フールズ・メイト



 ポーンを二マス前に進める。プラスチックの板の上で、動かした駒はことりと音を立てる。「チェック」静かに宣言する。つい先日、「将棋の『王手』よりチェスの『チェック』の方がかっこよくない?」と言う私に「わざわざ優劣つけることちゃうやろ」と水上敏志が呆れていたのを思い出す。水上は大抵、私の言うことを肯定もしないし否定もしない。
 王子一彰は顎に手をやって暫し考える姿勢を見せた後、彼と似たような名を冠した駒を倒した。降参だ。「十一対十一、追い付かれたね」負けたというのに嫌味のない爽やかな笑みだった。「ありがとう」「こちらこそ」軽く頭を下げ合って、終局。私は凝った背中と肩をぐっと伸ばす。感想戦をする間もなく、次の局の為に二人、駒を並べ直す。先の局は私が白、王子が黒だったから、今度は先手と後手を交代する。
 茜さす教室の隅っこは、世界の終わりみたいな空気をしている。絶望とか、暗澹とか、そういう悲しいものを孕んだそれではなく、穏やかな終わり。四年前のそれとはまた違ったものだ。吹奏楽部の演奏や運動部の掛け声は、別世界の音のように耳に届く。まるで世界はたった二枚のレイヤーで構成されていて、『私と王子』と『それ以外』に分けられているかのようだった。

「王子は、神様って信じる?」

 駒を並べ終え、少しだけ休憩時間を挟む。私は机上のペットボトルを手に取り、キャップを捻った。最初に開封してからやや時間の経ったサイダーは炭酸が抜けて、甘ったるいだけの水になっている。窓の外を見ていた王子が私に視線を向けて、「それが今回の質問かい?」と微笑む。そう、と私は首肯する。夕の光を受けながら口角を上げる彼はあんまりにも美しくて、絵画から飛び出してきたようだ。彼が私と同じ次元で、同じ地面に立って生きているということを、時々疑いたくなる。もしかして彼は、異世界から迷い込んできてしまったのではないだろうか。今流行りの異世界なんたら。あるいは、暇を持て余した神のなんたら。
 月曜日の放課後、約一時間。水上の補習(そんなもの受ける必要がないくらいに成績が良いくせに、「あの先生の授業おもろいんよな、ってか授業よりたまに飛び出す昔話がおもろい」なんて理由で取ったらしい)が終わるのを王子と二人、教室で待つ。チェスをして過ごすようになったのはいつ頃からだったろうか。最初は宿題をしたり、ただ話をしたりしていた。ある日、家から持ち運び用の簡易なチェスセットを持ってきて、彼を対局に誘った。一局二局だけのつもりが恒例になった。私も彼も幼少期からチェスに触れていたおかげか同じくらいの強さで、毎回良い勝負になった。
 何か条件を付けようか、と言い出したのは王子だった。確か、五、六局を超えた辺り。二人で相談して、勝った方が負けた方に一つ質問出来る、というルールを定めた。負けた方はどんな質問であっても、必ず正直に回答しなければならない。その代わり、相手を過度に困らせるような質問をしてはならない。何を訊こう、逆に何を訊かれるのだろう、と思考を巡らせることは、対局の面白さと緊張感を増幅させていた。
 今のは二十九局目だった。十一勝十一敗、七引き分け。そしておそらく、次の一局が最後だ。今日で水上の受けている補習は終わる。残された時間はおよそ一局分。三十というキリの良い数字も、長い戦いを締めるに相応しいだろう。

「信じないよ。だって信じるにはあまりに根拠が薄いじゃないか、神様っていうのは」

 さて、始めようか。再戦の合図に姿勢を正す。お願いします、と頭を下げて対局開始。今回の先手は王子だ。
 試合が始まっても会話は続く。

「根拠って、例えば? どんな情報があれば王子は神様を信じられるの?」
「ぼくの前に姿を現してくれたら信じられるかもね」
「そりゃあ目に見えるものなら誰でも信じられるでしょ」

 思わず笑いが漏れる。どうやら、王子は神様の存在を断固として否定したいらしい。

「でも分かるよ。私も前までは、神様なんて信じてなかった」

 王子の中にもこれが最後だという意識があるのだろう。互いに思考時間が長くなる。
 甘い水で喉を潤すけれど、妙な粘っこさが喉に残る。そもそも、私はあまり炭酸飲料が好きではない。なら何故これを買ってしまったのかというと、期間限定のパッケージに惹かれてしまったからだ。桜があしらわれた春だけのパッケージ。しかし外見が良くても中身を急に好きになれる訳もなく、ちびちびと飲んでいたら生ぬるくなってしまった。

「驚いたな。きみは無神論者だと思ってたよ」

 駒を動かした王子が、顔を上げて私と視線を絡める。ぱちぱちと瞬く目が彼の驚きを伝えてくる。

「どうして?」

 チェスにはタッチアンドムーブというルールがある。一度意図的に触れたならば、必ずその駒を動かさねばならないというルールだ。だからどの駒を動かすかを決めるまで、私は机の上で指を動かす癖がついた。ピアノを弾くみたいに。昔、数年間ピアノ教室に通っていたせいかもしれない。

「きみこそ、目に見えないものは信じないタイプだろう?」
「そうね」

 動かす駒を決めて、手を伸ばす。「この目で見たから、信じるようになったの」ポーンを一マス前に。駒を置いて、手を引く。

「私の神様は君だよ」

 どんな反応をされるか。やや怯えながら彼を見遣れば、彼は何も言わず、ただ微笑んだ。今度はあまり迷わず、次の手を打つ。
 私は相変わらず少し迷う。ナイトを手に取る。「ずっと」置いた駒が静かな音を立てる。「君では駄目な理由を考えてた」

「答えは出たかい?」

 それは、先週私が保留にした質問だった。「どうしてぼくでは駄目なんだい?」勝者の彼が、敗者の私に回答を求めたその問いに、私はどうしても納得のいくような答えを出すことが出来なかった。考えたいから少し待って欲しい、と乞った私に、チェスでは『待った』は御法度だよ、とちょっとした嫌味を言いながらも、彼は許可をくれた。
 王子が駒を動かす。次は私が。

「君は、私の神様だから」

 盤面は進む。話も進む。私にはもう、彼の顔を見る勇気がなかった。次々と駒が動かされるチェス盤を見ながら、この一週間考え続けてきた答えを伝えた。

「君を初めて見た時、こんなにも美しい生命体が存在していたということに驚いたのを、今でも覚えてる」

 喉に残るサイダーのように、先週の王子の言葉が頭に残って消えない。「きみが好きだよ」優しくて、穏やかで、真っ直ぐな声が。私の神様の、温かな微笑みが。

「あの日から色んなことがあったけれど、ずっと、君は私の神様なの」

 神様なんて信じていなかった。だって見たことがなかったし。それにもし神様が居るなら、この街があんな地獄みたいな目に遭うのを止めてくれたって良かったはずだ。仮に本当に神様が居るのだとしても、あの侵攻を笑って見ているような神様なら要らない。……そう、思っていた。

「ごめんね王子、私は神様に恋は出来ないよ」

 三門市立第一高等学校で、私は同い年の神様に出会った。彼を信仰した。彼を神様として愛することは出来れども、一人の男として恋することは出来なかった。
 同級生を神様扱いするのなんて異常なことだと、歪んでいると、知っている。彼が本当はただの人間であることだって理解しているのだ。それでも、この感情に付ける『信仰』以上に相応しい名前が分からない。私は可笑しい。可笑しくても良い、それでも好きだと王子は笑ってくれる。
 王子は何も言ってくれなかった。淡々と試合だけが進む。チェスにはプレイ中は静粛に、というルールもある。あくまで本格的な試合に適用されるルールであって、いつもの試合中であれば雑談に花が咲く。二人きりの教室をこれほどまでに長い間、無言が支配することはなかった。

 ──それから、どれくらい時間が経っただろう。駒を動かして、時計を見遣る。もうすぐ水上の補習も終わる頃だ。視線を時計から、王子へ。「引き分けだね」王子の言葉に私は頷く。深く、息を吐く。
 チェスには引き分けがある。先手の勝率が約四十パーセント。後手の勝率は三十パーセントを切るのに対し、引き分けの確率は三十パーセントを超える。引き分けをチェスの欠陥だと言う人も居るけれど、私はそうは思わない。停滞した試合を早々に切り上げ、やり直すことも出来るし、自分が勝てそうにない試合は引き分けに持ち込むことで負けを回避するという戦略もある。引き分けはチェスを面白くする為のルールの一つだ。今、私が打ったのが五十手目。五十手の間、駒の取り合いがないとその試合は引き分けになる。なんとなく、互いにその結果に向かっているのだろうという気はしていた。三十局にも及ぶ私達の戦いの終わりに、勝敗をつけたくなかった。つけられなかった。先にも述べた通り、引き分けは『次の試合』に持ち込む為のルールと言える。だけど私達には『次』がない。だというのに、この結果を選んでしまった。

「どうしてきみが泣くんだい?」

 王子は私の顔を見て笑い出す。言われて、自分が泣いていることに気付いた。ぽたぽたと落ちる雫が、スカートに染みを作る。王子の笑顔が滲んで歪む。

「だっ、て、」
「だって?」

 言葉が出てこなくなる私を笑いながら、王子は急かさずに待っていてくれる。

「だって、こんな時でも王子が美しく笑うから」

 ぱちり、瞬き。それから彼は目を眇める。ふっと唇が弧を描く。

「きみが好きだよ」

 それは、もう聞いた。なのに私を追い詰めるように、王子はまたその告白を口にする。
 いよいよ涙が止まらなくなって、ただしゃくり上げるしか出来なくなる。
 王子が机上のペットボトルに手を伸ばした。自分のミルクティーではなく、私のサイダー。彼は残っていた一口分のサイダーを飲み干し、「不味いね」と呟く。空になったペットボトルを投げて、私の背後にあるゴミ箱に入れた。がこん、と大きめの音が鳴った。ガラガラと教室の扉が開く音がしたのを掻き消すかのようだった。

「待たせた……いやいやいや、なんでやねん」

 教室に入ってきたのはやはりというか、私達を迎えにきた水上だった。彼はこちらに駆け寄ると、床に膝をついて私と視線の高さを合わせる。私の髪を耳に掛けて泣いていることを確かめながら、「おまえが泣かしたんか」と王子の方を見た。

「そうかもしれない」
「かもしれないってなんやねん……」

 水上の学ランの裾を掴む。違うのだ、と伝えたくて首を横に振る。違う、私が勝手に泣いただけだ。王子は何も悪くない。王子はいつだって優しい。彼が悪いことなんて一つもない。
 水上は困ったように眉を顰め、溜め息を吐く。「泣くな泣くな、そんなにコテンパンにやられたんか?」私の後ろ頭に回された水上の右手が、私を彼の胸元へと引き寄せる。あやすように、彼は私の背中をぽん、ぽん、と叩く。幼い子供を相手にするみたいに。

「ねぇ」

 王子の声が鼓膜を揺らす。「きみは神様に恋が出来ない訳じゃないよ」と。こんな私には優し過ぎる程に、穏やかな声で。

「きみが恋した相手が、偶然人間だっただけさ」

 なんの話しとんねん、と困惑するような声が頭上から降ってくる。きっと、悲しいくらいに君の言う通りだ。ごめん、と口から謝罪の言葉が漏れる。好きになれなくてごめん。

 ──水上は大抵、私の言うことを肯定もしないし否定もしない。そういうところが好きだった。王子は例え私の感情についてであっても、こうやって遠慮なく否定する。そういうところを、愛していた。信仰していたのだ。




×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -