成立していたことが不思議だったし、あのバランスでも成り立つような俺達だったからこそ、今も続いているような気もする。

「私と友達で居てくれてありがとう」

 急に真面目なトーンで礼を言われたものだから、煙草の煙が気管に入って咽せた。「なん、やねん急に」胸を叩いて呼吸を整える。友人が苦しんでいるというのに、苗字はくすくすと笑っている。この笑顔が俺でも王子でもない他の男のものになったのだという事実が、じわじわと実感に変わっていく。むかむかと腹が立つような心地になるのは、王子の言う通り『嫉妬』なのだろうか。自分の中にそんなダサい感情があったとは。

「急なんかじゃないよ、ずっと思ってた」

 ありがとう、ともう一度苗字は言った。なんだか照れ臭くなって視線を落とす。規則正しく肩を上下している王子の髪を撫でた。

「結婚おめでとう」

 先程は言えなかった言葉を、今度こそちゃんと伝える。「イチ抜けやな」と言えば、「抜けてなんかないよ」と返ってくる。こういうことを、自然と言ってしまえるところが好きだった。友人として、好きだった。


*


 閉店の三十分前に店員がラストオーダーを取りにきて、温かいお茶を三杯だけ頼んだ。結局ずっと寝ていた王子を叩き起こし、いつもは割り勘のところを今日は俺と王子が払った。安い結婚祝いだ。
 苗字をホテルまで送り届け、俺と王子は並んで夜の三門を歩く。俺達が高校生だった時に比べると、三門には随分光が増えた。夜中でも街灯やコンビニ、家庭の灯りのおかげでそこそこ明るい。

「ぼくたちも結婚しようか」

 突然、なんの脈絡もなく王子は言った。さっきまでは新たにボーダーに融資してくれそうな企業について話していたはずだ。それがどうして、急にそんな話になった。

「誰とやねん。恋人すら居らんわ」

 自分で言っていて虚しくなる。俺もいい加減、もう少しまともで報われる恋愛がしたい。『水上が言うと説得力がないねぇ』苗字の言葉がリフレインする。うるさいわ。

「ぼくとに決まってるだろう?」
「…………は?」

 思わず足を止めた。今何か、あまりにも都合の良い聞き間違いをした気がする。
 先を歩いていた王子も歩みを止め、俺を振り返った。あいつに良く似た微笑みが湛えられている。人工的な明かりだけでなく、月明かりも正しく王子を照らしている。真っ直ぐ見ていると目が眩みそうだ。あいつはこの男のことを、綺麗だとか美しいとか言っていた。つい納得してしまいそうになる。癪だ。惚れた弱み? うるさいって言うとるやろ。そんなもんクソ食らえや。俺はこいつを神様やと思ったことなんざ一度だってない。あいつみたいにこいつを信仰していない。こいつがどうしようもなく普通なただの人間だと知っていて、分かっていて、その上で好きなだけだ。

「みずかみんぐ、きみが好きだよ」

 それは、何年も前からずっと欲していて、だけども諦めていた言葉だった。

「でも、おまえは苗字のことが、」

 王子はふっと吹き出し、俺の元に戻ってくる。

「十年近く同じ人間を好きでいる方が異常、なんだろう?」
「起きとったんか」
「頭はほとんど寝ていたけどね」

 手の届く距離まで来た王子を、抱き締めても良いものかと戸惑う。そんな俺の躊躇いまで包み込むように、彼はぎゅっと抱き付いてくる。

「十年近く好意を向けられていたら、さすがのぼくも心動かされるというものだよ」

 耳元で囁かれるのがどうにも痒い。夢を見ているみたいだ、と表現するのはやはり癪に障るけれど、それ以外に良い言葉も見付からなくて困る。

「……待たせ過ぎや」
「勝手に待っていたくせに良く言うよ」

 こいつほんまに俺のこと好きなんか? 辛辣にも程があるやろ。酔っ払って適当なこと言ったんとちゃうやろな。訝りながら横を向くと、想像していたよりも至近距離に居た王子が俺に口付けた。しかも、割と深めに。

「すっ飛ばし過ぎやろ!」

 王子の肩を強く押して止めさせる。口端の涎を拭いながら、「年相応だろう」と不満げに王子が言う。おい、こういう時に年齢を出してくんな。一途に思い続けて無駄にした時間の長さを実感するやろうが。

「ねぇ、みずかみんぐ」

 王子は俺の手を握って歩き出す。ご機嫌だ。やっぱり酔っとるな、こいつ。明日の朝、絶対おんなじことを言わせたろう。もし忘れてたらぶん殴って縁を切る。……なんて、取り敢えず今夜は同じ部屋に帰ることを確定させている辺り、なんだかんだ俺も浮かれている。

「ぼくと友達で居てくれてありがとう」

 だからそろそろ、違う名前の付いた関係になっても良いと思わないかい? 王子一彰の提案はいやに魅力的で、俺は長年の想いがようやっと報われた喜びと、目の前の男への愛しいくらいの憎らしさを噛み締めながら、ただ手を握り返した。返事はそれで充分だろう。




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -